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2025年12月14日日曜日

12月後半のことば 自分の罪に気づいたら…

 12月後半のことば

「雪のうちに 仏の御名を称うれば 積もれる罪ぞ やがて消えぬる」     法然上人                

 しんしんと降る雪は、一粒はか弱くても、積もれば景色を一変させ、道さえ塞いでしまいます。私たちの心に積もる「罪」も、これに似ています。

 悪気はなくとも自分と他人を傷つける、妬みや見栄といった「煩悩の行い」を私たちは日常で繰り返します。まるで音もなく降る雪のように、一つ一つは些細でも、知らないうちに心の奥底に罪が積もり、やがて重い荷物となってしまうのです。

 法然上人は、煩悩をなくせない凡夫であると自覚され、自らの救いを求め続けて、お念仏のみ教えと出会われたのです。

 このご道詠の真意は、降り積もった雪が太陽で溶けるように、私たちが積んでしまった罪も、ただひたすらに「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えることによって、たちどころに消え失せるという教えです。

 阿弥陀仏は、煩悩を捨てられない私たち凡夫を、お念仏一つで救うという誓願を立てられました。ですから、嫌でも積もる罪を恐れる必要はありません。自分の罪の重さを知ったならば、阿弥陀仏のお慈悲を信じて、お念仏を称えるのみです。ただこの身を阿弥陀仏にお任せしてお念仏を称え、この世をしっかりと生き抜いていくのです。

 この雪の季節、静かにお念仏とともに、心の雪を溶かしていきましょう。

2025年11月30日日曜日

12月前半のことば この世は無常とわかっていても…

 12月前半のことば

「露の世は 露の世ながら さりながら」 小林一茶


 仏教は「この世は無常である」と教えます。どんな命もいつかは終わり、どんな形もいつかは崩れる。理屈としては誰もが知っている真理です。しかし、それを心の底から受け入れることが、どれほど難しいか。最愛の人を亡くした時、「無常だから仕方ない」と頭ではわかっても、涙は止まりません。言葉は空しく響き、心は納得しません。

 小林一茶は、長い貧乏暮らしの末にようやく家庭を持ち、子どもに恵まれました。けれどもその子は、生まれて間もなく亡くなってしまいます。悲しみの底に立ち、どうしようもない喪失の中で詠んだのが、「露の世は 露の世ながら さりながら」という句でした。この世は露のようにはかない、それはわかっている。けれども、けれども……と、言葉が続かない。理(ことわり)と情(こころ)のあいだで裂かれるような一茶の呻(うめ)きが、この十七音の中にあります。

 仏教では、こうしたどうしようもなさを抱えた存在を「凡夫(ぼんぶ)」といいます。無常を知りながら、受け入れきれず、涙する者。しかし、まさにその「凡夫」こそが、阿弥陀仏の救いの対象なのです。無常を悟りきった聖者ではなく、悟れずに泣く者こそが、救われる。

 一茶の句は、人間の弱さを突き放さず、そのまま見つめています。受け入れられない心を、そのままの形で詠みとどめた一句。そこに、凡夫として生きるほかない私たちの姿が、浮かび上がってくるのです。

2025年11月14日金曜日

11月後半のことば 念仏の念は「思うこと」ではないの?

 11月後半のことば

念仏の「念」は声


 「念」とは、ふつう「思うこと」を意味します。だから「念仏」とは「仏を思うこと」と考えるのが自然でしょう。実際、仏教の修行の中には、瞑想によって仏の姿や浄土の光景を心に思い描く行があります。静かに座り、心を澄ませ、阿弥陀仏の慈悲の相を目の前に映し出す。それも立派な「念仏」です。けれども、この心に仏を思い浮かべる行は、言うほどやさしいものではありません。心はすぐに散ってしまう。雑念が入り込み、仏どころか今日の夕飯の心配にまで及んでしまう。人間とはそういう存在です。

