2020年8月2日日曜日

無明③(無常その3)

私たちの「身体」「健康」「若さ」「考え方」

「気分」「好き嫌い」「趣味」「命」

に至るまで正に「すべては無常」なのです。

それは10年前と比べるとよくわかるでしょう。

身体や健康、若さはもちろん変わると

自覚しやすいことでしょう。

考え方も10年前と同じとは

言えないのではないでしょうか。

「昔より気が長くなった」とか、

「最近イライラする」とか、

「あんなに嫌いだったものが好きになった」とか、

「まさか僕が絵を描くようになるとは思わなかった」など、

挙げればきりがありません。

「自分の死」もそうです。

鎌倉時代の歌人、吉田兼好の『徒然草』には

このように書かれています。 

「死期はついでを待たず。死は前よりしも来たらず、
かねて後ろに迫れり。人皆死ある事を知りて、待つこと、
しかも急ならざるに、覚えずして来る。
沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるがごとし」

兼好法師は、春夏秋冬、季節の移り行く様を

ご覧になり、それを我が身にあてはめて、

死ということををじっと見つめられました。

「四季が移り変わるには順序があるが、

死に至ることには順序はない。

死というものは前から順を追って

やって来るとは限らない。

かねてから人の後ろに迫ってきているのだ。

人はみな、死があることを知っているけれども、

その覚悟が切実になっていないうちに、

死が不意にやってくるのだ」

更にこの、死ぬということを、

潮が満ちることに譬えておられます。

海辺から沖まで続く干潟を見て、

まだまだ潮が満ちて来るには時間があると思っている。

綺麗な景色だなどと呑気なことを

思っているけれども知らないうちに

磯から潮が満ちてきて、足元が冷たくなって

初めて気づき、驚くのです。

私たちは勝手に向うに見える干潟から

潮が満ちてくると思い込んでいます。

しかし実際には干潟よりも今立っている

磯の方から潮が満ちてくることがあります。

まだまだ潮が満ちるには早いと

思っているけれども知らない間に潮が満ちてきて

足元を濡らすのです。

私達の死に対する認識もこれと

変わらないのではないでしょうか。

まだまだ死ぬには早いと思って、

目先のことばかりに振り回されて生きていないか?

ということです。

死というものは勝手に前からやって来ると

思っていますがそうとは限りません。

知らない間に足元まで迫ってきているのです。

後ろから、足元からやって来ることも、

頭の片隅ではわかってはいるけれど、

実際の自分が関わるとは思っていません。

このように「無常」という事実は「当たり前」で

ありながら、本当に理解することは極めて困難です

『徒然草』
吉田兼好
現代語訳・三木紀人


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