2021年4月2日金曜日

一枚起請文⑧ 智者のふるまいをせず その二

「智者の振る舞いをせずしてただ一向に念仏すべし」

 

「決して自分は賢いんだ、偉いんだと思わずに

 

ただひたすら南無阿弥陀仏とお念仏をお称えしなさい」

 

ということです。

 

もう一度通して訳しますと、

 

「念仏を信じようという人は、

たとえお釈迦さまが一生涯かけて説かれた教えを

すべて学び尽くしたとしても、

お経一文字も知らない愚かな自分であると自覚して、

仏教の教えは知らないけれど、

念仏信心の深い尼入道の人達を見習って、

自分が偉いなんて思わずに、

ただひたすら念仏しなさいよ」ということです。

 

偉いとか賢いというのは、相対的なことです。

 

あくまで他者との比較の問題です。

 

極楽へ往くのに「あの人より俺の方がデキる」

 

というのは、全く意味をなしません。

 

極楽へ往くのに自分の力は必要ありません。

 

阿弥陀仏に頼らないと極楽へは往けません。

 

阿弥陀さまはどのように仰っているか。

 

「わが名を称えよ、わが名を称える者を

 

必ず極楽へ救いとってやるぞ」と

 

言って下さっているのです。

 

自分が持っている知識や経験は、

 

この娑婆世界を生きる上では活用できるでしょう。

 

しかし「極楽へ往く」ということに関しては

 

「全く無力である」という自覚が必要です。

 

たとえお経をすべて学び尽くしていたとしても、

 

往生のためにはお念仏を称えることが何より大切です。

 

往生の為には「尼入道」さん達を見習って、

 

学問の出来不出来は関係なく、

 

ただ阿弥陀さまに任せて

 

お念仏を称えるだけです。

 

ですから、

「自分が愚かであることを自覚して、

 

ただ阿弥陀仏を頼って念仏する人」が

 

浄土宗の理想の姿なのです。

12月前半のことば この世は無常とわかっていても…

 12月前半のことば 「露の世は 露の世ながら さりながら」 小林一茶   仏教は「この世は無常である」と教えます。どんな命もいつかは終わり、どんな形もいつかは崩れる。理屈としては誰もが知っている真理です。しかし、それを心の底から受け入れることが、どれほど難しいか。最愛の人を亡く...