 唐の善導大師は、瞑想の境地に立った上で、「阿弥陀仏の本願にある念仏とは、声に出してその名を称えることだ」と説かれました。つまり、「南無阿弥陀仏」と口に出すことが、阿弥陀仏の極楽浄土へ往くための道なのです。日本の法然上人はこの教えを受け継ぎ、「念は声である」と明言しました。心は不安定でままならないものです。声に出すことは、容易く確かでまっすぐです。声は空気を震わせ、自分の耳に返ってくる。すると、仏を称える声が、自分を包み、導くように感じられもします。

 極楽浄土への道は、特別な才能や深い瞑想を必要としません。ただ「南無阿弥陀仏」と称えるだけでよい。思うだけでは届かないところに、声は届く。こんなにありがたいことがあるでしょうか。声は、誰にでも与えられた往生浄土のための行なのです。

2025年10月31日金曜日

11月前半のことば「凡夫にとっての善は所詮自分のためになること」

 

11月前半のことば

凡夫にとっての善は所詮自分のためになること

 人はだれでも、善い人でありたいと思っています。けれども、心の奥をのぞいてみると、「自分だけが得したい」「あいつより上にいたい」といった思いが顔を出します。

 善いことをしても、「人に感謝されたい」「少しでも認められたい」と、どこかで打算が働いているものです。そんな自分に気づくと、少し情けなくなりますが、それが「凡夫(ぼんぶ)」の正直な姿なのでしょう。


 仏教には、「因果の道理」が説かれています。善い因を積む者は楽の果を受け、悪い因を積む者は苦の果を受けます。

 しかし、煩悩に満ちた私たちが、まことの善をなすことは容易ではありません。どうしても、自分を中心にしか物事を見られないのです。


 阿弥陀仏(あみだぶつ)は、そんな私たちを見捨てることができず、「善をなせぬ者をどうすれば救えるか」と、五劫(ごこう)という長い時間、思い悩まれました。

 そして、『南無阿弥陀仏』という名号の中に、ご自身の修めたすべての功徳(くどく)を込めてくださいました。


 私たちは、もはや自分の力に頼らずとも、『南無阿弥陀仏』と称えることで、阿弥陀仏の功徳に結ばれ、「極楽(ごくらく)へ生まれる」という楽の果をいただくことができます。

 阿弥陀仏は、因果の道理を曲げずに、凡夫のための道を開いてくださいました。

 人の弱さを知り抜いた上で、それでもなお救おうとするお慈悲の深さ。そのことを思うと、ただ『南無阿弥陀仏』**と称えたくなりませんか。

2025年10月14日火曜日

10月後半のことば 否定的な思考が苦しみを引き寄せる

 10月後半のことば

「苦しみというのは、牛が引く車のように、否定的な思考に続いてやってくる」ダンマパダ


 お釈迦さまがお伝えくださった仏教の教えは、「苦しみ」から逃れ出るためにあります。誰にも避けられない「老いや病、死」といった大きな苦しみだけでなく、私たちの多くは、もっと日常的な「思い通りにならないことへの心のざわつき」に悩んでいます。

 もちろん、地震や事故のような、避けられない外部の出来事からくる苦しみもあります。これらをすぐに「受け入れろ」と言われても難しいでしょう。しかし、私たちが日々感じているストレスやイライラの多くは、実は自分の心のあり方が作り出しているとしたらどうでしょうか。この小さな苦しみの正体に対処できるようになれば、やがて来るかもしれない大きな苦しみさえも乗り越える力が備わるかもしれません。

 仏教では、「苦しみ」は、「否定的な心」、つまり「思い通りにならないことを、強引に自分の都合の良いようにしようとする自己中心的な心」に必ずついてくると説かれます。これは、牛が引く車のように、「心(牛)」の後を「苦しみ(車)」が必ず追ってくる関係だとたとえられています。

 たとえば、家族やパートナーが自分の期待通りに動いてくれないとき。「なぜわかってくれないんだ」「こうすべきだ」と、相手をコントロールしようと腹を立てる。これが「自己中心的な心(牛)」です。その結果、イライラが募り、関係が悪化し、孤独感や怒り(苦しみ=車)に苛まれます。また、仕事で正当に評価されなかったと感じたとき。「自分だけが損だ」「もっと認められるべきだ」と、現状を受け入れず、自分の欲望を満たそうと焦り、不満を膨らませる。これも「自己中心的な心(牛)」です。その結果、自己嫌悪や嫉妬心に心が焼かれ、満たされない気持ち(苦しみ=車)に苦しむのです。

