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2026年9月14日月曜日

9月後半のことば「お彼岸はお念仏の強化週間」

 9月後半のことば

「お彼岸はお念仏の強化週間」

                 

 春分と秋分を中心とした七日間、「お彼岸」の季節を迎えます。

 彼岸とは、阿弥陀さまがいらっしゃる「西方極楽浄土」のこと。迷いや悩みの尽きない私たちの世界「此岸(しがん)」に対し、西の彼方にある究極の安らぎの世界を指します。私たちはいつか、自らの欲望や怒りで苦しむこの世界を離れ、極楽浄土を目指すのです。

 では、その極楽へ往くためにはどうすればよいのでしょうか。

阿弥陀さまは「我が名を呼ぶ者を、必ず救い取る」と温かいお約束をしてくださっています。その温かなお慈悲に身を委ね、「南無阿弥陀仏」とお応えする。それが念仏です。

 お彼岸の時期は、太陽が真東から昇り、真西へと沈みます。

つまり、目指すべき極楽の方角が一年で最もはっきりと示される時期。西の空へと思いを寄せ、しっかりと念仏を称えましょう。

「いつか極楽浄土へ往きたい」と、自らの往生を願う。

「先に往かれたあの人に会いたい」と、亡き人を偲ぶ。

「阿弥陀さま、どうか見守っていてください」と祈る。

 念仏は毎日の暮らしの中で称えるものですが、お彼岸は、その念仏の心をさらに深める「強化週間」と受け止めましょう。

 西へ沈む美しい夕日を見つめながら、ともに念仏をお称えいたしましょう。

2026年8月31日月曜日

9月前半のことば「こけたら立ちなはれ 立ったら歩きなはれ」松下幸之助

9月前半のことば

「こけたら立ちなはれ 立ったら歩きなはれ」

                              松下幸之助

 「経営の神様」と呼ばれ、一代でパナソニックを築き上げた松下幸之助氏の、率直で温かい言葉です。

 私たちは日々を生きる中で、時としてつまずくことがあります。仕事でのミス、家族との意見のすれ違い、突然の病。こうした思い通りにならない出来事は、誰にでも訪れるものです。

 仏教では、物事は直接の原因だけでなく、周囲のさまざまな条件が影響し合って起きると考えます。この外からの作用を「縁」と呼びます。つまり、あなたがこけたのは、決して努力不足だけが理由ではありません。いくつもの縁が重なった結果なのです。ですから、どうか自分ばかりを責めないでください。

 しかし、座り込んだままでは目の前の景色は変わりません。

 大切なのは、次にどのような行動を起こすかです。仏教では人間の行いを「業(ごう)」と呼びますが、私たちは常に、いま置かれた縁の中で「自分がどう動くか」を問われています。

 まずはご自身のペースで、ゆっくりと立ち上がってみてください。そして、前を向いて一歩を踏み出す。転んで痛みを知った経験自体が新しい縁となり、これからのあなたの歩みを、きっと力強く支えてくれることでしょう。 

2026年8月14日金曜日

8月後半のことば 「他人を尊重することが自分を尊重する一歩 」

 8月後半のことば

「他人を尊重することが自分を尊重する一歩 」

 私たちはつい、自分や家族、会社など「身近な集団」の利益ばかりを優先してしまいます。「自分たちさえ損をしなければいい」という考えは、知らず知らずのうちに他者への関心を奪ってしまいます。

 仏教では、こうした自己中心的な心の働きを「煩悩」と呼びます。実は、「自分だけは得をしたい」と願う心こそが、あなたを苦しめる真の原因なのです。意見を押し通して衝突する。利益を優先して孤立する。これらはすべて、自分を優先した結果にほかなりません。

 人は放っておけば、どこまでも自分の得になるように動く生き物です。だからこそ、意識して「他者」へ心を向け、大切に扱う必要があります。

 相手の立場に立って話を聴く。電車で席を譲る。こうした小さな思いやりが、あなたを煩悩の呪縛から解き放ちます。誰かを尊重し喜ばせる行いは、巡り巡って、あなた自身の心を守り、穏やかな安らぎをもたらしてくれるのです。

