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2020年7月25日土曜日

念仏と出会うということ①(六道輪廻)

「仏教入門」で「仏教の目的は苦からの解脱である」

と申し上げました。

そして

1,この人生におけるあらゆる「思い通りにならないこと」

2,「苦しみを味わう原因は煩悩にあること」

3,「苦しみから逃れる術は煩悩を断つことである」

4,「そのために仏道修行がある」

という四項目についてお伝えしました。

ただ、仏教でいうところの「苦」というのは

「思い通りにならない」という意味で、

このことは「今のこの人生」だけのことではありません。

死を迎えたらまた次の生があり、

また次の生があり、と延々と

「生まれては死に」を繰り返すというのです。

私たちには前世があり、

そして死んだ後も後世(ごせ)がある。

後世(ごせ)とはいわゆる来世のことです。

命の始まりを辿っても始まりはない。

これを文字通り「無始」(むし)といいます。

終わりを辿っても終わりはない。

「無終」(むじゅう)といいます。

始まりはなく終わりはない。

「無始無終」(むしむじゅう)なのです。

そして前世や後世(ごせ)といっても、

決して人間であったとは限らないといいます。

もしかしたら前世は地獄にいたかも知れない。

今の行いが悪ければ、

後世(ごせ)は餓鬼道(がきどう)で苦しむかも知れない。

そういう苦しみ、迷いの世界を

延々経巡ってきた結果、今私たちは

人間に生まれてきたということです。

このように地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の

六つの世界を生まれ変わり死に変わりくり返す。

このことを「六道輪廻」(ろくどうりんね)と申します。

今私は人間として生まれ、

その真っ最中にいるというのです。

『ぼくを探しに』
シルヴァスタイン

2020年7月24日金曜日

念仏と出会うということ②(地獄・餓鬼・畜生)

「地獄」とは、苦しみしかない世界です。

人間の世界は楽しみもあるでしょう。

しかし地獄は苦しみしかないのです。

「餓鬼」とは、飢えに苦しみ続ける世界です。

絶えずお腹が減って仕方がないのですが、

食べ物を食べようとすると

それが火に変わって、肌を焦がします。

いつも喉が渇いているのですが、

飲み物を飲もうとするとそれが

熱湯に変わってやけどをしてしまうのです。

いつもお腹が減っていて、

目の前に食べ物があるのに食べることが

できない世界が餓鬼の世界です。

我々の目には見えませんが、そのような「餓鬼」が

そこらじゅうにいるというのです。

そのような「餓鬼」に食べ物や飲み物を施し、

彼らの仏縁を結んで供養する法要を「施餓鬼」(せがき)

といいます。

施餓鬼法要ではこの「餓鬼」に施したことによって

得られる功徳をすでに極楽浄土におられる

自分の大切な方のために回向(振り向ける)ために、

「塔婆回向」をしています。

「畜生」は動物の世界です。

野生の動物は一瞬一瞬が死と隣り合わせです。

いつなんどき襲われるかわかりません。

家畜は人に食べられるためだけに生かされ、

小屋に詰め込まれてエサを与えられます。

そして食べ頃になったら殺されます。

ペットは自由を奪われて、

飼い主のコントロール下で一生を過ごします。

この地獄、餓鬼、畜生の三つが、

六道の中でも特に辛い世界なので、

これを「三悪道」といいます。

三悪道は「三途」ともいいます。

「三途の川」というのを聞かれたことはありませんか。

あれは三悪道へ渡る川なのです。

『地獄と極楽』
監修・勝崎裕彦


2020年7月23日木曜日

念仏と出会うということ③(修羅・人・天)

「修羅」というのは殺し合いに明け暮れる世界です。

憎しみ合い、殺し合うことを繰り返す世界です。

「人」の世界はどうでしょうか。

四苦八苦の世界です。

それでも「幸せもあるじゃないか」とも思います。

しかしそもそも幸せって何でしょうか?

