2021年4月30日金曜日

真身観文(しんじんがんもん)①

今日から「真身観文(しんじんがんもん)」


について、お伝えしてまいります。


浄土宗のおつとめでもよく読まれるお経です。


「真身観文(しんじんがんもん)」は、


浄土三部経の一つ、『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』に


所収されているお経です。


『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』の内容は


「瞑想して極楽や阿弥陀仏、観音勢至菩薩を


観る」という修行を説くことが大半を占めています。


それにも関わらず、一番最後に釈尊が


「でもそんな難しい修行ができない者は


南無阿弥陀仏と念仏を称えて阿弥陀仏に救いを求めよ。


そしてその教えを末代まで届けてくれよ」と


お説きになるという大逆転のお経です。


『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』の


「下品下生(げほんげしょう)」から最後までは


以前上げましたので、そちらをご覧ください。



下品下生

https://hourinji.blogspot.com/search/label/%E4%B8%8B%E5%93%81%E4%B8%8B%E7%94%9F%EF%BC%88%E3%81%92%E3%81%BB%E3%82%93%E3%81%92%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%86%EF%BC%89



では、念仏以外の瞑想修行(観法、観想、観念などといいます)


は必要ないのか?というと決してそんなことはありません。


浄土宗の教えは、「極楽浄土への往生を願い、


阿弥陀仏にすがって、南無阿弥陀仏と念仏を称える」


というものです。


その願うべき極楽浄土がどういう所なのか、


すがるべき阿弥陀仏がどんな仏さまなのかが


全く不明であったら、願いようもすがりようもありません。


実際に瞑想して極楽浄土や阿弥陀仏を目の当たりに


観ることは至難の業ですが、「こんなところなのか」と


イメージして欣慕することは大切なことです。



観察正行

https://hourinji.blogspot.com/2020/12/blog-post.html



今回のテーマである「真身観文(しんじんがんもん)」は、


「阿弥陀仏とはどんな仏さまなのか」が


説かれる箇所です。


「こんな素晴らしい仏さまなのか」と


イメージしていただき、信仰の糧に


していただきたいと思います。


2021年4月29日木曜日

真身観文(しんじんがんもん)②

 (本文)


仏、阿難(あなん)および韋提希(いだいけ)に


告げたまわく。


この想(そう)成(じょう)じおわりなば、


次にまさにさらに無量寿仏(むりょうじゅぶつ)の


身相光明(しんそうこうみょう)を観ずべし。




(現代語訳)


お釈迦さまは阿難(あなん)と韋提希(いだいけ)に


このようにお話しなさいました。


この観想(かんそう)ができたなら、


次には阿弥陀仏のお身体の特徴と光明を観るべきです。


※この観想…観無量寿経で真身観文の直前に説かれる

 像想観(ぞうそうかん)という観想のこと





(解説)


「真身観(しんじんかん)」は別に


「仏身観(ぶっしんがん)」ともいいます。


阿弥陀仏のお身体の特徴と、阿弥陀仏から放たれる


慈悲の光を思い浮かべてみましょう。


2021年4月28日水曜日

真身観文(しんじんがんもん)③

 (本文)


阿難(あなん)まさに知るべし。


無量寿仏(むりょうじゅぶつ)の身(しん)は、


百千万億(ひゃくせんまんのく)の夜摩天(やまてん)の


閻浮檀金(えんぶだんごん)の色(いろ)のごとし。




(現代語訳)


阿難(あなん)よ、以下のことを知るべきです。


阿弥陀仏のお身体の色は、百千万億もの


夜摩天(やまてん)にある閻浮檀金(えんぶだんごん)の


色のようです。





(解説)


まずは「阿弥陀さまの色」です。


阿弥陀さまは、百千万億夜摩天(やまてん)にある、


閻浮檀金(えんぶだんごん)という、


最上なる金色を百千万億合わせたほどの


金色に輝いていると説かれています。


私たちの世界には肌の色が白い人々、黒い人々、


黄色い人々などがいて、差別や区別が行われています。


極楽浄土に生まれた人はみんな金色に輝いています。


金は色あせたり変色することがありません。


ですから不変の色として、


阿弥陀仏も極楽に生まれた方々も等しく


金色に輝いておられるのです。


2021年4月27日火曜日

真身観文(しんじんがんもん)④

 (本文)