ただし、実践を重ねるほど、他人を尊重することの難しさに直面するでしょう。「いかに自分は自己中心的なのか」と、鏡を見るように己の姿を省みること。その自覚こそが、心を調えるための尊い第一歩となります。

2026年7月31日金曜日

8月前半のことば 「亡き親の しきりに恋し 蝉の声」

 8月前半のことば

「亡き親の しきりに恋し 蝉の声」

 若い頃、親の言葉を素直に聞けず、反発ばかりしていた日々はありませんでしたか。進路のことで衝突したり、ささいな注意に声を荒らげたり。

 しかし自分が親となり、泣きやまぬ我が子を抱いて途方に暮れる時、かつて自分を包んでいた親のまなざしの温かさを、痛いほどに実感するものです。「親もまた、自分と同じように悩み、迷いながら生きていたのだ」と、今なら寄り添える気がします。

 阿弥陀さまは「私を呼ぶ者は、一人残らず極楽浄土へ迎え取る」と、温かい手を差し伸べてくださっています。私たちはただ、そのお慈悲を頼りに「南無阿弥陀仏」と声を出すだけでよいのです。

 大切な人が亡くなったら、南無阿弥陀仏と称えて阿弥陀さまにお任せしましょう。きっと極楽浄土へ誘ってくださいます。そして残ったあなたも、南無阿弥陀仏と称えてこの人生を歩みましょう。先に往かれた大切な人は、お念仏を称えるあなたを、阿弥陀さまと一緒に今も優しく見守り、導いてくださっています。

 もうすぐお盆。じりじりと響く蝉の声は、まるで「お念仏を忘れるなよ」という、懐かしい人からの呼びかけのよう。極楽の同じ蓮の台(うてな)に生まれるという「一蓮托生(いちれんたくしょう)」の言葉通り、いつかまた再会できるその日まで、今日も手を合わせ、お念仏の声を響かせましょう。

2026年7月14日火曜日

7月後半のことば「人の過ちは見やすく、おのれの咎(とが)は見難し」

 7月後半のことば

「人の過ちは見やすく、おのれの咎(とが)は見難し」                           

 

 他人の欠点はすぐ目につくのに、自分の非にはなかなか気づけない。私たちは日頃、無意識に「自分」という物差しで世界を裁いています。

 たとえば、知人の機嫌が悪ければ「冷たい人だ」と憤り、意見が食い違えば「理解してくれない」と不満を募らせる。挨拶がなければ「無視された」と腹を立てる。

 けれど、自らの行動をそっと振り返ってみてください。心に余裕を失い、家族へきつい言葉を投げていませんか。自説を押し通すあまり、友人の発言を遮っていませんか。悩み事に囚われ、近隣の方の声かけを見落としていませんか。

 人間は、他者の振る舞いには厳格な審判を下します。一方で、おのれの言動には理由をつけて正当化してしまう。この偏った視点こそが、私たちを惑わす「煩悩(ぼんのう)」の働きです。

 「自分は自己中心的な存在である」と日常的に意識すること。鏡を見るように自身の姿を省みる習慣こそが、心を調える大切な第一歩となります。

2026年6月30日火曜日

7月前半のことば 「生(しょう)ずれば死あるべし」

 7月前半のことば

「生(しょう)ずれば死あるべし」                           

 人はこの世に生を受ければ、必ず死を迎えます。なぜ死ぬのか。その答えは残酷なほどシンプルです。「生まれたから」それ以外に理由はありません。これは誰もが知っている、動かしがたい真理です。

 けれど、頭で理解していても、感情で受け入れるのは容易ではありません。茶碗がいつか割れると知っていても、実際にお気に入りだった一品が壊れれば、深く落胆します。母校の校舎が取り壊されるとき、「形あるものはいつか消える」と承知していても、胸が締めつけられるような寂しさを覚えます。家族やペットとの別れを、平然と受け入れられる人などいないでしょう。「失いたくない」と願うのは、人間としてのありのままの心です。

