浄土宗の教えは
「極楽浄土への往生を願って、南無阿弥陀仏と称える」
ことにつきます。
ただ、それだけでは具体的にどうすればよいかが、
わかりづらいことでしょう。
そこで「念仏信仰ある者がどのような生活を送るか」
について、「四修(ししゅ)」が説かれます。
「四修(ししゅ)」は、
「恭敬修(くぎょうしゅ)」、「無余修(むよしゅ)、
「無間修(むけんじゅ)」、「長時修(じょうじしゅ)」
の四つに分けて説かれます。
兵庫県尼崎市武庫之荘にある 浄土宗寺院です。 仏教や浄土宗の教えについて、 浄土宗の作法についてなどの 説明・解説をします。 皆さんが仏教や浄土宗に 興味を持ってくだされば ありがたく存じます。
浄土宗の教えは
「極楽浄土への往生を願って、南無阿弥陀仏と称える」
ことにつきます。
ただ、それだけでは具体的にどうすればよいかが、
わかりづらいことでしょう。
そこで「念仏信仰ある者がどのような生活を送るか」
について、「四修(ししゅ)」が説かれます。
「四修(ししゅ)」は、
「恭敬修(くぎょうしゅ)」、「無余修(むよしゅ)、
「無間修(むけんじゅ)」、「長時修(じょうじしゅ)」
の四つに分けて説かれます。
「恭敬修(くぎょうしゅ)は読んで字のごとく、
敬うことです。
阿弥陀さまに対して、身体で敬いを表すことを
礼拝(らいはい)といいます。
先に五種正行(ごしゅしょうぎょう)の項でもお伝えしました。
礼拝正行(らいはいしょうぎょう)
https://hourinji.blogspot.com/2020/12/blog-post_3.html
礼拝(らいはい)は敬いを表す行為なので、
「恭敬礼拝(くぎょうらいはい)」ともいいます。
阿弥陀さまに身体で敬いを表し、心を向けていると、
不思議と我が身の愚かさが実感されます。
「何と私は情けない者であるか」
ということを感じてくるのです。
ですから恭敬(くぎょう)と
懺悔(さんげ)は表裏一体です。
懺悔について
https://hourinji.blogspot.com/2020/09/blog-post_14.html
https://hourinji.blogspot.com/2020/09/blog-post_15.html
敬いが即ち我が身の懺悔(さんげ)に繋がるのです。
敬いの対象は仏・法・僧(ぶっぽうそう)の
三宝(さんぼう)です。
毎日のおつとめ「日常勤行式(にちじょうごんぎょうしき)」に
「三宝礼(さんぼうらい)があります。
三宝(さんぼう)に対して、礼拝(らいはい)し、
敬いを表します。
三宝(さんぼう)を敬うことは、
仏教徒の基本です。
仏教徒であればみんな、「仏さま(仏)」、
「教え(法)」、「仏教徒の仲間(僧)」を敬うのです。
阿弥陀仏をはじめ、観音菩薩、勢至菩薩、
それ以外のあらゆる仏・菩薩を敬います。
更には善導大師(ぜんどうだいし)、
法然上人、二祖聖光上人(しょうこうしょうにん)、
三祖良忠上人(りょうちゅうしょうにん)等の
祖師さま方を敬います。
仏・法・僧(ぶっぽうそう)の三宝(さんぼう)を
敬うのですから、当然お寺の仏像、
そして皆さんのお家のお仏壇の仏さまを
どうか大切にしてください。
お仏壇には毎日お水やお茶、
炊きたてのご飯などをお供えをし、
何日かに一度は掃除もしましょう。
また、線香を立ててよい香りをお供えしてください。
決して自分が煙たいと思うような線香を立てるのではなく、
できるだけ上質の、
自分が良い香りだと思う線香をお供えしましょう。
詳しくは以下をご参照ください。
香偈
三宝(さんぼう)を敬う仏教徒は、
仏壇に足を向けて寝たり、座ることは避けましょう。
また、傷んでいた放っておかず、修理をしましょう。
修理や引っ越しの前に、
