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2020年7月16日木曜日

浄土三部経①(対機説法)

数あるお釈迦さまのみ教えの中で、

浄土宗が拠り所とする三つのお経、

浄土三部経についてお伝えして参ります。


「仏教入門」でお伝えしましたように、

お釈迦様は「この世は苦である」とおっしゃり、

四苦八苦に代表される苦しみを説いてくださいます。

そしてその苦しみの原因は煩悩である、

と説かれました。

その煩悩を無くす方法を説かれたのが

「お経」であると言えます。

しかし一口に「煩悩をなくす」と言いますが、

人の能力には随分差があります。

お釈迦さまはそれぞれの人柄や能力に合わせて

教えを説かれました。

これを「対機説法」(たいきせっぽう)と申します。

「機」とは「素質」とか「能力」という意味。

ある先輩から「人」と訳すとわかりやすいよ、

と教えていただきました。

つまりその人、その人に合わせて

法を説かれたということです。

それはあたかもお医者さまが患者の病状に合わせて

薬を処方するが如くです。

ですから「応病与薬」(おうびょうよやく)

ともいいます。

「あなたはこういう性格でこういう能力がある。

だからこういう修行をしなさい」

と一人一人に合わせて教えを説いてくださいました。

一人一人の心の中の汚れ、心の動きも全部お見通し。

だから「この人にはこう言えば良い方向にいくだろう」

「この人にはこの修行が合うだろう」と、

思いを寄せて説いて下さったわけです。

『浄土三部経和解』
川合梁定


2020年7月15日水曜日

浄土三部経②(末法)

お釈迦さまの教えも、時が経つと

人の能力に合わなくなってきます。

お釈迦さまご本人がおられる時は問題ありません。

先ほど申し上げたように、

お釈迦さまご自身がまるでお医者さんのように、

一人一人をみて処方して下さったからです。

だから多くの人が覚ることができました。

しかしお釈迦さまがおられなくなると、

教えは尊いけれども、覚る人がいない時代がやってきます。

教えはある。

そして修行する人もある。

でも覚る人がいないのです。

そういう時代が当分続きます。

その後はもっとひどくなります。

教えはあるけれども覚る人はおろか、

修行する人さえもいなくなってしまう。

これを「末法の時代」といいます。

科学は進歩するけれど、それに反比例して

宗教的な能力が衰えていくといいます。

法然上人の時代はすでに末法の時代です。

もちろん今も末法の時代です。

この末法の時代が1万年続いたのち

仏教は滅びるといいます。

教えを伝える人が誰もいなくなってしまうわけです。

これを「法滅」(ほうめつ)の時代といいます。

今はまだ末法の時代です。

何とか教えは残っています。

お念仏の教えは、この末法の時代の人々のために

説かれた教えなのです。

末法の時代の人々というのは、

すなわち私たちのことです。

つまり私たちのために説かれた教えが

念仏の教えです。

お釈迦さまは遠い未来には、

いずれ正しい教えは伝わらなくなる、

末法の人々は能力も、求める心も

低くなってしまうけれども、まだ教えは伝わっている。

その人々を救ってやりたいと考えて下さったのです。

そこでお釈迦さまは、すべての人々を救うと

願って下さっている阿弥陀仏という仏さまの存在を

私たちに教えて下さるのです。

『無量寿経・阿弥陀経』
藤田宏達訳


2020年7月14日火曜日

浄土三部経③(お釈迦さまと阿弥陀さま)