 仏教の教えは、この「心の牛」に気づくように促します。「今、自分の心はどんな状態か」「どんな感情が湧いているか」と、良い悪いと判断せず、ただ静かに観察する意識を持つこと。これこそが、苦しみの連鎖を断ち切るための最初の一歩です。心のあり方一つで、私たちの世界は大きく変わります。苦しみの車が動き出す前に、自分の心というハンドルを正しく握り直す意識を持つことが、穏やかな日常への道を開いてくれるでしょう。

2025年9月30日火曜日

10月前半のことば

10月前半のことば

「我が心 鏡にうつるものならば 

        さぞや姿の 醜くかるらん」


 社会人は人前に出るとき、まず身だしなみを整えます。髪を撫で、靴を磨き、服の皺を直す。それは相手に不快感を与えぬための礼儀であり、社会という舞台に上がるための衣装でもあります。しかし、どれほど外形を飾っても、心の奥底まで磨き澄ますことはできません。人は皆、煩悩という煤煙を胸に宿し、それはやがて表情や言葉の端々ににじみ出るのです。

 たとえば、同僚の昇進に「おめでとう」と言いつつ、胸中に嫉妬の餓鬼を飼っている自分。会議で相手の失言を逃さず、心中で地獄の鬼のごとく打ち据える自分。混雑した電車で苛立ち、怒りの炎を燃やしながら、隣人を軽蔑する自分。こうした心の断片をもし鏡が映し出すならば、そこに現れるのは凛々しい姿ではなく、地獄道に堕ちた鬼面か、餓鬼道にさまよう影でありましょう。

 「わが心 鏡にうつるものならば さぞや姿の 醜くかるらん」。この道詠は、顔を映す硝子の鏡を、心を照らす仏の智慧の鏡へと変えてしまいます。澄んだ池に月が宿るように、心が静かであれば、その鏡には清らかな光が映ります。しかし、煩悩の波にかき乱されれば、月影はたちまち濁り、ただの闇と化してしまいます。

 人は他者の眼を恐れて外形を繕いますが、仏の眼にはすでに心の奥底が映っています。恥じるべきは外見の乱れよりも、むしろ心の濁りではないでしょうか。仏の慈悲は、濁りを抱えた私たちにも等しく注がれています。だからこそ、日々の一瞬に、自らの心を省みる勇気を持ちたいものです。 

2025年9月14日日曜日

9月後半のことば

 9月後半のことば

「多様性 仏の目には 皆凡夫」

 近ごろ「多様性」という言葉を耳にしない日はありません。会議でも学校でも、街頭のポスターにすら踊っています。確かに、人は千人いれば千人、百人いれば百人、異なる価値観や性格を持っている。それは事実です。しかし、だからといってその言葉を唱えさえすれば、すべて解決するかのように思っている風潮には、どこか空虚さを覚えます。人はどれほど違えど、結局は「凡夫」でしかないのです。

 凡夫とは、欲に振り回され、怒りに囚われ、迷いを重ねる私たちの姿をいいます。中国の善導大師は「九品皆凡」つまり「みんな凡夫である」とおっしゃいました。高い地位にある者も、学問に秀でた者も、あるいは日陰を歩む者も、みな同じく煩悩を抱えている。その煩悩を断ち切ることができない以上、互いの違いを誇ってみても大した意味はないのです。

 それでも阿弥陀仏は、そんな凡夫をこそ救うと誓われました。私たちは「違いを認め合おう」と声を上げます。しかし仏の慈悲はさらに徹底していて、「違いごと包み込んで救おう」と差し伸べてくださる。人の議論はしばしば分断を生みますが、仏のまなざしはその手前で私たちを丸ごと掬い取ってくださるのです。そのことに気づいたとき、多様性という言葉の軽さを越えて、人と人の違いは光に照らされる色彩のように見えてきます。その有り難さに、せめて頭を垂れたいものです。