仏身(ぶっしん)の高さ、六十万億(ろくじゅうまんのく)


那由他(なゆた)恒河沙由旬(ごうがしゃゆじゅん)なり。




(現代語訳)


阿弥陀仏の背の高さは、六十万億(ろくじゅうまんのく)


那由他(なゆた)恒河沙由旬(ごうがしゃゆじゅん)です。





(解説)


次に阿弥陀さまの背の高さです。


阿弥陀さまの身長は


六十万億那由他恒河沙由旬


(ろくじゅうまんのくなゆたごうがしゃゆじゅん)


と説かれています。


由旬(ゆじゅん)はサンスクリット語のヨジヤナの


音訳で、距離の単位を示します。


一由旬は約7キロメートルです。


那由他(なゆた)もサンスクリット語の音写で、


数の単位を表す言葉です。


恒河沙(ごうがしゃ)はガンジス川の砂の数ですから、


無数を表します。


ということは、六十万億那由他恒河沙由旬は


もはや数字で表すことができないほど大きいことを


示しているといえます。


お経にはこのように、とんでもない高さや大きさが


表現されることがしばしばあります。


このような表現はそもそも、


世俗の単位や価値観によるものですから、


覚りの世界の価値観とは異なるはずです。


しかしながら、覚っていない凡夫に、


覚りの世界を紹介しても理解できません。


だから「仮に俗世間の価値観でいうならば、


こんなに大きいのだよ」と表現せざるを得ないのです。


数えることのできない数量を説いて、


仏の偉大さを表しているのだとお受け取りください。


2021年4月26日月曜日

真身観文(しんじんがんもん)⑤

(本文)


眉間の白毫(びゃくごう)は右に旋(めぐ)って


婉転(おんでん)せり。


五須弥山(ごしゅみせん)の如し。




(現代語訳)


眉間にある白毫(びゃくごう)は、


右回りに巻いていて、「須弥山(しゅみせん)を


五つ合わせたほどの大きさ」と表現されているのです。




(解説)


仏さまのお姿で私たちと異なる箇所の一つに


眉間の白毫(びゃくごう)があります。


眉間の点は飾りでもなければホクロでもありません。


白く長い毛が右に巻いて、眉間に収まっているのです。


その大きさが、「須弥山(しゅみせん)を


五つ合わせたほど」だというのです。


「須弥山(しゅみせん)」とは


古代インドの世界観で、


世界の中央にそびえるとされる大きな山の名前です。


須弥山の大きさもとてつもない数字で表されていますが、


ただ「大きな山五つ分」というだけでも十分でしょう。


そんな大きさの「白毫(びゃくごう)」が


眉間に収まっているというのですから、


阿弥陀さまのお顔もお身体もとてつもなく


大きいことがイメージできます。


2021年4月25日日曜日

真身観文(しんじんがんもん)⑥

(本文)


仏眼(ぶつげん)は四大海水(しだいかいすい)のごとし。


青白分明(しょうびゃくふんみょう)なり。




(現代語訳)


阿弥陀仏の眼は、四方にある大きな海のようです。


その瞳の青い部分と白い部分がはっきりと分かれています。




(解説)


次は阿弥陀さまの目の大きさです。


四大海水(しだいかいすい)ほどの大きさです。


四大海水とは、前回出てきた「須弥山(しゅみせん)」の


周りにある四方の海のことです。


とてつもない大きさの目です。


そして瞳は青い部分と白い部分がはっきりと分かれていて、


とても美しく表現されています。


2021年4月24日土曜日

真身観文(しんじんがんもん)⑦

 (本文)


身の諸もろの毛孔(もうく)より


光明を演出(えんじゅつ)すること、


須弥山(しゅみせん)のごとし。




(現代語訳)


お身体にある数々の毛穴から、光が放たれるのは


まるで須弥山(しゅみせん)のようです。





(解説)