ここでお釈迦さまと阿弥陀さまのご関係について

申し上げておきます。

浄土宗のご本尊は「阿弥陀仏」です。

浄土宗のお寺やお檀家さんのお家のお仏壇には

たいてい真ん中に「阿弥陀仏像」が祀られています。

ではお釈迦さまは関係ないのかというと、

そんなはずはありません。

お釈迦さまが「西方に極楽浄土がある。

そこに阿弥陀仏という仏さまがいらっしゃる。

その仏さまがあなたたちを救ってくださるのですよ」

と説いてくださっているのです。

お釈迦さまがいらっしゃらなかったら、私たちは

阿弥陀さまや極楽浄土、お念仏を知るすべがありません。

お釈迦さまは

「阿弥陀仏という仏さまを信じて、

その教えに従いなさい。必ず救われるから」

とお経の中で阿弥陀さまについて

お説き下さっているのです。

つまりお釈迦さまは「阿弥陀仏に従って行けよ!」と

見守り導いてくださり、

阿弥陀さまは「私を信じて来いよ」

と願い、私たちを極楽浄土へすくい取ってくださるのです。

「行けよ」と「来いよ」という向かい合わせの関係です。

阿弥陀さま、お釈迦さま「二尊の教え」ともいえるでしょう。

多くの浄土宗寺院の裏堂にお釈迦さまが祀られているのは

そのことを表しているのです。

『浄土三部経講座』
坪井俊映


2020年7月13日月曜日

浄土三部経④(国王)

阿弥陀さま・極楽浄土・お念仏について

説かれたお経が三つあります。

それが『浄土三部経』です。

『浄土三部経』というネーミングは法然上人の命名です。

その内の一つ目が『無量寿経』というお経です。

浄土宗で最もよく読まれるお経『四誓偈』

この『無量寿経』の一部分です。

非常に長いお経です。

ここに「法蔵菩薩」(ほうぞうぼさつ)という方が登場します。

「法蔵菩薩」は浄土宗のご本尊、阿弥陀さまが

仏になる前のお名前です。

キリスト教やイスラム教、ユダヤ教の神さまは、

最初から神さまです。

天地創造の神です。

神さまがこの世を創られたといいます。

でも仏教の仏さまはそうではありません。

修行して悟りを開いて仏になられるのです。

仏になるために修行する方を「菩薩」といいます。

観音菩薩さま、地蔵菩薩さまなど、

菩薩さまはたくさんおられますが、

皆、仏になる前の修行段階の位におられるのです。

阿弥陀さまの修行中のお名前が法蔵菩薩さま。

ですから同じ方です。

悟りを開く前と後で名前が変わるわけです。

法蔵菩薩さまは元々ある国の国王であったといいます。

その国王は、自分の国の者達を幸せにしてやりたいと

色々な政策を立てます。

貧しい者を救ってやりたい、病の者を救ってやりたい。

悩み多き人々を救ってやりたい。

すべての者を救ってやりたいと思うけれども、

国王の力ではすべての者を救うことはできませんでした。


『和訳浄土三部経』
村瀬秀雄訳


2020年7月12日日曜日

浄土三部経⑤(世自在王仏と法蔵菩薩)

国王は世俗の方法で人々を救うことに限界を感じ、

悩んだ末、出家に救いを求めます。

国王は「世自在王如仏」(せじざいおうぶつ)

という仏さまの元に行き、

教えを請われました。

「世俗の力」つまり現代でいう「福祉」だけでは

すべての者を救うことはできない。

すべての者を救いたい、とおっしゃり、

弟子入りされます。

国王は出家して「法蔵菩薩」となられます。

すべての者を救いたいという法蔵菩薩に、

世自在王仏は、色んな浄土を見せて下さいます。

浄土というのは極楽浄土だけではありません。

仏さまお一方につき、一つの浄土があります。

阿弥陀さまの浄土は「西方極楽浄土」

薬師如来(やくしにょらい)には「

東方瑠璃光浄土(とうほうるりこうじょうど)」

お釈迦さまは「無勝荘厳浄土(むしょうしょうごんじょうど)」

という風に、仏さまによってそれぞれの浄土があるのです。

世自在王仏(せじざいおうぶつ)は神通力を使って、

法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)に

多くの仏さまの浄土をお見せになりました。

そのすべての仏さまの浄土のよいところをとって、

最も素晴らしい浄土を創ろう、

そこにすべての者を迎えとりたいと、

法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)は考

えるようになってゆかれました。

『浄土三部経概説』
坪井俊映


2020年7月11日土曜日

浄土三部経⑥(五劫思惟)