2025年8月31日日曜日

9月前半のことば

 9月前半のことば

「阿弥陀仏に 隔つ心はなけれども 蓋する桶に月は宿らず」


 阿弥陀さまのお慈悲は、だれ一人としてもれなく注がれています。その根本には、「必ずあなたを極楽浄土へ迎え取る」という阿弥陀さまのお誓いがあります。極楽とは、苦しみや不安の尽きないこの世を越えた、安らぎの世界です。

 けれども、月が夜空に輝いていても、蓋をした桶には映らないように、阿弥陀さまの光も、私たちの心が閉じてしまえば届きません。

 「こんな自分は救われるはずがない」と疑う心。「まだ元気だから救いなんて先のこと」と思う心。「自分は立派に生きているから仏に頼る必要はない」と驕る心。こうした思いが、光を受けとめることを妨げる蓋となってしまうのです。

 阿弥陀さまが望んでおられるのは、立派な努力や大きな功績ではありません。ただ「救われたい」と願い、お念仏「南無阿弥陀仏」と口にすることです。その願いとお念仏こそが心の蓋を外し、阿弥陀さまの光を映し出す道となります。そして、最後のときには必ず極楽浄土へと迎えてくださいます。

 思いどおりにならないことの多いこの人生だからこそ、阿弥陀さまは「必ず迎える」と誓われました。蓋を外せば、水面に月が映るように、救いの光は今もあなたに届いています。        

2025年8月14日木曜日

8月後半のことば

 8月後半のことば

「生まれる前から忘れん坊」

 人はこの世に生まれる前から、すでに忘却を背負っているのだと仏教は説きます。それを「隔生即忘(かくしょうそくもう)」といいます。前世でどのような過ちを犯し、どんな願いを立てたのかさえ忘れてしまい、そしてまた同じような失敗を繰り返しては悔い、苦しみ、やがて命尽きてはまた生まれ変わる。それが私たちの姿です。

 戦後80年という時を経た今も、人は賢いようでいて、何度も同じところでつまずきます。そして「二度と戦争を繰り返さない」と誓ったはずの思いも、やがて薄れ、欲や争いの心に揺らぐ危険をはらんでいます。しかしそれでもなお、私たちは平和と幸せを願い、生きています。ただ、その願いのかなえ方をいつも見誤ってしまうのです。

 そんな私が今、こうして仏の教えに出会えたことは、大きなご縁です。これまで欲望のままに生き、仏の教えをないがしろにしてきた自分を省みて、今日からは念仏を称えて生きてみたいと思います。

 生まれる前から忘れん坊である私たちだからこそ、忘れてはならないことがあります。それは、阿弥陀仏が、争いを繰り返してきた私たちをも必ず救おうと願ってくださっているということです。この気づきによって、南無阿弥陀仏と念仏を称えるとき、同じ失敗を重ねるばかりの人生でも、ようやく一歩先へ進む力が湧いてくることでしょう。

2025年7月31日木曜日

8月前半のことば

8月前半のことば

「掃苔(そうたい)や 知恩のこころ よみがえる」  高浜虚子

   

 「掃苔」とは、お墓の苔を掃き清めること。お盆や命日などにお墓参りをして、墓石をきれいにしながら手を合わせる。そんな光景を、懐かしく思う方もおられるのではないでしょうか。

 高浜虚子は、この「掃苔」という行為の中に、「知恩」という言葉を響かせました。「知恩」とは、私たちが受けてきた数々のご恩を心に知ることを言います。親の恩、先祖の恩、友や師、社会の恩。ふだんは忘れがちなそれらの恩を、お墓の前で手を合わせるとき、自然と思い出すものです。

 お盆は、まさに「感謝」をあらわす季節でもあります。亡き人々のことを想い、語りかけ、ありがとうと伝える。お墓の苔を掃き清めるのは、ただ石をきれいにするためだけではありません。その行為を通して、自分がどれほど多くの人に支えられて今を生きているかを思い出し、「ご恩に報いる」気持ちをあらたにするのです。

 仏教では、「知恩」や「報恩(ほうおん)」という教えを大切にしています。与えられた恩をただ受け取るだけでなく、それに応えようとするこころ。その第一歩が、手を合わせ、苔を掃きながら亡き人を偲ぶことなのかもしれません。

