2021年5月6日木曜日

仏説阿弥陀経㉟

(本文)


舎利弗(しゃりほつ)、


もし人あって、すでに発願(ほつがん)し、


今発願し、まさに発願して


阿弥陀仏国に生ぜんと欲っせん者は、


この諸人等、皆(みな)


阿耨多羅(あのくたら)


三藐三菩提(さんみゃくさんぼだい)を


退転せざることを得て、かの国土において、


もしはすでに生じ、もしは今生じ、


もしはまさに生ぜん。


この故に舎利弗(しゃりほつ)、


諸もろの善男子(ぜんなんし)・


善女人(ぜんにょにん)、


もし信ずることあらん者は、


まさに発願(ほつがん)して、


かの国土に生ずべし。






(現代語訳)


〈釈尊から舎利弗(しゃりほつ)に向けてのお言葉のつづき〉


「舎利弗(しゃりほつ)よ、


もし人々が、かつてすでに極楽に生まれたいと願い、


あるいは今極楽に生まれたいと願い、


あるいは未来になってから極楽に生まれたいと


願ったなら、そういう人々はみんな、


この上なく正しい覚りから退転しない境地に達して、


あるいは過去に、あるいは今、あるいは未来に


極楽に生まれることであろう。


そうであるから舎利弗よ、


多くの善良な男性・女性が信じるならば、


極楽に生まれたいと願いを起こし、


往生することができるであろう。






(解説)


「念仏を称える者が極楽浄土へ往生することは


間違いない」ということを繰り返し説かれました。


ですから過去に極楽浄土に往生を願った者は


過去にすでに極楽浄土へ往生しています。


今願う者は、今の人生を終えた後、


極楽浄土へ往生します。


未来に極楽往生を願う人は、


その人生を終えた後、極楽浄土へ往生します。


世には若くして亡くなる人もあり、


長寿の人もあります。


それはわかっていても、


愛する人の死は受け入れがたいものです。


「なぜこの人がこんなに早く


亡くならなくてはならないのだ!」


と打ち震えるしかありません。


ただ言えることは、


お念仏を称えてその方に回向し、


自身も極楽往生を願って念仏を称えるならば、


極楽へ往く時期は異なっても、


必ず同じ極楽に往き、そこで逢えるということです。


その極楽浄土は「あらゆる苦しみ・悩み・痛み」がなく、


「もろもろの楽だけを受ける」世界です。


だから、辛くても悲しくても


「極楽往生を願い、念仏を称える」ことを


お勧めするのです。



「回向」について

https://hourinji.blogspot.com/2020/08/blog-post_22.html


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