どうしたらそれが実現できるだろう。

五劫(ごこう)とも言われる長い時間をかけ、悩みに悩まれます。

「劫(こう)」というのは時間の単位です。

『浄土宗大辞典』にはこのように説明されています。


①四方一由旬(いちゆじゅん)の鉄城に

芥子(けし)粒を満たし、

百年ごとに一粒取り去ることを繰り返し、

空になっても劫は終わらない。


②四十里四方の石を百年ごとに

細軟の布で払拭し、その石が磨滅しても

劫は終わらない。


①の説を芥子劫(けしこう)といい、

②の説を盤石劫(ばんじゃくこう)といいます。

いずれの説にしても、とてつもなく長い時間を

指すことは明らかです。

五劫もの長い時間が経てば、

法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)さまの髪の毛も

さぞ長く伸びてしまうことでしょう。

このお姿を表したお像が各地にあります。

奈良市の東大寺勧進所(かんじんしょ)や五劫院(ごこういん)の

「五劫思惟像(ごこうしゆいぞう)」は重要文化財に指定されています。

また浄土宗の大本山金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)、

百万遍知恩寺(ひゃくまんべんちおんじ)には

石像の「五劫思惟像(ごこうしゆいぞう)」が祀られています。


五劫思惟像(浄土宗大本山金戒光明寺)



まるで「アフロヘアー」のようなユニークなお姿を

拝みたいと多くの方がお参りされます。


2020年7月10日金曜日

浄土三部経⑦(なぜ五劫も悩まれたのか)




                                         浄土宗大本山 百萬遍知恩寺の
              五劫思惟像




私たちは身と口と心で数々の悪い業(ごう)を重ねていきます。

「業(ごう)」というのは「行い」のことです。

「身体での行い」「言葉での行い」「心での行い」です。

その一々に、嫌でも「エゴ」がつきまとってしまう私です。

そんなことをしていたら、苦しみ迷いの世界から逃れることは不可能です。

それを法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)さまは本当に心配して下さったのです。

仏教の基本的な教えに「因果(いんが)の道理」があります。

「因果の道理」とは「原因があって結果がある」ということです。

善い行いをすれば結果として楽がもたらされます。

悪い行いをすれば苦しみがもたらされます。

それも「自業自得(じごうじとく)」といって、

自分の行いの結果は必ず自分に返ってくるというのです。

私が算数の勉強をして、ウチの息子の学力が上がればいいですが、

そうではないですね。

私が勉強すれば私の学力が上がります。

自業自得というのはそういうことです。

ですから「親の因果が子に報い」というような、

不可解な考えは仏教にはありません。

自分の行いの責任は自分が負います。

ただし、親の影響を子どもが受けることはあります。

親から虐待を受けた場合と

大事に育てられた場合とが異なることは明らかです。

しかしそれは「業」の問題ではないので、

親の業を子どもが背負うことはありません。

また、もちろん私たちの「業」は

悪い業だけではありません。

「人のために」善い業を積むことができれば、

それは自分の「善業(ぜんごう)」が積まれていくことになります。

その結果として、未来が切り開かれていきます。

ただ残念ながら、私たちは強い「エゴ」を持っていて、

善業(ぜんごう)を積むことに比べて

悪業(あくごう)を積むことの多さは比較になりません。

そのように幸せを追い求めているのに、

結果が伴わない人々をどのようにしたら救うことができるか。

法蔵菩薩さまは悩みに悩まれます。

「すべての者を救いたいけれども、

どう見ても殆どの人たちは

善い行いなどできないではないか、

悪い行いばかりしているではないか」

と考え込んでしまわれます。

因果の道理からすると、悪い行いばかりする者は

善い果報を受けることはできません。

どうしたら良いかと五劫の間悩み続け、

意を決して世自在王仏(せじざいおうぶつ)の前で

四十八の誓いを建てられます。

2020年7月9日木曜日

浄土三部経⑧(念仏往生の願)