 街の喧騒の中を歩いていると、つい過去を忘れて今と未来ばかりを追いかけてしまいます。しかし立ち止まって、こうして墓前に向かうとき、人はふと立ち返るのです。「自分は決して一人で生きてきたのではない」と。   

2025年7月14日月曜日

7月後半のことば

7月後半のことば

「阿弥陀さまは私の心の襞までお見通し」

 

 私たちは誰しも、人には隠したい弱さや醜さを抱えて生きています。そして自分でも気づかないような、ささやかな嫉妬や欲、臆病さやずるさもまた、心の奥に潜んでいるものです。そのことにふと気づき、自分が嫌になることもあるかもしれません。しかし一方で、そんな自分さえ忘れてしまうほどの小さな思いやりや、人知れず誰かを案じる気持ちも確かに息づいているのです。私たちはその光と影のはざまで揺れながら、日々を生きています。

 阿弥陀さまは、そのすべてをお見通しです。自分でも気づかぬ光と闇をも見抜いて、それでもなお「必ず救う」と誓われた仏さまです。そこにあるのは決して裁きの目ではなく、どこまでも見放さずに抱きとめようとする、限りない慈悲のまなざしです。そのまなざしは、私たちの弱ささえも否定せず、かえって救いの道へと導いてくださいます。

 人に隠したい心の闇も、気づかぬうちに芽生えた小さな善も、そのままをも見捨てずに救ってくださる阿弥陀さまがいてくださるのです。そして、その救いに応える道は難しい修行や努力ではなく、ただ「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えることなのです。だからこそ、その身そのままで、南無阿弥陀仏と称えればよいのです。 

2025年6月30日月曜日

7月前半のことば

 7月前半のことば

「煩悩があるままに南無阿弥陀仏」

 

 私たちは皆、怒ったり、欲しがったり、迷ったり、不安になったりしながら生きています。「もっと立派な人間にならなくては」と思っても、心はなかなか言うことを聞いてくれません。欲を捨てようとしても、怒りがこみあげてくる。思い通りにいかない現実に、また心が乱れる。そのたびに、自分のことが嫌になってしまいます。「こんな自分では、仏さまに見放されるのではないか」と、ふと胸がふさがることもあるでしょう。

 けれども、阿弥陀さまは、そんな私たちをこそ救いたいと願われた仏さまです。「煩悩があるからこそ救わねばならない」と、はるかな昔にお誓いくださり、「ただ南無阿弥陀仏と称えよ、必ず救う」と約束してくださいました。

 ですから、「立派になってから」ではなく、「煩悩のままに」南無阿弥陀仏とお称えするのです。清らかな自分を差し出すのではなく、どうしようもないこの身のままで仏さまにすがるのです。

 阿弥陀さまの慈しみは、善い人にも、悪い人にも、すべてに等しく注がれています。この一声一声ごとのお念仏が、そのまま仏さまのお耳に届き、極楽へと導かれるのです。どうぞ安心して、今このままで、「南無阿弥陀仏」と声に出してみてください。阿弥陀さまは、すでにあなたのすぐそばにおられます。

2025年6月14日土曜日

6月後半のことば

 6月後半のことば

「極楽を求める教え 世間では非常識な教え」


 世間の常識というものは、えてして移ろいやすいものです。健康であればよい、若ければなおよい、人間関係が円満ならすべてうまくいく、死んだらおしまい…そうした価値観が、まるで疑いようのない真理のように語られます。しかしながら、それらはどれも手のひらにすくった水のように、気がつけば指の間からこぼれ落ちているのです。「無常」とは、まさにこの現実のことを指すのでしょう。

 八百五十年前、法然上人は「南無阿弥陀仏」と称える念仏の道を説かれました。命尽きた後に阿弥陀仏の極楽浄土に生まれることを願うという、現代の感覚からすれば非現実的とも思える教えです。 しかしこの念仏は、世間のしがらみから逃げるのではなく、そこにとどまりながらもなお、救いを託すという態度に支えられています。

