2021年4月8日木曜日

一枚起請文② 観念の念仏にあらず

今回から本文を解説してまいります。

 

本文

「もろこし我が朝(ちょう)に、

もろもろの智者達の沙汰し申さるる、

観念の念にもあらず。」

 

現代語訳

「〈浄土宗の念仏は、〉中国や日本において、

多くの智慧(ちえ)ある学僧たちが

議論なさっている、

仏を観想(かんそう)によって

見ようとする念仏でもありません。」

 

「もろこし」は「唐土」とも書き、

 

今の「中国」を指します。

 

「我が朝(ちょう)」は「日本」です。

 

念仏は「仏を念じる」と書きます。

 

「念じる」というのは普通「心で思う」ことです。

 

浄土宗でいう「念仏」は「称名(しょうみょう)念仏」

 

といって、「声に出す」念仏です。

 

今の私たちは「念仏」といえば、

 

「称名(しょうみょう)念仏」のことだと

 

思い込んでいますが、

 

実は、念仏にはいくつかの種類があります。

 

その内の一つが「観念の念」です。

 

『浄土三部経(じょうどさんぶきょう)』の中、

 

『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』には

 

「極楽浄土」や「阿弥陀仏」「観音菩薩」「勢至菩薩」

 

を目の前に映し出すための瞑想のやり方が

 

記されています。

 

簡単に申しましたが、もちろん非常に高度で

 

難しい修行ですから、実際にできる人は殆どいません。

 

その瞑想の境地を三昧(さんまい)といいます。

 

善導大師(ぜんどうだいし)や法然上人は、

 

その「三昧の境地」を体験されています。

 

ただ、私たちにそれができるかと言えば・・・

 

現実的ではありません。

 

阿弥陀さまが、もし、極楽浄土へ往くための条件を

 

「三昧の境地に達したならば」とされたならば、

 

私たちは極楽往生の望みを絶たれたことになります。

 

しかし、阿弥陀さまはそんな困難な修行を

 

極楽往生の条件にはなさいませんでした。

 

極楽浄土へ往くための条件は、ただ一つ。

 

「我が名を呼べ」です。

 

「阿弥陀仏の名を呼ぶ」、

 

すなわち「南無阿弥陀仏と称える」ことが

 

極楽浄土へ往生する唯一の条件なのです。

仏説阿弥陀経⑪

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