                                 法輪寺本尊阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩






四十八の誓いを「阿弥陀仏の四十八願(しじゅうはちがん)」

と呼びます。

その誓いの中身は大きく三つの意思が反映されています。

「もし私が仏になったならば、

このような素晴らしい浄土をつくりたい。」

「もし私が仏になったならば、

このような立派な仏になりたい。」

「もし私が仏になったならば、

このような人々を救いたい。」

そしてその一々に

「それができないならば、私は仏になりません。」

という言葉が添えられています。

このような誓いを48建てられた。

その四十八願の第十八番目に、

「もし私が仏になったならば、

私を信じ、私の国に生まれたいと願って、

私の名前を呼ぶ者を救いとろう。

もしそれができなければ、

私は仏になりません。」

と誓われたのです。

これを「念仏往生の願(ねんぶつおうじょうのがん)」といいます。

2020年7月8日水曜日

浄土三部経⑨(本願成就)

山越の阿弥陀如来像
大本山黒谷金戒光明寺所蔵
                                         



法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)は、我々のために永遠ともいえる

永い間修行をし、気が遠くなるほどの長い間

苦行を積んで、すべての行、すべての善の功徳を

成就させて、仏になられました。

その仏の名を「阿弥陀仏(あみだぶつ)」といいます。

具わった功徳すべてを一切漏らすことなく、

ご自分のお名前に込めてくださいました。

このことを「すべての功徳が収まっている」ので

「万徳所帰(まんどくしょき)」といいます。

そして「私の名前を呼ぶ」という

「善」を行うことによって、

「極楽浄土へ往生する」という「果」を

もたらしてくださいました。

それが「南無阿弥陀仏」のお念仏です。

阿弥陀仏の名前に一切の功徳が

収め込まれているからすごいのです。

そして、「難しい修行はできないかも知れないが、

私の名前を称えるぐらいならできるであろう。

この名前に功徳すべてを収め込んだから、

頼む、称えてくれ。

お願いだから称えておくれ。」

と言って下さっているのです。

この四十八の誓いを、

「阿弥陀様が元、法蔵菩薩であった時の誓い」

という意味で、本願(ほんがん)といいます。

元の願という意味です。

その中の念仏往生の願、第十八願を、

本願中の本願という意味で、

「王本願」などとも申します。

普通本願といいますと、

多く「念仏往生の願」を指します。

2020年7月7日火曜日

浄土三部経⑩(我が名を呼べ)

「私の名前を呼ぶ者をすべて私の国へ迎えとろう!

それができなかったら仏にはならない!」

と誓われた後、ちゃんと仏になっておられるのです。



法輪寺一蓮堂阿弥陀如来像





ですから、阿弥陀さまの名前を呼ぶ者は

すべて極楽へ往生することができるのであります。

阿弥陀さまが「我が名を呼べ」

おっしゃるのですから、私達はその願いに応えて

「南無阿弥陀仏」と称えるのであります。

「南無」は「助け給え」、

「お救い下さい」、「おまかせします」

そういう意味すべてがこもっています。

「南無阿弥陀仏」ですから、

「阿弥陀さま、助け給え」「阿弥陀さま、お救い下さい」

「阿弥陀さま、おまかせします」

と称えているのであります。

阿弥陀さまはそのご修行の功徳をすべて、

「南無阿弥陀仏」のたった六文字に収め込んで下さった。

だからこそ私達は「南無阿弥陀仏」

と称えるだけで極楽へ往生することができるのであります。

2020年7月6日月曜日

浄土三部経⑪(平等の慈悲)