 大きな病気をされた方が、治ったら

「生きているだけで幸せです」とおっしゃいます。

でもしばらくすると不満を言い出します。

「家族が健康でさえあれば幸せです」と言う人は

多くおられます。

私もその一人です。

一見ささやかな望みのようですが、

よくよく考えると、

実は絶対に実現しない望みです。

人は生きていたら必ず病気になり、老い、死にます。

自分の家族だけその四苦八苦から逃れられることは

できないと気づかされます。

健康・お金・家族・生きること、

そういったすべていつか必ず失うものを

幸せだと思っていると、必ず不幸になる

というのは言い過ぎでしょうか。

我々が幸せだと思っているものは

すべて相対的な幸せです。

喉が渇いて死にそうな時には

一杯の水を飲むだけでも幸せです。

でも喉の渇きが収まったらもう水は要りません。

ですから水を飲むこと=幸せではありません。

「苦あれば楽あり」というようなものは

本当の楽ではありません。

つかんだと思ったら消える。

「幸せとは何?」の答えは「今が幸せ!」

とその一瞬を幸せと思う以外にないのかもしれません。。

そうは言っても自分自身に

思いがけなく辛いことが起こった時に

本当にそう思えるのか?と自問すると、

決して「はい」と答えることのできない自分があります。

仏教の目的は幸せを追い求めるのではなく、

苦から解脱することです。

我々の苦の原因は我々自身の煩悩にあるのだ、

と仏教では説きます。

煩悩につきましてはまたそのうちお伝えします。

今はまず、煩悩をコントロールできず、

相対的な幸せを求める人は、実は幸せになれない

という厳しい現実に目を向けてみましょう。

そこに目を向けると、「このままでは私たちは

絶対に幸せになれない」というとても怖い現実を

見ていかなくてはなりません。

だから仏教を学び、信じていくのです。

それを少しずつ申し上げていきます。

「天」は快楽の世界です。

快楽とは何でしょうか。

もし「毎日酒を飲み、美味しいものを食べ、

きれいな女性に囲まれて、あるいは美男子に……」

そのような「快楽を求める」という生き方が

本当に幸せなのかどうかも考えてみる

必要があるでしょう。

そして天であっても寿命はあります。

人間とは比べものにならないほどの

長命だそうですが、それでもいつか死を迎えます。

生きている間快楽な分、

「死にたくない」と思う心は

人間がそう思うよりもずっと強く、

大きな苦しみを伴うといいます。

絵本『地獄』
監修・宮次男


2020年7月22日水曜日

念仏と出会うということ④(輪廻するとはどういうことか)

この六つの世界、「六道で」一生を全うしたら、

また次の世界に生まれ変わるというのが

六道輪廻という教えです。

仏教の前提にこの輪廻の思想があります。

人間は死んだらどうなるのか。

死んだらそれで終わりではありません。

もし死んですべて終わりならば、

この世を好き放題に生きて、

無茶苦茶なことをして死んでも

どうってことはないはずです。

でもそうではないでしょう?

体がゴミになって、残された人たちの

心の中で生き続けるなどとも言いますが、

それだけではない、というのが輪廻の考え方です。

人は死んだら生まれ変わるのです。

日本人は「生まれ変わる」というと、楽観的に捉えます。

「生まれ変わったらまた一緒になろうね。」

「生まれ変わったらこんな仕事がしたい。」

しかしインド人がいう「輪廻」はそうではありません。

何度も老い、病になり、死ぬということを恐れるのです。

年老いたくないのに年老いていく、

誰も病気になんてなりたくないのに病気になる。

死にたくないのに死ぬ。

愛する人と別れたくないのに必ず別れる。

嫌いな人と嫌でも会わなくてはならない。

誰もそうなりたくないのになってしまう。

それを生まれ変わり死に変わりして

繰り返すことを恐れるんです。

「もうこんな苦しみを繰り返したくない!」

ということです。

輪廻というのは楽しいものではありません。

苦しみの世界、迷いの世界を経巡ることをいうのです。

繰り返し「仏教の目的は苦からの解脱である」

と申していますが、ただ単に

今の一生の苦しみから逃れることを

言っているのではありません。

一生の苦しみから逃れるだけならば、

死んだらおしまいです。

でもそれですまないというのですから恐ろしいのです。

六道を経巡って苦しみを繰り返し苦しみを味わう輪廻。

そこから逃れ出るのが仏教の目的なのです。

『悲しい本』
マイケル・ローゼン


2020年7月21日火曜日

念仏と出会うということ⑤(人に生まれることは難しい)

