2020年8月30日日曜日

所求・所帰・去行⑥(十悪 殺生その二)

映画監督であり漫才師の北野武氏が

 

『新しい道徳』という著書の中で

 

このようにおっしゃっています。

 

 

《食い物っていうけれど、それは他の生き物の命だ。豚や牛はもちろんだけど、魚だって、いや稲だって、菜っ葉だって、それは元はと言えば生きていた。食い物は他の生き物の命そのものだ。どんなに科学が進歩しようが、それは変わらない。

人は他の生き物を殺して生きている。そんなことは誰でも知っているというかもしれない。

けれど、その認識が本当にあれば、自分の目の前に置かれた食い物に対して、そんなに簡単に旨いとか不味いとか言えるものではない。

俺の母親が、食べ物の旨い不味いをいうのは下品だといったのは、そういう意味もあったんだろうと今は思っている。

昔の人は偉かった。だけどそれは、彼らが俺たちより優れていたからではなく、食い物が今よりもずっと貴重で、そして身近にあったからだろう。鶏肉を食うには、鶏を殺して羽根をむしらなくてはいけない。豚肉を食うには、豚を殺して解体しなくてはいけない。そういう現場が人々の身近にあった。

生き物を殺してそれを喰っているという実感をみんなが持っていた。

自分の手の中で鶏の命が消えていくのを経験すれば、どんな人間だって、食べるということにもう少しは謙虚になるはずだ。

だけど今や肉や魚はスーパーの棚に並んだモノでしかなくなってしまった。そういう意味で現代人は道徳的に堕落している。

いや、ずっと昔から人間は堕落していたのかもしれないけれど、その堕落に歯止めがかからなくなってしまった。自分たちの欲のままに、ほんの少しの便利のために、膨大な面積の森を切り開いたり、石油を掘り尽くしたりしているのはそのせいだと思う。

そういう大きな問題には目をつぶって、挨拶をしようとか礼儀正しくしようなんて、考えてみれば些末な問題を道徳だなんていっているわけだ。

アフリカで飢餓に苦しんでいる子どもたちが、日本の道徳の教科書を見たら、きっとよく理解できないんじゃないだろうか。

それとも平和な日本を羨ましく思うのだろうか。

様々な問題はあるけれど、日本で暮らす俺たちは、世界標準で見ればあり得ないくらい、平和で幸福な日々を生きている。

子供達に教えなければいけないのは、まずそういうことだと思う。その幸福が、どういう犠牲の上に乗っているかをよく考えもせずに、道徳を語ってはいけない。

食事をする前に「いただきます」ということを教えるだけではなくて、その自分がいただくものがどういう風にして食卓に載ったのかをすべて見せたらいい。牛や豚がどうやって育てられ、殺され、肉になって、俺たちの「食事」になるのかを、話すだけではなくて実際にその目で見て経験させたらいい。

豚を飼ってそのことを子どもたちに教えようとした教師がいた。彼の考え方はとてもまっとうだと思う。残酷だという批判がたくさんあったらしいが、それは違う。

豚を殺すことを残酷というなら、人は残酷なことをしなければ生きられないのだ。そのことを隠して子供を育てる方がよほど残酷だと俺は思う。

本当のことを知れば、子供の心は動く。どう動くかは子供次第だ。

なぜそんなことをするのかと聞かれたら、自分なりの考えを伝えたらいい。泣く子もいるだろう。本を読む子供もいるだろう。動物を飼う子もいるかもしれない。そして子供は考える。その「考える習慣」をつけてやること以上の道徳教育はない、と俺は思う。》

 

 

我が身につまされる思いがいたします。


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