極楽へ往生したいならば、

ただ阿弥陀さまの本願を信じて

声に出してお念仏をお称えするだけです。

決して難しいことではありません。

誰もができる行なのです。

誰もができる行でありながら、

極楽行き最も勝れた行なのです。



京都伏見光照寺住職 
池上良賢上人筆
『仏説無量寿経』




極楽の主である阿弥陀さまが

「念仏称える者を救う」と約束されたわけですから。

すべてのご修行の功徳が収まっているのですから。

誰もができる行をご用意下さったのは、

阿弥陀様のお慈悲によるものです。

平等のお慈悲です。

すべての者を救ってやりたいと

お慈悲を注いで下さっているのです。

私達を救うために法蔵菩薩さまは

髪の毛が伸びきってしまうほど悩んで下さいました。

それを裏返せば、そのぐらい私達は

救われがたい存在であるということです。

その救われがたい私達を救ってやろうと、

一切の差別なしにお慈悲を

注いで下さっているのです。

2020年7月5日日曜日

浄土三部経⑫(お念仏のススメ)

あらゆる「苦」から逃れ「仏になる」ことを

目指して修行をしよう!というと、

「私には無理です」と思ってしまうかもしれません。

でも、「阿弥陀さまは私のことを

思って下さっているのだ。

その願いに応えよう」

と心を運ぶことはできるでしょう。



阿弥陀さまとのご縁をつなぎましょう





法蔵菩薩さまの話を現代人は理解することが

難しいとおっしゃる方もいます。

しかしお経にある話は、

お釈迦さまが「我々を救う」ために説かれたものです。

国王が「国を捨てて王位を捨てて世俗の力を放棄して出家する」

ことには意味があることでしょう。

今の私たちが追い求めている「豊かさ」「幸せ」などが

本当に私たちに心の平安をもたらすのでしょうか。

求めれば求めるほどに自らを苦しめていることにはならないでしょうか。

私たちが追い求めているものが私たち自身を良い方に導いているのか、

考え直してみるのもいいでしょう。

この法蔵菩薩のお話は、今までの自分の経験ではわかりにくいですが、

いつか「そういうことか」と腑に落ちる日がくるかもしれません。

今信じられない方もまずは

「お釈迦さまが説かれたお経に説かれていることだから、

ちゃんと意味があるのだろうな」

「今はわからないけど、そういうものなのかもしれない」と判断を留保して、

阿弥陀仏が「我が名を称えよ」

と言われた「お念仏」を実践していくことをお勧めします。

2020年7月4日土曜日

浄土三部経⑬(阿闍世太子)

