阿弥陀さまが来迎(らいこう)してくださることによって
「死にたくない!」という執着から解き放たれ、
不安なく、安心して極楽浄土へ往生させていただく
ことができます。
このように臨終の時に「心穏やかに」なることを
「正念(しょうねん)」といいます。
法然上人がこの教えをお説きくださるまで、
大きな誤解が広まっていました。
それは「心穏やかに、正念になっていないと
阿弥陀さまは来迎してくださらないのだ」
という考え方です。
この考え方によると、臨終間際に
「三種の愛心(さんしゅのあいしん)」に苛まれ、
苦しんでいる時にも「心を正念にして」いないと
阿弥陀さまがお越しくださらない。
そして、心が乱れたまま命尽きた人は
「残念ながら極楽へは往けません」
ということになってしまいます。
法然上人は、この考えに異を唱えておられます。
「阿弥陀さまが臨終を迎える人をご覧になって、
あの人は身も心も鎮めて落ち着き、
正念になっているから迎えに行こう、
とおっしゃっているのではない。
それまでにお念仏を称えてきた人には、
どれだけ苦しみもがいていても、
間違いなく阿弥陀さまの来迎があり、
その来迎を見て、身も心も静かに落ち着いて
正念になるのだ」
このように既存の考え方を大きく転換なさったのです。
ですから、このような疑いが出てもご安心ください。
「ウチの父は念仏を称えてきたけれど、
死の間際は病で苦しみもがきながら
息を引き取りました。
ウチの父には来迎はなかったのでしょうか?」
私たち凡夫には阿弥陀さまが来迎してくださる瞬間は
残念ながら見えません。
呼吸が止まった時なのか、
その前なのか、もっと後なのか。
しかし、どこかの瞬間に必ずお迎えを受けておられます。
仮にギリギリまで苦しんだとしても、
来迎を見た時に、「正念」になるのです。
要は「来迎」の有無は
「今まで念仏を称えてきたかどうか」に尽きるのです。
もし、「ウチの人はお念仏なんて称えたことがありません」
というのでしたら、
どうか親しい皆さま方がお念仏を称えて
送って差し上げましょう。
このことを大切な方が亡くなった、
ずっと後に知ったとしたら、
その時からあなたがお念仏を称え、
阿弥陀さまの救いを願いましょう。
それがいつであっても遅くはありません。
今初めて知ったのなら、
今この瞬間から称えていきましょう。