 阿弥陀仏は、死を恐れ、悲しみに震える私たちのために、極楽浄土を用意されました。仏さまの世界へ往生(おうじょう)すれば、もう二度と死に惑わされることはありません。死の恐怖そのものが消え去り、永遠の安らぎを得ることができるのです。

 極楽へ至る道は、たった一つ。「南無阿弥陀仏」と称(とな)えること。 それだけです。散歩の途中でも、椅子に座っている時でも構いません。日々の暮らしの中で、お念仏を声に出しましょう。阿弥陀仏は、称える者を一人も見捨てることなく、極楽浄土へ確実に導いてくださるのです。

2026年6月14日日曜日

6月後半のことば「私の物差し 目盛は都合で変化する」

6月後半のことば

「私の物差し 目盛は都合で変化する」


 私たちは、自分の基準こそが「普通」だと思って毎日を過ごしています。しかし、立場が一つ変われば、ものの見方は驚くほど変わってしまうものです。

 たとえば、交通の場面を思い浮かべてみてください。車を運転している時は、道をゆっくり渡る歩行者を「邪魔だな」と感じてしまうことがあります。ところが、いざ自分が歩行者として道を渡る側になると、止まろうとしない車に対して「自分勝手だ」と憤(いきどお)りを感じる。身に覚えのある方も多いのではないでしょうか。

 これは、お仕事や家庭の中でも同じです。人に指示を出す立場になれば、相手がすぐに動かないことに苛立ちを覚えます。逆に指示を受ける立場に回れば、今度は相手の言い方にトゲがあると感じて反発したくなる。

 私たちは、その時々の都合に合わせて、自分だけの「物差し」の目盛りを書き換えています。そして恐ろしいことに、その自分勝手な変化には、なかなか自分自身で気づくことができません。仏教では、このように自分を中心において物事を見てしまう心を「我執(がしゅう)」と呼び、私たちを苦しめる煩悩の根源であると説きます。

この我執を完全に消し去ることは、容易ではありません。私たちは常に「自分」というフィルターを通してしか、世界を見ることができないからです。

 しかし、「自分は我執の塊なのだ」と意識することなら、今日からでも始められます。自分の物差しは決して絶対ではないと自覚する。そこが救いへの第一歩です。まずは自分の目盛りが自分勝手に動いていないか。ふとした瞬間に立ち止まって、心を確認してみませんか。 

2026年5月31日日曜日

6月前半のことば「遭いがたき 法門に遭う」

 6月前半のことば

「遭いがたき 法門に遭う」                           

 

 仕事の失敗や病気など、人生は思い通りにいかないことばかりです。 あまりの辛さに「生まれてこなければよかった」と、後ろ向きに悩む日もあるでしょう。

 しかし、仏教が説く「輪廻(りんね)」という視点に立つと、今のあなたの価値がガラリと変わります。命は、地獄・餓鬼(がき)・畜生(ちくしょう)・修羅(しゅら)・人・天という「六つの世界」を巡り続けます。苦痛に耐え続ける地獄や、飢えに苦しむ餓鬼の世界では、自分のことで精一杯になり、他者を思いやる余裕など持てません。

 そんな厳しい世界をくぐり抜け、今、人間として生きている。それは、あなたが過去の苦難を自らの努力で乗り越えてきた「誇らしい証(あかし)」なのです。 誰もが、必死に頑張ってこの人間界へやってきました。

 ただし、人間に生まれることが極めて稀なのですから、いずれもっと苦しい境遇へ落ちる恐れがあります。その連鎖から私たちを救うため、阿弥陀仏は「わが名を呼ぶ者は、必ず極楽浄土へ迎えとろう」と誓われました。