浄土三部経の二番目、

『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』には、

お釈迦さまがおられた頃、

マガダ国という国の王舎城(おうしゃじょう)という都市で

実際に起こった悲劇が取り上げられています。



當麻寺山内「奥院」より出版の
「當麻曼荼羅(たいままんだら)」絵説き本




マガダ国の王様はビンバシャラ王という王様で、

お妃様を韋提希(いだいけ)さまといいました。

二人の一人息子を阿闍世(あじゃせ)といいました。

阿闍世太子(あじゃせたいし)は、

悪友の提婆達多(だいばだった)にそそのかされて、

父親であるビンバシャラ王を幽閉してしまいます。

ビンバシャラ王の妃、

阿闍世太子(あじゃせたいし)のお母さんである

韋提希夫人(いだけぶにん)は、

ビンバシャラ王が飢えないように、

体に蜜を塗って、冠の下に葡萄ジュースを入れて、

毎日密かに牢屋へ通い、

ビンバシャラ王に与えました。

阿闍世太子(あじゃせたいし)は、いつまで経っても

ビンバシャラ王が飢え死にしないことを

不審に思い、調べます。

そうすると、どうやら母親の

韋提希夫人(いだいけぶにん)が毎日牢屋へ

通っているということを聞きます。

怒り狂った阿闍世太子(あじゃせたいし)は、

韋提希夫人(いだいけぶにん)までも

捕まえて殺してしまおうとします。

その時に、聡明な大臣二人、

月光(がっこう)とギバが

阿闍世太子(あじゃせたいし)を諫(いさ)めます。

今まで歴史上には、王である父親を殺した

という事件は何度もあった。

しかし母親までも殺したということは

聞いたことがない。

もし阿闍世太子(あじゃせたいし)が

韋提希夫人(いだいけぶにん)を殺めたとしたら、

王族として恥ずべきことで、

世間も許さないであろうと言うのです。

さすがの阿闍世太子(あじゃせたいし)も怯んで、

韋提希夫人(いだいけぶにん)を

殺すことを断念しました。

しかしそのまま放っておくと

またビンバシャラ王の元へ通うであろうと、

牢屋へ閉じこめてしまいます。

2020年7月3日金曜日

浄土三部経⑭(韋提希夫人の嘆き)

韋提希夫人(いだいけぶにん)は、嘆き悲しみ

牢屋の中からお釈迦さまがおられる

霊鷲山(りょうじゅせん)に向かって拝みました。




西山浄土宗東部第一宗務支所より発行の
『絵で読む観無量寿経』




するとお釈迦さまが神通力(じんつうりき)を

使って韋提希夫人(いだいけぶにん)の元に現れます。

韋提希夫人(いだいけぶにん)は、

「私がなぜこんな目に遭わなくてはいけないのでしょうか。

どうかお釈迦さま、私にこんな辛い世界ではなく、

清らかな浄土を見せて下さい」と頼まれます。

お釈迦さまは韋提希夫人(いだいけぶにん)の願いに応えて、

たくさんの浄土を見せましたが、

韋提希夫人はその中で、

阿弥陀仏の極楽浄土をもっと見せて欲しいと

お釈迦さまにお願いします。

お釈迦さまは極楽浄土を自分の力で観るための

瞑想の方法を順番に説かれます。

その後、未来の「末法(まっぽう)の世」の人々が

極楽浄土へ往生することができるように、

お念仏の教えを説かれます。

色んな教えを説いたけれども

南無阿弥陀仏のお念仏こそが

一番大切なのだとおっしゃるのです。

これを聞いて韋提希夫人(いだいけぶにん)は念仏の人になります。

2020年7月2日木曜日

浄土三部経⑮(出世の本懐)

韋提希夫人(いだいけぶにん)へ教えを説き終えた

お釈迦さまはお弟子の阿難尊者に、

お念仏のみ教えをずっと後まで伝えてくれよ、

そうしないと後の人々は救われないぞと説かれます。

このことを「念仏付属(ねんぶつふぞく)」といいます。






當麻寺山内「奥院」発行
『當麻曼荼羅絵解』DVD





お釈迦さまは「色んな人」がいる、

そのそれぞれに合わせて多くの教えを説かれました。

このように人の能力に合わせて教えを説くことを

浄土三部経①にも書きましたが


「対機説法(たいきせっぽう)」といいます。

しかしそれでも漏れる人がいます。

能力が高い人だけを対象にしていると、

救われない人が大勢でてきます。

念仏は「すべての人」が対象です。

「すべての人々を救ってやりたい」と願われて

お念仏のみ教えを説かれました。

「すべての人々を救いたい」という

お釈迦さまの思いを実現できるのは

「南無阿弥陀仏」のお念仏のみ教えだけだったのです。

そういう意味から、お念仏は

お釈迦さまがこの世に現れた一番の目的だと言われます。

お釈迦さまがこの世に現れた

「本懐(ほんがい)」だと言われます。

「出世の本懐(しゅっせのほんがい)」です。

2020年7月1日水曜日

浄土三部経⑯(一蓮托生)