「お身体の数々の毛穴」というのは、


要するに「全身」を意味します。


全身金色である仏のお身体から、


光を放ち、その光の大きさが


須弥山(しゅみせん)ほどあるというのです。


阿弥陀仏は光明に輝く「光明仏」です。


光明は智慧と慈悲が偉大であることを表します。


2021年4月23日金曜日

真身観文(しんじんがんもん)⑧

(本文)


かの仏の円光は、百億三千大千世界のごとし。


円光の中において、百万億(ひゃくまんのく)


那由他(なゆた)恒河沙(ごうがしゃ)の化仏(けぶつ)あり。




(現代語訳)


阿弥陀仏の丸い光背は、百億三千大千世界のような


大きさで、その丸い光背の中に、百万億(ひゃくまんのく)


那由他(なゆた)恒河沙(ごうがしゃ)の化仏(けぶつ)が


おられます。




(解説)

阿弥陀さまのお首の後ろ肩の辺りに


円形の光明が輝いています。


これを「円光(えんこう)」といいます。


その円光からは百億三千大千世界を


照らしているといいます。


仏教では須弥山(しゅみせん)を中心に、


その周りを囲む山や海、四大洲という陸地などによって


一つの世界が作られていると考えます。


これを「須弥山世界(しゅみせんせかい)」といいます。


この須弥山世界が千集まって「小千世界」を形成します。


その小千世界が千集まって、「中千世界」を形成し、


さらに中千世界が千集まって「大千世界」を形成します。


この大千世界のことを別に「三千大千世界」といいます。


阿弥陀さまの円光から放たれる光は、


「三千大千世界」が百億集まるような範囲を


照らしてくださっているというのですから驚きです。


その円光の中には百万億那由他恒河沙


(ひゃくまんのくなゆたごうがしゃ)、


つまり無数の化仏(けぶつ)がおられるのです。


2021年4月22日木曜日

真身観文(しんじんがんもん)⑨

(本文)


一一の化仏(けぶつ)に、また衆多(しゅた)


無数(むしゅ)の化菩薩(けぼさつ)あって、


もって侍者(じしゃ)とせり。




(現代語訳)


それぞれの化仏には、また無数の化菩薩が侍者として


仕えておられます。




(解説)


化仏(けぶつ)とは、仏さまが人々を救うために


神通力(じんつうりき)を使って、我々の前に


現れてくださる身をいいます。


そのお姿が仏さまであれば「化仏(けぶつ)」、


菩薩さまであれば「化菩薩(けぼさつ)」というわけです。


大きな仏像の光背(こうはい)や冠に


たくさんの小さな仏さまや菩薩さまがおられるのを


ご覧になった方もあることでしょう。


あの小さな仏さまは化仏、菩薩さまは化菩薩なのです。


2021年4月21日水曜日

真身観文(しんじんがんもん)⑩

(本文)


無量寿仏(むりょうじゅぶつ)に


八万四千(はちまんしせん)の相(そう)あり。


一一の相(そう)に、各おの八万四千(はちまんしせん)の


随形好(ずいぎょうこう)あり。


一一の好に、また八万四千(はちまんしせん)の光明あり。




(現代語訳)


阿弥陀仏には八万四千の特徴があります。


それぞれの特徴に、更に八万四千の細かい特徴があります。


また更に、それぞれの細かい特徴には、


八万四千の光があります。




(解説)


仏さまの大きな特徴を「相(そう)」といい、


細かい特徴を随形好(ずいぎょうこう)といいます。


この相と随形好を合わせて


「相好(そうごう)」といいます。


一般に表情を変えて笑顔になることを


「相好を崩す」と言いますのは、


この仏教用語からきているのです。


普通相は「三十二相」といって、仏さまには三十二の


特徴があるといいます。



三十二相(さんじゅうにそう)

http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%BA%8C%E7%9B%B8



また随形好は「八十随形好」と言われます。



八十随形好(はちじゅうずいぎょうこう)

http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E5%85%AB%E5%8D%81%E9%9A%8F%E5%BD%A2%E5%A5%BD




