四修(ししゅ)の三つ目は
無間修(むけんじゅ)です。
「間無く」と書きますように、
お念仏を称え続ける生活です。
念仏信仰ができたら、ありがたいと思って
お念仏を称えるようになります。
でも時間が経ってくると、
段々疎かになってしまうのが常です。
そして、ついには称えなくなってしまう。
これでは念仏信仰があるとは言えません。
かといって、ずっとずっと一瞬の間もなく唱えよ、
と言われるととてもできそうにありません。
お念仏をすっかり忘れてしまうことなく、
維持するにはどうすればよいのでしょうか。
兵庫県尼崎市武庫之荘にある 浄土宗寺院です。 仏教や浄土宗の教えについて、 浄土宗の作法についてなどの 説明・解説をします。 皆さんが仏教や浄土宗に 興味を持ってくだされば ありがたく存じます。
四修(ししゅ)の三つ目は
無間修(むけんじゅ)です。
「間無く」と書きますように、
お念仏を称え続ける生活です。
念仏信仰ができたら、ありがたいと思って
お念仏を称えるようになります。
でも時間が経ってくると、
段々疎かになってしまうのが常です。
そして、ついには称えなくなってしまう。
これでは念仏信仰があるとは言えません。
かといって、ずっとずっと一瞬の間もなく唱えよ、
と言われるととてもできそうにありません。
お念仏をすっかり忘れてしまうことなく、
維持するにはどうすればよいのでしょうか。
皆さんの中には、散歩やジョギング、
あるいはゴルフを続けている、
という方もおられるでしょう。
ただ、続けているからといって、
まさか365日24時間散歩やジョギング、
ゴルフをしているわけではないでしょう。
週に一度、月に一度であっても、
「続けていますか?」と問われたら
「はい、続けていますよ」とお答えになるでしょう。
この「無間修(むけんじゅ)」も、
いくら「間無く」、といっても
24時間ずっと唱えよというわけではありません。
「自分が続けていることを忘れない程度に」
続けることが大切です。
お念仏の場合は最低でも毎日称えましょう。
散歩やジョギングなら一日おきでも
忘れないのかもしれません。
でも間を空けると気持ちが萎えることもありますよね?
お念仏は一日おきでは忘れてしまいます。
少なくとも毎日唱えていただきたいのです。
「日課誓約(にっかせいやく)」という作法があります。
「毎日の日課に、お念仏を○○遍称えます」と
仏さまの前で誓うことです。
五重相伝(ごじゅうそうでん)という、
浄土宗信徒にお念仏のみ教えを「五つ重ねにして」
お伝えする法要があります。
その五重相伝(ごじゅうそうでん)を
受けた方には、たとえば日課「300遍」や「500遍」
毎日称えることを本尊さまの前で誓っていただきます。
「一日300遍なんて、とても無理!」と
思われるかもしれませんが、
実際にやり始めると、
大したことではないことがわかります。
300遍称えるのには5分もかかりません。
何よりも、毎日唱えていたら癖になります。
癖になれば、しめたものです。
歯を磨いたり、洗顔を忘れることがないように、
お念仏を称えないと、物足りなくなります。
日課誓約は最低限の数ですから、
それ以上、それ以上と毎日続けていただきたいのです。
毎日毎日念仏を続けていく。
これが無間修(むけんじゅ)です。
四修(ししゅ)の最後は
長時修(じょうじしゅ)です。
「お念仏を一生涯続けていく」ということです。
先の無間修(むけんじゅ)でも申し上げた通り、
中途でやめてしまったら何もなりません。
どうかお念仏を一生涯お称えいただきたいと思います。
一生涯というのは、お念仏の信仰を持った
その時から臨終のまでです。
20歳で信仰をもったら20歳から。
30歳ならば30歳から臨終まで。
20代にお念仏と出会った人と、
80代でお念仏と出会った人では
唱える期間は自ずと異なります。
当然80代で出会った人の方が短くなります。
しかしそれを問うものではありません。
たとえ臨終間際にお念仏と出会った人でも
そこから唱えればよいのです。
その期間の長短は問われません。
もし仮に途中で怠ってお念仏を忘れてしまったら、
それでは取り返しがつかないのかというと、
そうではありません。
また「やろう」という気持ちを起こして
改めてお念仏に取り組めばよいのです。
そこから新たに「臨終のその時まで」と
精進しましょう。
「後に認知症になったり、病気をして
お念仏を称えられなくなったらどうしよう」
と心配される方がたまにおられます。
その心配は無用です。
称えられなくなるまで、称えればいいのです。
今まで阿弥陀さまの本願を信じて、
お念仏を称えてきた人が、病気になって
称えられなくなったからといって、
阿弥陀さまがお見捨てになるはずが
ないではありませんか。
不確かな未来を心配するより、
今お念仏を称えられることを悦んで、
称えられなくなるまで称えればよいのです。
「敬って ただみ名ばかり 怠らず
命限りに 勤むるが四修(ししゅ)」
「敬って」は恭敬修(くぎょうしゅ)。
「ただみ名ばかり」は無余修(むよしゅ)。
「怠らず」は無間修(むけんじゅ)。
「命限りに勤むる」は長時修(じょうじしゅ)です。
四修(ししゅ)とは、
「お念仏はありがたいなあ」と気づいた人が、
今後どうやって毎日の生活を
進めていくかを示すものです。
念仏するものは「阿弥陀さまをはじめとした
三宝(さんぼう)を敬う」。
これが恭敬修(くぎょうしゅ)です。
「お念仏一筋に!」
これが無余修(むよしゅ)。
「毎日お念仏を続けていく」
これが無間修(むけんじゅ)。
「一生涯お念仏を続けていく」
これが長時修(じょうじしゅ)です。
無間修(むけんじゅ)が続けば
それが即ち長時修(じょうじしゅ)になります。
このような「念仏生活」をお勧めします。
(四修の項終わる)
浄土宗は「南無阿弥陀仏」と称えることを旨とする宗派です。
だからといって「100円やるから称えてごらん」
と言われて称えたらいいのか?というと、
そんなはずはありません。
「どういう心持ちで念仏をとなえればよいのか?」
ということが大切です。
その心持ちのことを「安心(あんじん)」と申します。
また安心(あんじん)は念仏信者の
「心の据えどころ」だと言われます。
心を「安置」するのです。
仮置きすることを「安置」とはいいません。
「しっかりとこの場所に」固定する。
滅多なことでは動かさない。
それが「安置」です。
「安心(あんじん)」とは心の置き所。
心を安置する所です。
「あんしん」ではありません。
「あんしん」は心が安らぐこと。
「安心(あんじん)」は「心を安置する」こと。
「あんしん」と安心(あんじん)では随分意味が違うのです。
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