⑤人に生まれることは難しい

「お釈迦さまのご生涯」の項で、

お釈迦様の幼少期のお話しをいたしました。

お釈迦様がお生まれになったとき、

「生まれてすぐに七歩歩まれた」という

お話が伝わっています。

これは正に仏教が「六道を出るみ教え」

であることを表しています。

今私たちは輪廻を繰り返し、何とか

三悪道から脱出して人間に生まれてきました。

これは決して当たり前のことではありません。

生物学的にも1億から4億の精子が

たった一つの卵子と結びついて

生を受けたことを思うと、

こうやって生まれてきたことは

とても不思議なことです。

また、自分の両親がどのようにして

出会ったかを考え、またその誕生を考える。

先祖にまで心を向けると、

決して「たまたま」という言葉だけでは片付けられない、

今生まれてきたことの不思議さを思わずにはいられません。

ただ、だからといって、それを感謝しろと言われても、

できない人もいます。

生まれてきた環境や育つ環境が過酷を極めている、という人も

おられるかもしれません。

「この世になんてうまれたくなかった。誰が産んでくれと言った?」と

親を恨む人もおられることでしょう。

生物学的に、社会学的にいくら不思議だと言われても、

それを有り難いと思うかどうかは本人次第です。

仏教で説く輪廻の考え方は、生物学的な遺伝や社会的な関わりに留まりません。

輪廻しずっと経巡り続ける中で、

仏典に説かれる「人として生を受ける不思議さ」

についての譬喩をご紹介しましょう。

天から糸を垂らします。

その糸は風に流されながらゆっくりと海面にたどり着きます。

糸は海水を含んで徐々に沈んでいきます。

沈む間に波や潮に流されることでしょう。

しかしゆっくりゆっくりと沈んでいきます。

海底には一本の針が横たわっています。

沈んでいく糸が海底にたどり着き、

海底に横たわる針の穴を通ることがあるでしょうか。

まずあり得ませんね。

それほどに「人の身を受けることは難しい」というのです。

そのたまたま人間に生まれてきた時に、

仏教とご縁を結び、お念仏との

ご縁ができたならばそれはとても不思議なことです。

『ブッダがせんせい』
宮下真


2020年7月20日月曜日

念仏と出会うということ⑥(遇いがたき教え)

地獄・餓鬼・畜生といった悪道に墜ちる原因は何か?

それは私たちの煩悩です。

煩悩による行いを日々重ねて一生を過ごし、

ほとんどの者が命尽きた後に三悪道に墜ちる。

一度悪道に墜ちると、抜け出すのは至難の業です。

なぜなら自分が苦しい時に、善い行いなんてなかなかできません。

それどころか、人を騙して出し抜いてでも自分が助かろうとするでしょう。

悪い行いばかりを繰り返し、何度も地獄・餓鬼・畜生を経験せざるを得ません。

まるで蟻地獄のように、這い出したくてもズルズルと元の悪道へ戻ってしまうのです。

私たちもかつてはきっと地獄や餓鬼道でもがき苦しんだ過去があるということでしょう。

その中で私たちは今、人として生を受けました。

このことをどう受け止めればよいのでしょうか?

それはきっと、今まで悪道で苦しむ中で、少しではあっても、善い行いを重ねてきた結果なのでしょう。

酷い環境の中で、僅かずつでも善い行いをして、それが重なり、

ようやく人間として生まれてきたといえます。

「誰も産んでくれなんていっていない」と言うけれど、そして記憶にもないけれど、

今、人として生まれてきたのは、過去に、前世に、血の滲むような努力を重ねてきた

結果なのです。

「輪廻なんて信じられない」という人は多いでしょうが、

仮にでも結構ですので「もし輪廻というものがあるならば」と考えてみてください。

「生物学的に不思議」というだけでなく、

「私は今まで自ら努力して、その結果ようやく人として生まれてきたんだ」と

思っていただきたいのです。


『無量寿経』というお経の中に、

このような一節があります。



「善行を修めてこなかった人は

(無量寿仏の救いを説く)この経を

耳にすることはできない

清く正しく戒をたもってきた人こそ

はじめて真理に即した

(この)教えを聞くことができる

かつてみ仏と出会ったことがあれば

こうした(無量寿仏の救い)を

信ずることができる」
             ※『現代語訳浄土三部経』



つまり今こうして人として生まれ、

お念仏のみ教えと出会ったのは、

記憶にはないけれど、前世で相当によいことを

したということです。

覚えていないけれども、善いことを

してきた結果が今のお念仏との出会いなのです。

そして、そのお念仏の教えを信じることが

できる人は前世のいつかどこかで、

仏さまと出会ったことのある人だというのです。

このようにも書いてあります。



「(よいか)この世に生は受け難く

仏(の教え)が世にある時代に

生まれることはさらに難しい

(もし生まれたとしても)仏(の言葉)を信じ

(そしてそれを)正しく理解するのは難しい

もし(仏の言葉を)耳にしたならば

懸命に(仏道を)求めよ

(仏の)教えを聞いたならよく心にとどめ

(仏の姿を)拝したならば恭しく敬え」
                ※『現代語訳浄土三部経』



私は幾度となくこの『無量寿経』を読んできました。

しかし長らくこの箇所に書かれているところをサラッと読み過ごしていたようです。

この内容に気がついたとき、目が覚める思いでした。

「自分が人として生まれ、

お念仏のみ教えと出会ったのは、

前世からのつながりがあったからなのか!