ところがここでは八万四千の相にそれぞれ


八万四千の随形好(ずいぎょうこう)があり、


それぞれの随形好から八万四千の光明が


光を放っているというのですから、


明るさこの上ありません。


2021年4月20日火曜日

真身観文(しんじんがんもん)⑪

 (本文)


一一の光明、徧(あまね)く十方(じっぽう)世界を


照らして、念仏の衆生を摂取(せっしゅ)して


捨てたまわず。




(現代語訳)


それぞれの光は、あらゆる世界を照らして、


念仏を称える人々を救い取って決してお捨てになりません。




(解説)


阿弥陀さまの全身から無数の光が放たれて、


念仏を称える者を必ずや救い取ってくださるのです。


「決してお捨てにならない」というのは、


阿弥陀さまがお慈悲の手でもって、


念仏を称える者の手をしっかりと握って


離されることがないということです。


念仏を称える人は、


ただ光に照らされるだけでなく、


阿弥陀さまのお慈悲の手に我が身を委ねて


昼も夜も絶えず護っていただけるのです。


この世においては阿弥陀さまに護られ、


命尽きれば極楽浄土へと導いていただけるのです。


この一文を抜き取って、特別に


「摂益文(しょうやくもん)」といいます。


浄土宗の毎日のおつとめを


「日常勤行式(にちじょうごんぎょうしき)」といい、


この摂益文も組み込まれています。


摂益文について、以前解説していますので、


そちらもご参照ください。


摂益文(しょうやくもん)

https://hourinji.blogspot.com/2020/09/blog-post_28.html

https://hourinji.blogspot.com/2020/09/blog-post_29.html

https://hourinji.blogspot.com/2020/09/blog-post_30.html

https://hourinji.blogspot.com/2020/10/blog-post.html

2021年4月19日月曜日

真身観文(しんじんがんもん)⑫

 (本文)


その光明相好(こうみょうそうごう)および化仏(けぶつ)、


具(つぶさ)に説くべからず。


ただまさに憶想(おくそう)して、


心眼(しんげん)をして見せしむべし。




(現代語訳)


阿弥陀仏の光と特徴、そして化仏を


詳しく言い表すことはできません。


ただ想いを凝らし、心の眼で観るようにするべきです。




(解説)


真身観文(しんじんがんもん)に説かれる


阿弥陀さまのお姿や光明、化仏(けぶつ)などは、


本来言葉で言い尽くせるものではありません。


ですから瞑想修行をして心の眼で観よ、というのです。


しかしながら、凡夫(ぼんぶ)の私たちは、


心が曇って観ることができません。


そんな私たちは、お経に説かれる言葉をより所にして、


「極楽って素晴らしいところなんだな」


「先に極楽へ往ったあの人と再会したい!」


と極楽往生を願い、


阿弥陀さまから放たれる救いの光に


身を任せて、南無阿弥陀仏と念仏を称えるのみです。


2021年4月18日日曜日

真身観文(しんじんがんもん)⑬

(本文)


この事(じ)を見る者は、すなわち十方(じっぽう)


一切の諸仏を見たてまつる。


諸仏を見たてまつるをもっての故に、


念仏三昧(ねんぶつざんまい)と名づく。




(現代語訳)


この様子を見る者は、すぐにあらゆるところの


すべての仏さまを見ることになるでしょう。


多くの仏さまを見るので、念仏三昧(ねんぶつざんまい)と


名づけるのです。




(解説)


瞑想によって、阿弥陀さまと目の当たりに


対面することができれば、どれだけ嬉しいことでしょう。


そのような瞑想の境地をサンスクリット語で


「サーマディー」といい、それを音写したのが


「三昧(さんまい)」という言葉です。


贅沢三昧などと日常に使われる言葉の語源は


瞑想の境地を意味します。


このように三昧の境地に至ることができれば


仏さまと会うことができます。


しかしそのような力がなくとも、


南無阿弥陀仏と念仏を称える者が、


いざ臨終を迎える時には、阿弥陀さま自らが


私たちの目の前にお迎えに来てくださって、


対面することができます。


それを「来迎(らいこう)」といいます。



来迎関連

https://hourinji.blogspot.com/2021/01/blog-post_28.html



必ずいつか阿弥陀さまとお会いすることはできます。


安心してお念仏を称えましょう。


2021年4月17日土曜日

真身観文(しんじんがんもん)⑭

 (本文)