 奇跡的に人間となれた私たちが、この救いの教えに出遇(あ)える機会は、さらに貴重で尊いものです。これこそが「遭(あ)いがたき法門に遭う」という言葉の真意です。「南無阿弥陀仏」と口に出して称えましょう。ただそれだけで、長くさまよい続けてきた苦しみの連鎖を抜け出し、極楽浄土へ往生できるのです。

2026年5月14日木曜日

5月後半のことば 「与うる者に功徳は増す」

 5月後半のことば

与うる者に功徳(くどく)は増す


 「他者に何かを与えると、自分に良い報いが返ってくる」仏教には、そんな教えがあります。

 私たちはつい「少しでも得をしたい」と考えがちです。仏教ではこのむさぼる心を「貪(とん)」と呼び、人を苦しめる煩悩の一つと捉えます。

 「家族のために家事をしたのに、感謝されない」

 「楽しみにしていたお弁当が、売り切れている」

 「会議で自分の意見が、なかなか通らない」

 思い通りにならない現実に直面したとき、私たちの心は乱れ、怒りや悲しみが生まれます。こうした「欲求」が満たされない状態こそが、苦しみの正体です。

 この苦しみを手放す方法があります。それが「布施(ふせ)」です。

 布施とは、物やお金を与えることだけではありません。電車で席を譲る。家族に「ありがとう」と伝える。出会った人に笑顔を向ける。こうした小さな行いも、すべて立派な布施です。

 誰かのために行動することで、私たちは自己中心的な欲から解き放たれます。他者を喜ばせる行いは、巡り巡って、あなた自身の心を穏やかにしてくれるはずです。

 今日から少しだけ、周りに「与える」生活を始めてみませんか。

                    


2026年4月30日木曜日

5月前半のことば「喜びとは苦悩の大木に実る果実である」ビクトル・ユーゴー

 5月前半のことば

「喜びとは苦悩の大木に実る果実である」

                                                   ビクトル・ユーゴー

 名作『レ・ミゼラブル』の著者ユーゴーは、人生の苦難を「木」に、そこから得られる喜びを「果実」になぞらえました。この比喩は、仏教の教えと響き合います。

 仏教が目指すのは「苦」からの解放です。それは単なる目の前の困難ではなく、迷いの世界で生を繰り返す「輪廻(りんね)」という仕組みそのものを指します。この連鎖を断つには、原因である「煩悩」を消さねばなりませんが、凡夫にとってそれは容易ではありません。

 浄土宗の宗祖・法然上人も、自らの力で煩悩を消せない無力さに深く悩まれました。模索の末に出会ったのが、阿弥陀仏の「本願」です。「わが名を呼ぶ者は必ず極楽へ迎え取る」というこの約束こそ、私たちが輪廻の苦しみから離れる唯一の道でした。

 病を経て健康を尊ぶように、失敗を越えて成功を掴むように。深い闇があるからこそ、光の喜びは際立ちます。果てなき苦しみを繰り返してきた私たちが、「必ず救われる」という確信を得る。それこそが、人生という大木に実る、最も尊い「喜びの果実」なのです。

2026年4月14日火曜日

4月後半のことば 「誰一人として 平均的な人などいない」

4月後半のことば

「誰一人として 平均的な人などいない」

私たちは日常生活で、つい「普通」や「平均」という物差しで自分や他人を測ってしまいます。「平均より背が高い」「普通の家庭」といった言葉は便利ですが、実態を捉えてはいません。

 仏教には諸法無我(しょほうむが)という教えがあります。これは、すべての物事はさまざまな原因や条件が重なり合って成立しており、固定不変な実体(我)はどこにも存在しないという意味です。

 たとえば、目の前にある一杯のお茶を考えてみてください。茶葉の産地、注いだ水の温度、淹れた人の加減によって、その味は刻一刻と変化します。昨日のお茶と今日のお茶は、厳密には同じではありません。

