2026年4月30日木曜日

5月前半のことば「喜びとは苦悩の大木に実る果実である」ビクトル・ユーゴー

 5月前半のことば

「喜びとは苦悩の大木に実る果実である」

                                                   ビクトル・ユーゴー

 名作『レ・ミゼラブル』の著者ユーゴーは、人生の苦難を「木」に、そこから得られる喜びを「果実」になぞらえました。この比喩は、仏教の教えと響き合います。

 仏教が目指すのは「苦」からの解放です。それは単なる目の前の困難ではなく、迷いの世界で生を繰り返す「輪廻(りんね)」という仕組みそのものを指します。この連鎖を断つには、原因である「煩悩」を消さねばなりませんが、凡夫にとってそれは容易ではありません。

 浄土宗の宗祖・法然上人も、自らの力で煩悩を消せない無力さに深く悩まれました。模索の末に出会ったのが、阿弥陀仏の「本願」です。「わが名を呼ぶ者は必ず極楽へ迎え取る」というこの約束こそ、私たちが輪廻の苦しみから離れる唯一の道でした。

 病を経て健康を尊ぶように、失敗を越えて成功を掴むように。深い闇があるからこそ、光の喜びは際立ちます。果てなき苦しみを繰り返してきた私たちが、「必ず救われる」という確信を得る。それこそが、人生という大木に実る、最も尊い「喜びの果実」なのです。

2026年4月14日火曜日

4月後半のことば 「誰一人として 平均的な人などいない」

4月後半のことば

「誰一人として 平均的な人などいない」

私たちは日常生活で、つい「普通」や「平均」という物差しで自分や他人を測ってしまいます。「平均より背が高い」「普通の家庭」といった言葉は便利ですが、実態を捉えてはいません。

 仏教には諸法無我(しょほうむが)という教えがあります。これは、すべての物事はさまざまな原因や条件が重なり合って成立しており、固定不変な実体(我)はどこにも存在しないという意味です。

 たとえば、目の前にある一杯のお茶を考えてみてください。茶葉の産地、注いだ水の温度、淹れた人の加減によって、その味は刻一刻と変化します。昨日のお茶と今日のお茶は、厳密には同じではありません。

 人間も同様です。私たちは、生まれ持った性質、経験した出来事、周りの環境、時の情勢、その日の体調といった無数の要素が組み合わさって存在しています。

・計算は得意だが、運動は苦手な人

・朝は元気に挨拶するが、夜は静かに過ごしたい人

・普段は冷静だが、特定の趣味には熱中する人

 これらの要素は常に移ろい、一人として同じ組み合わせはありません。「平均的な人」という型は頭の中にある概念に過ぎず、現実には存在しないのです。

 自分を誰かと比べることに、あまり意味はありません。変化し続ける唯一無二の自分を、そのまま受け止めることから始めてみませんか。


5月後半のことば 「与うる者に功徳は増す」

 5月後半のことば 与うる者に功徳(くどく)は増す  「他者に何かを与えると、自分に良い報いが返ってくる」仏教には、そんな教えがあります。  私たちはつい「少しでも得をしたい」と考えがちです。仏教ではこのむさぼる心を「貪(とん)」と呼び、人を苦しめる煩悩の一つと捉えます。  「家...