この観を作(な)すをば、一切の仏身(ぶっしん)を


観ずと名づく。


仏身(ぶっしん)を観ずるをもっての故に、


また仏身(ぶっしん)を見る。




(現代語訳)


この観ができれば、すべての仏のお身体を観る、


と名づけます。


阿弥陀仏のお身体を観るので、


その御心を観ることにもなります。




(解説)


このようにして三昧(さんまい)に到達できれば、


阿弥陀仏だけでなく、どの仏さまのお身体をも


観ることができます。


お身体を観ることができたら、


仏さまの御心も観ることができるといいます。


なぜなら、仏さまのお身体は、


すべて仏さまの大慈悲の御心の


あらわれだからです。


阿弥陀さまが右手を挙げておられるのは、


仏の智慧でもって、人々を救うことをあらわし、


左手を垂れておられるのは、慈悲の手をもって、


人々を導くことを示したものです。


2021年4月16日金曜日

真身観文(しんじんがんもん)⑮

 (本文)


仏心(ぶっしん)とは、大慈悲これなり。


無縁の慈をもって、諸もろの衆生を摂したもう。




(現代語訳)


仏の御心は大慈悲にほかなりません。


平等に注がれる慈悲によって、多くの人々を


救い取ってくださるのです。




(解説)


「大慈」は人々に楽を与え、


「大悲」は人々の苦を抜くことです。


すなわち「慈悲」とは「人々の苦を抜き


楽を与えること」をいいます。


そして仏の慈悲を「大慈悲」といい、


それ以外を「小慈悲」といいます。


仏の大慈悲は、苦しみの世界を生まれては死に、


輪廻を繰り返している我々を導き、


苦しみの世界から救い出して、


覚りの世界へ至らしめてくださるものです。


比べて、仏以外の慈悲は、


苦しみ多き娑婆世界にいる人々に、


一時的な精神的肉体的な楽を与えることです。


娑婆世界の楽は「楽あれば苦あり」というように、


あくまで苦に対する相対的な楽にすぎません。


「今が幸せ!」と言っていても、


必ず時は過ぎ去ります。


楽といっても、その背後には必ず苦を伴いますし、


一時的な楽にすぎないのです。


浄土の楽はそのような相対楽ではありません。


苦楽を超えた絶対楽であって、


そこには苦とよばれるものは、


何一つない「楽」なのです。


このような相対楽から離れさせて、


絶対楽の世界へ導き入れてくださるのが、


仏の大慈悲なのです。


また別の角度から慈悲を


「衆生縁の慈悲」「法縁の慈悲」「無縁の慈悲」に


分けて説かれます。


「衆生縁の慈悲」とは、凡夫が起こす慈悲で、


親が子を慈しむように、他者へ物心を与えるものです。


先の「小慈悲」と同様です。


「法縁の慈悲」は、菩薩さまなどが起こす慈悲です。


凡夫は仏の真理を知らないので、


相対楽を求めてきます。


それに対して慈悲をもって法を説くのが


「法縁の慈悲」です。


「無縁の慈悲」は、真理を知らない人々が


迷い苦しむのを哀れみ、覚りの智慧に至らせようとする


慈悲をいいます。


「仏心とは大慈悲是なり」という慈悲は、


この「無縁の慈悲」のことをいうのです。


2021年4月15日木曜日

真身観文(しんじんがんもん)⑯

 (本文)


この観を作(な)す者は、身(み)を他世(たせ)に捨てて、


諸仏の前に生じて無生忍(むしょうにん)を得(う)。


この故に智者まさに心を繋(か)けて、


諦(あきら)かに無量寿仏(むりょうじゅぶつ)を


観ずべし。




(現代語訳)