こうやって阿弥陀仏の本願を信じることが

できるようになったのは、

前世に仏さまと遇ったことがあったからなのか!」

と感激しました。

『こどもブッダのことば』
監修・齋藤孝


2020年7月19日日曜日

念仏と出会うということ⑦(チャンスを逃してきた私)

『無量寿経』の言葉の意味に気づいた感激は続き、

しみじみと喜びを味わいました。

しかしふと気がつきました。

「過去に仏と遇いながら、

今現在まだ輪廻しているというのはどういうことか?」

そうです。

かつて仏と遇うほどの強い縁に遇いながら、

その時には心が向かなかったのでしょう。

仏がお説きくださることに従わず、それをないがしろにし、

日々の忙しさにかまけて煩悩による行いを続けて、

また悪道で長い時間を過ごしたのでしょう。

仏と出会いながら、そのチャンスを

ものにすることができなかったのです。

それでまた生まれ変わり死に変わり輪廻を繰り返し、

やって人として生まれた。

それからまた輪廻を繰り返し、

このたびもう一度人として生まれ、

仏教に出会い、お念仏のみ教えと出会った。

そしてこのたびはようやく

信じることができたのです。

何度も輪廻を繰り返し、ようやく輪廻から離れ、

西方極楽浄土へと往生するチャンスを

ものにすることができたのです。

『現代語訳 浄土三部経』
浄土宗総合研究所編


2020年7月18日土曜日

念仏と出会うということ⑧(悦びの中の悦び)

私たちは何となく人に生まれ、

何となくお念仏と出会ったので決してないのです。

「お念仏」とか「南無阿弥陀仏」

という言葉を知っている人は

日本全国に多くおられるでしょう。

しかしお念仏の教えを聞き、それを信じ、

南無阿弥陀仏と称える人は

皆さんの周りにたくさんおられますか?

殆どおられないのではありませんか?

南無阿弥陀仏と称える者は、

阿弥陀仏という仏さまが苦しみの世界から

救い出してくださいます。

極楽浄土という、一切苦しみのない

世界へと救い出してくださいます。

お念仏の教えを信じ、南無阿弥陀仏と

称える者だけが、無始無終の永遠の苦しみの

呪縛から逃れることができるのです。


極楽浄土へ往ったならば、

先に往生されたみなさんの大好きな、

縁の深いあの人ともこの人とも再会することができます。

みなさんが往生されましたら、

残した人を導くことができます。

みなさんの慕わしいあの人も

極楽から見守ってくださっています。

お導きくださっています。

どうか極楽浄土へ心を向けてください。

あの人は極楽でどう思って

私を見て下さっているのだろう?

心配して下さっているだろうな。

というように思いを寄せていくのです。

極楽に往生されたあの人は

きっと私が念仏のみ教えに入ろうとしていることを

喜んで下さっていることでしょう。

法然上人はこうおっしゃいます。

「生まれがたい人の世に生を受け、

会いがたい阿弥陀様のみ教え、

お念仏のみ教えと出会い、

その教えを信じる心をお越し、

苦しみの世界から極楽浄土へ

往生させていただくことは

悦びの中の悦びであるぞ」

このたび決して当たり前でない

ご縁を結ばせていただいたのだということを

忘れずにいたいものです。

『輪廻と解脱』
花山勝友


        (「念仏と出会うということ」の項終わる)

8月前半のことば 「亡き親の しきりに恋し 蝉の声」

 8月前半のことば 「亡き親の しきりに恋し 蝉の声」   若い頃、親の言葉を素直に聞けず、反発ばかりしていた日々はありませんでしたか。進路のことで衝突したり、ささいな注意に声を荒らげたり。  しかし自分が親となり、泣きやまぬ我が子を抱いて途方に暮れる時、かつて自分を包んでいた親...