 人間も同様です。私たちは、生まれ持った性質、経験した出来事、周りの環境、時の情勢、その日の体調といった無数の要素が組み合わさって存在しています。

・計算は得意だが、運動は苦手な人

・朝は元気に挨拶するが、夜は静かに過ごしたい人

・普段は冷静だが、特定の趣味には熱中する人

 これらの要素は常に移ろい、一人として同じ組み合わせはありません。「平均的な人」という型は頭の中にある概念に過ぎず、現実には存在しないのです。

 自分を誰かと比べることに、あまり意味はありません。変化し続ける唯一無二の自分を、そのまま受け止めることから始めてみませんか。


2026年3月31日火曜日

4月前半のことば「一切の行は無常なり」

4月前半のことば

4月前半のことば

「一切の行は無常なり」


仏教の根本的な教え「諸行無常」。すべてのものは移り変わり、同じ状態で止まるものは何一つないということです。


 私たちの生活を振り返ってみましょう。

・子どもが独立して、家族の形態が変わります。

・年を重ねて、自分の老いを実感します。

・時代が移り、世の中の価値観が変わります。

 このように、身の回りの環境も自分自身も常に変化します。同じ状態を保つことは不可能です。

 鎌倉時代、鴨長明は、『方丈記』で次のように記しました。

「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」

 川はいつも同じ川に見えます。しかし、流れる水は一瞬一瞬入れ替わっています。人生や社会も、この川の流れと同じです。

 私たちは「今の状態が続いてほしい」と望みます。仏教ではこの願いを「執着(しゅうじゃく)」と呼びます。変わらないことを望むと、苦しみが生じます。物事は必ず変わるという事実はなかなか受け入れるのが難しいことです。しかし、ときどき「諸行無常なんだよなあ」と思い出してみましょう。変化は自然なことなのだと自分に言い聞かせて、今この瞬間を大切に生きるのです。 

2026年3月14日土曜日

3月後半のことば「西方極楽 春彼岸」

 3月後半のことば

「西方極楽 春彼岸」


 仏教において彼岸は迷いのない「覚りの世界」を意味し、特に浄土宗では、私たちが目指すべき阿弥陀仏の世界「極楽浄土」と受け止めます。春分の日を中心にしたその前後三日間、合計一週間が春のお彼岸の期間です。

 この時期、太陽は真東から昇り、真西に沈みます。つまり彼岸は、私たちが目指すべき極楽の方角がはっきりと分かる時なのです。西へ沈む夕日を見つめることで、自分が向かう最終的な場所を確認できます。

 私たちは普段、学校の勉強や仕事、家事や介護といった目の前の雑事に追われています。この世の用事にだけ対応していく日々は、心と体を疲弊させます。慌ただしい生活を送る中で、つい自分の命の行き先を忘れてしまいます。

 命が尽きた後には、最高の楽土が存在します。極楽の主である阿弥陀仏は、ただ「南無阿弥陀仏」と称える者を極楽へ迎え取る、とお誓いくださっています。「いつかそこに往きたい」と極楽浄土を目指す願いを持つことが大切です。

 普段は忘れていても、お彼岸の時期には往生への思いを新たに起こすことができます。目標の方角をしっかり見据え、日頃以上に心を込めてお念仏を称えていきましょう。

2026年2月28日土曜日

3月前半のことば 「一人では何も出来ぬ。然し、先ず一人が始めねばならぬ。」(岸田國士)

 3月前半のことば

「一人では何も出来ぬ。然し、先ず一人が始めねばならぬ。」(岸田國士)

 戯曲『チロルの秋』を生んだ劇作家であり、小説家でもある岸田國士氏のことばです。

 世界平和や人類の幸福という大きな目標を前にすると、一人の力はあまりに小さく感じられます。しかし、どのような変化も、常に「私」という一人の行動から始まります。

 例えば、地域の環境を良くしたいなら、まず一人が足元のゴミを拾う。職場の雰囲気を明るくしたいなら、まず一人が笑顔で挨拶をする。「自分一人では意味がない」と諦めるのではなく、まず自分が動く。物事はこの一点からしか動き出しません。