この観を行う者は、身体を我々が住む娑婆世界に捨てて、


諸仏のみもとに生まれて、「無生忍(むしょうにん)」の


境地に至ることができます。


ですから智者は心を集中させて、はっきりと


阿弥陀仏を目の当たりに観なさい。




(解説)


仏さまのお身体や御心を観た人は、


命尽きた後、身体を娑婆世界に捨て置いて、


仏さまの元で覚りに至ることができます。


繰り返し申しておりますように、


このような観法(瞑想修行によって仏や浄土を


目の当たりに観る)ことができなくても、


私たちには「南無阿弥陀仏」と


称えるお念仏があります。


阿弥陀さまが私たちのために、


「難しい修行ができずとも、


私の名前を呼ぶことならできるであろう。


我が名を呼ぶ者を必ず救い取るぞ!」と


本願にお誓いくださっているのです。


これこそが阿弥陀仏の「無縁の大慈悲」なのです。


2021年4月14日水曜日

真身観文(しんじんがんもん)⑰

 (本文)


無量寿仏(むりょうじゅぶつ)を観ぜん者は、


一の相好(そうごう)より入(い)れ。 




(現代語訳)


阿弥陀仏を目の当たりに観ようとする者は、


一つの特徴から始めなさい。




(解説)


阿弥陀さまのお姿を観たいと思っても、


八万四千の相好(そうごう)を


すべて観ることは相当な困難を要することでしょう。


ですから、まずは一つの相からチャレンジしましょう、


ということなのです。


何事も「千里の道も一歩から」です。


2021年4月13日火曜日

真身観文(しんじんがんもん)⑱

 (本文)


ただ眉間の白毫(びゃくごう)を観じて、


極めて明了(みょうりょう)ならしめよ。


眉間の白毫(びゃくごう)を見たてまつる者は、


八万四千(はちまんしせん)の相好(そうごう)、


自然(じねん)にまさに現ずべし。




(現代語訳)


ただ眉間にある白毫(びゃくごう)を目の当たりに観て、


それが極めてはっきりとなるようにしなさい。


眉間の白毫(びゃくごう)を観る者には、


八万四千の特徴が、自然に現れるでしょう。




(解説)


阿弥陀さまの相で代表的なのは


「白毫相(びゃくごうそう)」です。


私たちは観法ができませんが、


お仏壇の前に坐り、阿弥陀さまのお顔を


しっかりと拝んでお念仏をお称えしましょう。


お念仏はお仏壇の前でなくとも、


いつでもどこでもどんな時でも称えられます。


お家のお仏壇に祀られている


阿弥陀さまのお顔をしっかりと目に焼き付けておいて、


そのお顔を思い浮かべて、


いつでもどこでもどんな時でも


お念仏を称えましょう。


2021年4月12日月曜日

真身観文(しんじんがんもん)⑲

 (本文)


無量寿仏(むりょうじゅぶつ)を見たてまつる者は、


すなわち十方(じっぽう)無量の諸仏を見たてまつる。


無量の諸仏を見ることを得(う)るが故に、


諸仏現前に授記(じゅき)したまう。




(現代語訳)


阿弥陀仏を観る者は、


すぐにあらゆるところにおられる


数え切れないほど多くの仏さまを


観ることになるでしょう。


数え切れないほど多くの仏さまを


観ることができるので、


仏さま方が目の前に現れて、


「未来には間違いなく仏になる」と


予言を授けてくださいます。




(解説)


仏さまが修行者に「お前は必ず将来仏になるぞ」と


「成仏の確約」を与えることを


「授記(じゅき)」といいます。


仏さまにお墨付きをいただけるのですから、


もし授記を与えられたら


これ以上の喜びはありません。


私たちはまずお念仏を称え、


極楽浄土へ往って阿弥陀さまと


対面させていただきましょう。


極楽へ往けば、将来の成仏は確定です。


ですから、私たちは「極楽浄土へ往きたい!」


と願い、南無阿弥陀仏と称えることで、


授記を与えられるのと変わらない


ご褒美をいただくことになるのです。


2021年4月11日日曜日

真身観文(しんじんがんもん)⑳

 (本文)