次は『阿弥陀経(あみだきょう)』です。

よく法事などで読まれますので

なじみ深いのではないでしょうか。




奈良市興善寺の蓮




『阿弥陀経』には、実際にここから

西へ十万億土(じゅうまんのくど)という

遙か遠く離れたところに極楽浄土という

素晴らしい国があり、

そこに阿弥陀仏という仏さまが今現在もおられて、

そこで説法しておられると説かれています。

そして極楽の美しい様子が次々に描写されます。

その極楽浄土へ往生するためには、

自分の力では往生できないと説かれます。

自分の力でいくら善業(ぜんごう)を積んでも、

たかが知れている。

阿弥陀さまにお任せして、

お念仏を称えることこそ、

極楽浄土へ往生する最善のみちである

ということが説かれます。

迷うことなく極楽へ往生したら、

そこには阿弥陀さまをはじめ、

観音菩薩さま、勢至菩薩さまがおられて、

また先に往生されたみなさんの大切な人にも

会うことができるのです。

それが本当に叶うのがお念仏のみ教えです。

このように「同じ極楽浄土で会う」み教えを

「倶会一処(くえいっしょ)」とか、

「一蓮托生(いちれんたくしょう)」といいます。

「一蓮托生(いちれんたくしょう)」といいますと、

「悪い意味で運命を共にすること」と

一般には理解されていますがそうではありません。

お念仏のみ教えを信じ、お念仏を称える者同士が、

「必ず極楽浄土で会おうね」と本気で約束できる、

「念仏者同士の合い言葉」です。

2020年6月30日火曜日

浄土三部経⑰(諸仏証誠)


『阿弥陀経(あみだきょう)』の後半は、

東・南・西・北・下・上の六方(ろっぽう)、

要するに「あらゆるところ」におられる仏さまが

みんな「阿弥陀さまの念仏の教えは間違いない

と証明して下さっている」ことが説かれています。

東には○○仏、△△仏、□□仏という仏さまがおられ、

みんな「阿弥陀さまの教えは間違いない」

と証明しておられます。

南には、○○仏、△△仏、□□仏という仏さまがおられ、

みんな「阿弥陀さまの教えは間違いない」

と証明しておられます。

西には、北には、下には、上には、と順番に挙げられ、

どの仏さまも阿弥陀さまを信じてお念仏を称えるように

勧めて下さっています。

くどいほどに多くの仏さまのお名前が出てきて、

「阿弥陀さまの教えは間違いないよ」

と示して下さるのです。

お念仏の教えというのは誰もができる教えですが、

それを信じるのが難しいのですね。

逆説的ですが、「信じられないほど素晴らしい教え」とも

言うことができます。



大本山百万遍知恩寺の阿弥陀経碑




今まで私達は苦しみ迷いの世界を巡り巡ってきました。

どんなに長い間苦しみ続けてきたか。

今念仏の教えに遇って、ようやく極楽浄土へ

往生するチャンスを得ました。

阿弥陀さまの本願を信じてお念仏を称えていたら、

必ず臨終の時に阿弥陀さまが直々にお越し下さり、

間違いなく遙か西の彼方に実際にある

極楽浄土へ往生させていただける。

こんなにありがたいことであるのに

信じるのは難しいのですね。

ですから、これだけたくさんの仏さまが、

「これでも信じられぬか!これでもか!」

と証明して下さっているのです。

ありがたいことです。

仏さま方がこれほどまでに

願って下さっているのですから、

我々は素直に「信じる力」というものを持ちたいものです。

(浄土三部経の項終わる)

8月前半のことば 「亡き親の しきりに恋し 蝉の声」

 8月前半のことば 「亡き親の しきりに恋し 蝉の声」   若い頃、親の言葉を素直に聞けず、反発ばかりしていた日々はありませんでしたか。進路のことで衝突したり、ささいな注意に声を荒らげたり。  しかし自分が親となり、泣きやまぬ我が子を抱いて途方に暮れる時、かつて自分を包んでいた親...