 極楽の存在など信じられない、と笑う人もいるでしょう。けれど、健康も若さも、親しい人も、いつかは去っていくものです。そのとき、何を心の支えにすればよいのでしょうか。私はむしろ、この「非常識」に心を動かされるのです。

 常識という名の風が吹き抜けたあとに、時に、本当に大切なものが残されていることもあるのです。

2025年5月30日金曜日

6月前半のことば

 6月前半のことば

「死は前よりしも来たたらず 

     かねて後ろに迫れり」 吉田兼好


 この『徒然草』の一節は、死の本質を静かに、しかし鋭く突いていると思いませんか。人は皆、死というものが自分に訪れることを知っています。にもかかわらず、それが「いつ」「どのように」やって来るかはわからぬまま、まるで明日も同じように日が昇り、何ごともなく時が過ぎると信じて生きてしまうものです。

 しかし兼好法師は、死は前方から姿を見せて近づいてくるのではない、むしろ、すでに背後にいて、そっと、確実に近づいているのだと語ります。私たちが気づかぬふりをしても、それは変わらず私たちの背中にぴたりと張りついているのです。だからこそ、今日という一日を疎かにしてはならないのです。

 仏教では、「無常」を意識することを教えられます。いのちは儚く、永遠ではありません。「明日ありと思う心」が、私たちの現在を曇らせ、今このときの輝きを見失わせるのです。 死を遠ざけるのではなく、その存在を背中に感じながら、むしろそれを力として、今日を丁寧に、誠実に生きる。兼好法師のことばは、死を嘆くものではなく、生の尊さを教えてくれる、貴い響きを持っています。


2025年5月14日水曜日

5月後半のことば

 5月後半のことば

「悲しさは愛しさである」 


 「悲しさは愛しさである」——この言葉は、大切な人を亡くした遺族の方から教えていただいたものです。胸が締めつけられるような喪失の痛みは、実のところ、その人をどれほど大切に想っていたかという深い愛しさの証なのだと気づかされました。

 「悲しい」という言葉の語源にあたる「かなし」について、白川静氏の『字訓』を開いてみました。そこにはこう記されています。「どうしようもないような切ない感情をいう。いとおしむ気持ちが極度に達した状態から、悲しむ気持となる。(中略)かなしという感情は繊細なものであるから、これに当たる適当な字がなく、愛・哀・悲などが用いられる」と。つまり、「悲しさ」とは本来、深く人をいとおしむ感情の延長にあるのです。

 上智大学の岡知史先生は、遺族が語る悲しみを「愛のかたち」として受けとめることの大切さを説いておられます。岡先生は、遺された人々の言葉に、単なる「記録」や「データ」としてではなく、そこに込められた愛情の深みに目を向けられます。亡き人を想う声には、その人を今も心の中で生き続けさせようとする切実な願いが宿っています。岡先生は、そうした「愛の言葉」としての悲しみを、丁寧にすくい上げておられるのです。

 全国自死遺族連絡協議会の田中幸子さんも、ご自身の経験から「悲しみは愛しさとともにある」と繰り返し語っておられます。悲しみは、無理に消そうとすればするほど募るもの。なぜなら、それは今も生きている愛のかたちだからです。「悲しみは病気ではありません。だから薬で治すものではありません」と、田中さんはおっしゃるのです。

 自死遺族の手記集『会いたい』(明石書房・2012年)には、夫を亡くした方のこんな言葉が記されています。「私から悲しみや愛しさを消そうとしないでください。愛する人を失った悲しみは、故人への愛しさだと感じています」。

 悲しさとは、いまも変わらず誰かを愛しているということ。そのことを、これからも忘れずにいたいと思います。

2025年4月30日水曜日

5月前半のことば

 5月前半のことば

「まずはやる」 井上智之


 平成27年に極楽浄土へ往生された京都北山清水寺の一代、井上智之上人がよくおっしゃっていた言葉があります。

 「まずはやる」——この短く力強い言葉には、日々の暮らしを新たに開く鍵が隠されています。

 私たちは誰しも心の中で何度となく、「こんなことをしたら、笑われるのではないか」「失敗したら恥ずかしいからやめておこう」と思った経験があるでしょう。他者の目を気にして、自らの行動を抑え込んでしまう。そのような心の癖は、前途有望な若い人たちにもしばしば見られます。経験や理解の不足が、行動への一歩を躊躇させる要因となるのです。