これを徧(あまね)く一切の色身(しきしん)を


観ずる相(そう)とす。


第九の観と名づく。




(現代語訳)


これをあらゆるすべての仏さまのお姿を


目の当たりにする修行とします。


そしてこれを第九観(だいくかん)といいます。




(解説)


観無量寿経には十三の観法が説かれています。


日想観(にっそうかん)、水想観(すいそうかん)、


宝地観(ほうじかん)、宝樹観(ほうじゅかん)、


宝池観(ほうちかん)、宝楼観(ほうろうかん)、


華座観(けざかん)、像想観(ぞうそうかん)、


真身観(しんじんかん)、観音観(かんのんかん)、


勢至観(せいしかん)、普観(ふかん)、


雑想観(ざっそうかん)です。


真身観は第九番目に説かれていますので、


第九観(だいくかん)とも呼びます。


2021年4月10日土曜日

真身観文(しんじんがんもん)㉑

 本文)


 この観を作(な)すをば、名づけて正観(しょうかん)とす。


もし他観するをば、名づけて邪観(じゃかん)とす。




(現代語訳)


これらを、正しく仏を目の当たりにする


修行と名づけます。


もしこれ以外の修行をすれば、


それを邪な修行と名づけます。




(解説)


私たちはこのような観法をせず、


専ら「南無阿弥陀仏」のお念仏を称えればよいのです。


しかしながら、「ただ称えよ」と言われても、


拝む対象がなければ称えにくいでしょう。


だから仏像やお仏壇があります。


また、お念仏はお仏壇がなくても称えられます。


その時にはここに説かれるように、


仏さまのお姿を心に浮かべて称えればよいでしょう。


ただ、凡夫の私たちは、それさえも


長く続けることが困難になってきます。


心が散り乱れて仕方ないのです。


そんな散り乱れた心のままで称えるのも


許されるのがお念仏の最高にありがたいところです。


それが許されなければ、


私たちは仏道を諦めざるを得ません。


救いの門は閉ざされていません。


凡夫を救わんがために、


阿弥陀さまが無縁の大慈悲でもって、


救いの手を差し伸べてくださっています。


どうかお念仏を称えて、そのご恩に報いましょう。


(真身観文の項終わる)

2021年4月9日金曜日

一枚起請文① 一枚起請文(いちまいきしょうもん)とは

法然上人が残された文章の中で、

 

私たちが最もよく拝読するのが

 

この『一枚起請文(いちまいきしょうもん)』

 

だといえるでしょう。

 

法然上人は建暦(けんりゃく)二年の正月二十五日に

 

極楽浄土へ往生されました。

 

そのわずか二日前に、側近のお弟子である

 

勢観房源智(せいかんぼう げんち)上人が

 

「浄土宗の肝要をお示しください」と懇願され、

 

その願いに応えて病床の身を起こし、

 

一枚の紙にしたためられたと言われています。

 

源智(げんち)上人は、浄土宗にとって

 

とても重要な方です。

 

その源智(げんち)上人につきましては

 

以前「聖光上人のご生涯」と「良忠上人のご生涯」


で触れましたのでそちらをご覧ください。

 



 「聖光上人のご生涯」より

https://hourinji.blogspot.com/2020/06/blog-post_3.html



「良忠上人のご生涯」より

 https://hourinji.blogspot.com/2020/06/blog-post_11.html

 



『一枚起請文(いちまいきしょうもん)』と同内容の書簡を

 

浄土宗第二祖「聖光(しょうこう)上人」も

 

授かっておられ、「ご誓言の書(ごせいごんのしょ)」

 

として今に伝えられています。

 

聖光(しょうこう)上人が、いつ法然上人から

 

この書簡を授かったのかはわかりませんが、

 

臨終間際ではありませんから、

 

法然上人は、かねてより「浄土宗の肝要」として

 

この文章を用意されていたのだと思われます。

 

もしかしたら、このお二方以外にも法然上人から

 

授かった方もおられるかもしれません。

 

その中、私たちが日々拝読している

 

『一枚起請文(いちまいきしょうもん)』は

 

法然上人の臨終間際に、

 