必ずお寺へお願いして、仏さまや祖師さま、
お位牌のお魂を抜いてもらいましょう。
修理や引っ越しが終わり、丁寧に仏さまをお運びして、
安置したら、お魂を入れさせていただきましょう。
しなかったら罰が当たるということではありません。
ちゃんとお魂が入った仏さまをお迎えして、
「ここに仏様がいらっしゃる」と
思いを寄せてお仕えするのです。
「ここに仏さまがいらっしゃる」
という思いをなすのです。
本当にここにいらっしゃると思って
お供えし、お経やお念仏を称えるのです。
仏教徒ならば当然「お経」を大切にしましょう。
念仏者はとりわけ「無量寿経(むりょうじゅきょう)」、
「観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)」、
「阿弥陀経(あみだきょう)の、
「浄土三部経(じょうどさんぶきょう)」
を敬い大切にしましょう。
教えの内容は勿論のこと、
お経の本も大切にして下さい。
決してお経の本を、ホイと放ってはいけません。
また床に置くことも避けましょう。
僧侶はお経の本の下に扇子を敷きます。
少なくとも膝の上に置くか、
紙や袱紗(ふくさ)などを敷きましょう。
仏教徒同士、念仏者同士敬い合いましょう。
他人が念仏する姿を見て、
「かっこつけて」などとひがんではいけません。
他人が善いことをしていたら、心から喜びましょう。
「人を敬う」ということは、
簡単でありながら実は難しいことです。
私たちはすぐに人と比べて
「勝ち負け」「損得」の判断をしてしまいます。
仏教には「随喜(ずいき)」という言葉があります。
「他人がよいことをしていたら心から喜ぶ」ことです。
人間は隣に蔵が建つと喜ばず、妬みます。
そうではなく、他人の善い行為を喜ぶのです。
そうやって念仏者はお互いを敬い合いましょう。
以上、「三宝(さんぼう)を身体で敬い、言葉で敬い、心で敬う」。
これが恭敬修(くぎょうしゅ)です。
四修(ししゅ)の二つ目は無余修(むよしゅ)です。
「念仏一筋に」ということです。
阿弥陀さまは「我が名を呼ぶ者を必ず救いとろう」
とお誓い下さっているのに、
少し慣れてくると、
念仏だけでは物足りないような気がしてきて、
色んなことがしたくなってきます。
「般若心経を唱えた方がいいんじゃないか」
「座禅もいいなあ」と思ってくる。
でも「極楽へ往生する」ということに関しては、
お念仏が最も勝れています。
お念仏は極楽へ往生するための専門の行です。
「往生行」といいます。
「南無阿弥陀仏」一筋にお称えください。
『0歳から100歳の広告コピー』という本に、
『サイゾー』という雑誌の広告コピーが
紹介されていました。
「役立つ情報ばかり追いかけていると
使えない人間になりそうだ」
目先の欲望や興味だけを追いかけて、
あっちにフラフラ、こっちにフラフラしていると、
実際に問題が起こった時に
何の対処もできない人になるよ、
ということでしょうか。
救いを求めて色んなものに手を出して、
どれも中途半端になってしまう、
ということも同様です。
極楽浄土へ往くためには、念仏一筋でよいのです。
阿弥陀さまは「念仏一行でいい」と
一途に願って下さっているのに
こちらが一途になれないのが問題です。
極楽浄土へ往きたいならば、
極楽浄土の主たる阿弥陀さまの
御心に添う生活をすることです。
一筋に念仏を行ずる生活を
無余修(むよしゅ)というのです。
9月後半のことば 「多様性 仏の目には 皆凡夫」 近ごろ「多様性」という言葉を耳にしない日はありません。会議でも学校でも、街頭のポスターにすら踊っています。確かに、人は千人いれば千人、百人いれば百人、異なる価値観や性格を持っている。それは事実です。しかし、だからといってその...