 この道理は、浄土宗の教えにも通じます。

 阿弥陀仏は、すべての者を救うために極楽浄土を建立されました。私たちが人々を救うためには、段階があります。それは、まず自分自身が「南無阿弥陀仏」と称え、浄土へ往生することです。

 浄土へ往(い)き、菩薩となって、他者を救う力を育てていきます。自分の往生を願うことは、決して利己的な行為ではありません。多くの人を幸せにするという理想を実現するための、最も確実な第一歩なのです。

 まず一人の「私」がお念仏を始める。ここからすべてが始まります。           

2026年2月14日土曜日

2月後半のことば「想像力の使い方次第で、人は不安にもなり、希望を持てる」

 2月後半のことば

「想像力の使い方次第で、人は不安にもなり、希望を持てる」

                    

 想像力というものは、時に人を底なしの不安へと突き落とし、時に確かな希望を与える力を持っています。

 もし「死んだらすべてが終わりだ」という断崖絶壁にのみ意識を向けてしまえば、老いや病は、ただ幸福を奪い去るだけの残酷な足音に聞こえるでしょう。先々を案じるほどに心は萎え、今を生きる意味さえも見失いかねません。

 しかし、浄土宗が示す「極楽浄土」は、この想像力のベクトルを鮮やかに転換させます。そこは、この世を覆う苦しみや痛み、絶えぬ悩みから解き放たれ、ただ清らかな安らぎだけを享受できる世界です。差別や暴力に怯えることもなく、煩わしい人間関係に心を削られることもありません。そして何より、先に送り出した大切な人々との再会がかなう「楽土」なのです。

 こうした光り輝く世界を想い描くことができたなら、今の景色は一変します。老いも病も、決して虚無へ向かう衰退ではなく、希望の岸辺へ至るための大切な道程となるのです。

 日々、南無阿弥陀仏と口にすること。それは、私たちの想像力を不安の闇から救いの光へと繋ぎ止める、ただ一つの方法です。どうせ使うなら、この豊かな能力を、明日をしっかりと踏みしめて生きる力のために使いたいものです。    

2026年1月31日土曜日

2月前半のことば

 2月前半のことば

「絶対ということは 絶対にない」

                    

 私たちは無意識に「絶対」という名の杖を頼りに歩いています。「努力は実る」「日常は続く」「組織に尽くせば安泰だ」といった確信です。しかし、その杖が不意に折れたとき、人は深い落胆という名の「苦」を味わうことになります。

 かつてこの国では「右肩上がりの成長」が信じられていましたが、経済の神話も終身雇用の約束も、時代の波に消えていきました。これは個人の生活も同様です。

 「親なら、自分ならこうあるべきだ」という思い込みが強いほど、現実に裏切られた際、人は自分を責め、他者を呪ってしまいます。移ろう現実を、己の願望という枠に無理やり固定しようとするからこそ、苦しみが生じるのです。

 仏教が説く「諸行無常」は、決して冷たい宣告ではありません。すべては移ろう。だからこそ、一つの価値観に固執しなくていいという「解放」の教えです。

 「絶対はない」と知ることは、未来を恐れることではありません。何が起きても「まあ、そういうこともあるだろう」と受け流せる、しなやかな精神を養うことです。固く握りしめた「絶対」という拳をそっと解けば、世の中の見え方はきっと軽やかに変わるはずです。

2026年1月14日水曜日

1月後半のことば「努力する人は希望を語り、怠ける人は不満を語る」

 1月後半のことば

「努力する人は希望を語り、怠ける人は不満を語る」  井上靖


 皆さんはこの言葉を聞いて、ドキッとしませんか?