 そんな彼らに、井上上人は静かに、しかし揺るぎない声で語りかけておられました。「まずはやる」と。

 仏教の教えによれば、私たちの未来は自分自身の「行い」と、それを取り巻く「縁」によって構築されるものです。行いが変われば、縁もまた変わります。そして、良い縁に囲まれるためには、何よりもまず自らの行いを変えていかなければならないのです。この理を裏付けるものとして、井上上人の言葉は非常に説得力を持つものとなっています。

 確かに、目の前の結果が期待外れに見えることもあるでしょう。しかしながら、善き行いを積み重ねれば、未来は間違いなく善き方向へと動いていきます。たとえ今、その結果がすぐに現れなくても、あきらめず行動を続けること、それが何よりも重要です。

 恐れや迷いを抱えながらも、勇気を持って最初の一歩を踏み出す。その一歩こそが、私たちの歩む道筋を新たに切り拓いてくれるのです。そしてそこから生まれる経験や学びこそが、次なる一歩を後押しし、私たちの人生を豊穣たらしめるのです。

 井上上人の言葉を思い起こしながら、「まずはやる」——その覚悟が、私たちの人生をより実りあるものへと導いてくれるのではないでしょうか。

2025年4月14日月曜日

4月後半のことば

4月後半のことば

「念死念仏」


 この言葉は、浄土宗の第二祖・聖光上人のお言葉です。

 「常に死を見据え、念仏を称えよ」という教えを説かれたものです。人は誰しも、死がいつ訪れるかわからないことを知っています。それにもかかわらず、死が「今この瞬間」に訪れる可能性を意識することは少なく、あたかも明日や来週、来年が当然のように続くものと思いながら日々を過ごしてはいないでしょうか。

 聖光上人が32歳の時、異母弟の三明房様とお話しされている最中、突然三明房様が苦しみ始め意識を失われました。お伝記によればそのまま亡くなられたという説や、数時間後に息を吹き返されたという説もあります。いずれにせよ、元気だった人に死が突然訪れるという現実を、目の当たりにされた出来事でした。

 「南無阿弥陀仏」の念仏は、称えれば無病息災になるというものではありません。それは、念仏を称えるその瞬間から極楽浄土への往生が護られ、臨終の際には阿弥陀仏が直接迎えに来られ、極楽浄土へ導いていただけるという教えです。この臨終の時を「いつか」と考えて念仏を後回しにしてはならないのです。たとえ今この瞬間に死が訪れたとしても、極楽浄土へ迎え取ってください!と、常いつも念仏を称えることが大切なのです。 

聖光上人は、「出(いず)る息、入る息を待たず、入る息、出る息を待たず、助け給え阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と常に口にされていたと伝えられています。

 現代は何かと忙しい日々が続きますが、「南無阿弥陀仏」と念仏を称えながら、日々の営みに取り組んでいきましょう。 

2025年3月29日土曜日

4月前半のことば

 4月前半のことば

「受け難き人身を受けて」

 この言葉は、浄土宗の開祖・法然上人の御法語「一紙小消息」の一節です。私たちがこうして人間として生を受けていることの尊さを改めて感じさせられます。

 人として生まれることは、決して当たり前のことではありません。生物学的に見ても、1億から4億の精子がたった一つの卵子と結びつき、命が生まれるという奇跡を考えれば、こうして存在すること自体が不思議でなりません。

 さらに、自分の両親がどのように出会い、そこから自分が生まれたのかを思い巡らすとき、さらには先祖代々の歴史に思いを馳せると、「たまたま」という言葉では片付けられない不思議さを実感せずにはいられません。

 とはいえ、「それに感謝しなさい」と一概に言われても、受け入れられない人もいるでしょう。生まれた環境や育った環境が過酷である場合、「こんな世に生まれたくなかった」「誰が産んでくれと言った?」と親を恨む人がいるのも無理はありません。不思議だと言われても、それをありがたいと思うかどうかは各人の心のありよう次第です。

