漆間家には「時国公が残した一人息子を敵が狙うかもしれない」そんな恐れもあったでしょう。
お母さまからすれば「我が子を守るためにはまずは身を隠させなくてはいけない」。
勢至丸さまはお母さまの弟、天台宗の僧侶である観覚さまの元へと送られます。
お父さまのご遺言を胸に仏道修行へと入ることになったのです。
同じ岡山の那岐山にある菩提寺という山寺です。
誕生寺のある場所とは随分離れています。
しかも険しい山の中です。
幼い子供がとてもすぐに行って帰ってこれるようなところではありません。
わずか小学校2年生ほどの幼い子が親と離されて連れて来られたのかと想像しますと、胸が痛くなります。
勢至丸さまは一を聞いて十を知る、非常に頭の良いお方でした。
観覚さまは「こんな田舎の山寺にいつまでも置いておくにはもったいない」と勢至丸さまを比叡山に送られます。
勢至丸さま数え年15歳(13歳説もあり)のことでした。
このときにお母さまとは生き別れです。
二度と会われることはありませんでした(伝記によっては再会する話もあります)。
もちろん今のように交通は発達していませんし、比叡山に登るということは「二度と家族と会わない」という覚悟をしなくてはならないことでした。
毎日お母さま、秦氏さまは比叡山にいる勢至丸さまのことを思い、その方角に向かって合掌されたといいます。
その場所が誕生寺にほど近くに残されています。
「仰叡の灯」と呼ばれる場所です。
そこから比叡山の方角を向くとすぐそこに山に遮られてしまいます。
かすかに見えることもない遙か彼方に向かって毎日勢至丸さまのご無事を祈られたことでしょう。
「かたみとて はかなきおやの とどめてし このわかれさへ またいかにせん」(死別した夫の忘れ形見として残してくれた子と、このような別れに、どうしたらよいのか 山本博子氏訳)と別れを惜しまれたと伝えられます。
『法然上人絵伝講座』
玉山成元・宇高良哲