 それは、もしかしたら「生きる姿勢」の核心を突かれている気がするからかもしれません。

 ただ、この言葉は、私たちに行動の良し悪しを裁定しているのではありません。むしろ、私たちの振る舞いには必ず「何らかの意図や目的」が隠されていることを教えてくれている、と受け取るべきでしょう。

 「怠ける人」が「不満を語る」のは、彼らは別に性格が歪んでいるからではありません。不満や不足を口にすることで、「私は本当は有能なのだが、外部の環境や他者のせいで能力を発揮できない」という、一種の自己防衛のシナリオを巧妙に構築しているとも言えます。これは、失敗や挫折という「人生の課題」に真正面から立ち向かうことを避け、傷つくことから逃れようとする、「勇気の回避」という目的を持った振る舞い、と考えてみてはいかがでしょうか。不満とは、現状維持を正当化するための、極めて便利な道具として機能してしまうものです。

 一方、「努力する人」が「希望を語る」のは、彼らが単に楽観的な性質を持っているからではないでしょう。彼らは、未来の希望を語り、目標に向かって具体的な行動を選ぶことで、「自分の人生は、外部の条件に左右されることなく、自分で選択し創り上げることができる」という、「主体性」を強く表明しています。希望とは、この「自分で人生を切り開く力」が内側から湧き出てきた結果にほかなりません。

 ですから、もし今、あなたが自分を「怠ける人」だと感じ、不満ばかりが口をついて出るとしたら、それは、あなたの心の奥底が「まだ、自己を変革する一歩を選ぶのを躊躇しているだけ」と考えてみましょう。井上氏の言葉は、決してあなたを断罪しているのではありません。その不満を語るエネルギーを、たった一つの「未来を変えるための行動」への転換を勧めてくれている、と捉えてみることをお勧めします。

2025年12月31日水曜日

1月前半のことば「今年も南無阿弥陀仏」

 1月前半のことば

「今年も南無阿弥陀仏」


 明けましておめでとうございます。

 皆さまにとってこの一年が、平穏で、そして何よりも素晴らしい年となりますように。

 さて、誰もが素晴らしい一年を願うわけですが、これがなかなか難しい。人の願いといえば、たいてい欲望を充足することでしょう。あれが欲しい、これがしたい、今の不満を解消したい。そう願って努力し、目標を達成すれば、その瞬間は満たされる。ですが、どうにも長続きしません。一つ不満を解消すれば、またすぐに別の不足が顔を出す。頑張れば幸せになれるはずなのに、我々は不思議なことに、いつまで経っても本当の意味での満足や幸せにたどり着くことができないのです。

 なぜか。それは、我々の目標設定が、この「満たされない心の渇き」を生み出し続けているからです。仏教は、この「生きていくことのどうしようもなさ」を二千五百年前から深く見抜いていました。

そして、このどうしようもない「欲望のループ」からの脱出こそ、仏の願いでした。

 阿弥陀仏は、私たちが現世の小さな充足に振り回される必要がないよう、極楽浄土という「完全に満たされた世界」を築き、人生の最終目標として用意してくださったのです。

 この世の尽きない欲望ではなく、極楽浄土への往生を確かな目標として、この現世を生きるようにと阿弥陀仏は願われます。しかも、その手立ては極めて簡単です。阿弥陀仏は「ただ我が名を呼べよ。南無阿弥陀仏と称えよ。必ず救う」と約束してくださっています。

 今年も、きっと様々な出来事が起こり、喜びもあれば、予期せぬ困難もあるでしょう。しかし、欲望を満たすためだけに汲々とするのではなく、阿弥陀仏の極楽浄土という大いなる目標を持ち、「南無阿弥陀仏」と声に出して、その大いなる願いに身を任せて過ごしてまいりましょう。

 この「南無阿弥陀仏」こそが、私たちにとっての真の羅針盤なのです。

9月後半のことば「お彼岸はお念仏の強化週間」

 9月後半のことば 「お彼岸はお念仏の強化週間」                     春分と秋分を中心とした七日間、「お彼岸」の季節を迎えます。  彼岸とは、阿弥陀さまがいらっしゃる「西方極楽浄土」のこと。迷いや悩みの尽きない私たちの世界「此岸(しがん)」に対し、西の彼方にあ...