 仏教が説く輪廻の教えは、生物学的な遺伝や社会的な関係を超えた深遠なものです。仏典には、輪廻の苦しみの中で相当な善行を積まなければ人間に生まれることは叶わないと説かれています。私たちが人として生を受けていること自体が、過去世での精進の結果だと言えるのです。

 輪廻の中で少しずつ善行を積み、精進の成果として人間として生を得たとき、仏教との縁が結ばれ、お念仏に出会えたのであれば、それはなんと尊いことでしょう。人間として生まれ、本願と出会ったことを悦び、お念仏を唱えて極楽浄土を目指していきたいものです。

2025年3月14日金曜日

3月後半のことば

 3月後半のことば

「先立たば 遅るる人を待ちやせん 

        蓮の台の半ば残して」

  

 小学校低学年の頃、母と一緒に最寄り駅から電車に乗りました。朝のラッシュアワーでホームは大勢の人々でごった返していました。その時、母が「もしはぐれてしまったら、〇〇駅の改札口に行きなさい。お母さんも必ずそこに行くから」と言ってくれました。

 案の定、すし詰めの車内で母とはぐれてしまいましたが、あらかじめ待ち合わせ場所が決まっていたので、全く不安は感じませんでした。そして、母とは無事にその場所で再会することができました。

 阿弥陀仏は「南無阿弥陀仏と称える者を必ず極楽浄土へ迎え取る」と誓われています。これを「本願」といい、仏の確かな約束です。

 人生では、生き別れや死に別れといった悲しい出来事が避けられません。しかし、本願を信じて南無阿弥陀仏と称える者同士は、必ず極楽浄土で再会することができるのです。このことを「一蓮托生(いちれんたくしょう)」と呼びます。

 「先立たば 遅るる人を 待ちやせん 蓮(はな)の台(うてな)の 半ば残して」 この歌の詠み人は不明ですが、念仏信者が詠んだものとされています。「どちらが先に極楽浄土へ往生するかはわからないけれど、もし私が先に行くならば、遅れてくるあなたのために半分の席を空けてお待ちしています」という気持ちが込められています。

 悲しい別れが訪れても、念仏を称える者は、小学生の頃の私が母と再会できたように、必ず極楽浄土で再会できるのです。

2025年2月28日金曜日

3月前半のことば

 3月前半のことば

「只申せ 重き誓いのしるしには 人えらびなく 必得往生」

  現在、多くの国で国民の「分断」が問題となっています。人種、宗教、イデオロギー、所得格差、教育格差など、立場や考え方の違いを受け入れることが難しくなっているのです。お互いが自分の正義を絶対だと思い込み、相手を非難し憎んでしまいます。

 浄土宗の高祖善導大師は、私たちは自己中心的な行動によって自分や他人を傷つける凡夫であると説かれました。「私」の家族、家、会社、母校、国と、すべてを「私の」という枠で捉え、その中を自分の思い通りにしようとします。

 しかし、私は自分の体さえ思い通りにできません。ましてや他人を思い通りにすることなどできるはずがありません。

 阿弥陀仏には、凡夫のような自己中心的な枠はありません。阿弥陀仏は、すべての者を救うために極楽浄土を建立してくださいました。そして、「難しいことができなくとも、私の名前を呼ぶことならできるでしょう。我が名を呼ぶ者を必ず極楽浄土へ迎え取る」と誓われました。これを「本願」といいます。

 「名前を呼べ」とおっしゃるので、私たちはただ阿弥陀仏の願いに応えて「南無阿弥陀仏」と称えればよいのです。

 法然上人も「阿弥陀仏の本願は、平等の慈悲によって起こされたものだから、決して人を分け隔てたり嫌うことはありません」とおっしゃっています。

 ただ極楽浄土へ行きたいと願って「南無阿弥陀仏」と称えればよいのです。

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 8月前半のことば 「亡き親の しきりに恋し 蝉の声」   若い頃、親の言葉を素直に聞けず、反発ばかりしていた日々はありませんでしたか。進路のことで衝突したり、ささいな注意に声を荒らげたり。  しかし自分が親となり、泣きやまぬ我が子を抱いて途方に暮れる時、かつて自分を包んでいた親...