今の総本山知恩院勢至堂(せいしどう)

 

辺りにあった庵にて、

 

源智(げんち)上人に授けられたと伝わるものです。

2021年4月8日木曜日

一枚起請文② 観念の念仏にあらず

今回から本文を解説してまいります。

 

本文

「もろこし我が朝(ちょう)に、

もろもろの智者達の沙汰し申さるる、

観念の念にもあらず。」

 

現代語訳

「〈浄土宗の念仏は、〉中国や日本において、

多くの智慧(ちえ)ある学僧たちが

議論なさっている、

仏を観想(かんそう)によって

見ようとする念仏でもありません。」

 

「もろこし」は「唐土」とも書き、

 

今の「中国」を指します。

 

「我が朝(ちょう)」は「日本」です。

 

念仏は「仏を念じる」と書きます。

 

「念じる」というのは普通「心で思う」ことです。

 

浄土宗でいう「念仏」は「称名(しょうみょう)念仏」

 

といって、「声に出す」念仏です。

 

今の私たちは「念仏」といえば、

 

「称名(しょうみょう)念仏」のことだと

 

思い込んでいますが、

 

実は、念仏にはいくつかの種類があります。

 

その内の一つが「観念の念」です。

 

『浄土三部経(じょうどさんぶきょう)』の中、

 

『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』には

 

「極楽浄土」や「阿弥陀仏」「観音菩薩」「勢至菩薩」

 

を目の前に映し出すための瞑想のやり方が

 

記されています。

 

簡単に申しましたが、もちろん非常に高度で

 

難しい修行ですから、実際にできる人は殆どいません。

 

その瞑想の境地を三昧(さんまい)といいます。

 

善導大師(ぜんどうだいし)や法然上人は、

 

その「三昧の境地」を体験されています。

 

ただ、私たちにそれができるかと言えば・・・

 

現実的ではありません。

 

阿弥陀さまが、もし、極楽浄土へ往くための条件を

 

「三昧の境地に達したならば」とされたならば、

 

私たちは極楽往生の望みを絶たれたことになります。

 

しかし、阿弥陀さまはそんな困難な修行を

 

極楽往生の条件にはなさいませんでした。

 

極楽浄土へ往くための条件は、ただ一つ。

 

「我が名を呼べ」です。

 

「阿弥陀仏の名を呼ぶ」、

 

すなわち「南無阿弥陀仏と称える」ことが

 

極楽浄土へ往生する唯一の条件なのです。

2021年4月7日水曜日

一枚起請文③ 学識でもない

本文


「また学問をして、念の心をさとりて

申す念仏にもあらず。」

 

現代語訳

「また、仏教の教えを学んで、

念仏の意味内容を理解し尽くした上で

称える念仏でもありません。」

 

 

仏教のことを詳しく知っている人が

 

称える念仏の方が、あまり知らない人の念仏よりも

 

格上のような気がしませんか?

 

しかし、たとえばテレビの構造を知らなくても

 

リモコンの操作をすれば、

 

テレビを観ることができるように、

 

仏教のことを詳しく知らなくても、

 

「念仏を称えれば」極楽浄土へ往生できます。

 

阿弥陀仏は「苦しむ人々をすべて救いたい」と

 

願ってくださっています。

 

もし、「仏教の教えを深く知り尽くした人が救われる」

 

のであれば、学問が不得手な人は

 

極楽往生ができない、ということになります。

 

私たちは「勝敗」「優劣」「賢愚」「強弱」「貧富」

 

など、他者と比較して自分の位置を確認します。

 

そして「勝敗」なら「勝」がよく、

 

「優劣」なら「優」がよく、

 

「賢愚」なら「賢」がよく、

 

「強弱」なら「強」がよく、

 

「貧富」なら「富」がよいと思い込んでいます。

 

しかし、阿弥陀さまがご覧になれば、

 

比べ合いをしている両者共、

 

煩悩に苛まれてもがいている「凡夫(ぼんぶ)」です。

 

自分の力で苦しみ迷いの世界から逃れる術を知らず、

 

自分で自分を救うことができない者でしかありません。