ラベル 浄土宗の教え第3部 無明 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 浄土宗の教え第3部 無明 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2020年8月4日火曜日

無明①(無常その1)

この世は常に変化を続けています。

永遠不滅のものはこの世には一切ありません。

あらゆるものは移り変わります。

そして形あるものは必ずこわれます。

このことを無常といいます。

もちろん私たち自身の命も決して例外ではありません。

生まれてきた者は一瞬一瞬に老いてゆき、

病になり、いつかは必ず命が尽きる日が参ります。

こんなことは誰もが知っていることです。

しかし、普段生活する中で私達はこのこと、

「全ては無常である」ということを忘れがちです。

「俺も死ぬ 信じられぬが ホントだろ」です。

私たちは日々の生活に振り回されてしまい、

刻一刻と迫ってくる「死」というものから

目をそむけて生きているのではないでしょうか?

「いつか死ぬ」のはわかていても、

「今死ぬ」とは思っていません。

そんな私たちを阿弥陀仏という仏さまは、

「救ってやろう」「助けてやろう」

と願ってくださっています。

無常の世界で苦しみ、迷い続けている私たちを

救うために、大変なご苦心の末、

尊き誓いを建てて下さいました。

それは「我が名を呼ぶ者を必ず救うぞ!」という

「阿弥陀さまのお約束」です。

「名を呼べ」という阿弥陀仏の願いに応えて

「なむあみだぶつ」と唱えるのです。

この「阿弥陀さまのお約束」を

本願(ほんがん)」といいます。

『無常の見方』
アルボムッレ・スマナサーラ


2020年8月3日月曜日

無明②(無常その2)

その怖い「死」というものは一回きりではなく、

仏教のみ教えでは、

「何度も繰り返してその恐怖を味わうのだ」

と説かれています。



ラベル「浄土宗の教え 第2部 念仏と出会うということ」




我々は苦しみ迷いの世界をずっと

「生まれては死に」を繰り返しているといいます。

「自分が死ぬ」ことも怖いのに、それだけではなく、

「愛する人と死に別れる」という身を引き裂かれるような

悲しみにも出会わなければなりません。

必ず別れなくてはならないのが世界の定めです。

「長生きをするほど別れ多くなる」と川柳でも詠まれます。

一回死ぬだけでも恐ろしいことなのに、

何度もそれを体験するのです。

同じ「無常」でも私たちは「子供の成長」や、

「病気が回復する」という望ましい変化は

喜んで受け入れます。

しかし、自分の「老い」「病」「死」、愛する人の「死」、

こちらの「無常」は受け入れ難いことでしょう。

誰もが生きていたら老いていくし、病気になるし、

いつか必ず死を迎えます。

「いつ死ぬかもわからない」

というのは至極当然の事実なのに、

自分はまだ大丈夫だと思ってしまいます。

『方丈記』
鴨長明
現代語訳・安良岡康作


2020年8月2日日曜日

無明③(無常その3)

私たちの「身体」「健康」「若さ」「考え方」

「気分」「好き嫌い」「趣味」「命」

に至るまで正に「すべては無常」なのです。

それは10年前と比べるとよくわかるでしょう。

身体や健康、若さはもちろん変わると

自覚しやすいことでしょう。

考え方も10年前と同じとは

言えないのではないでしょうか。

「昔より気が長くなった」とか、

「最近イライラする」とか、

「あんなに嫌いだったものが好きになった」とか、

「まさか僕が絵を描くようになるとは思わなかった」など、

挙げればきりがありません。

「自分の死」もそうです。

鎌倉時代の歌人、吉田兼好の『徒然草』には

このように書かれています。 

「死期はついでを待たず。死は前よりしも来たらず、
かねて後ろに迫れり。人皆死ある事を知りて、待つこと、
しかも急ならざるに、覚えずして来る。
沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるがごとし」

兼好法師は、春夏秋冬、季節の移り行く様を

ご覧になり、それを我が身にあてはめて、

死ということををじっと見つめられました。

「四季が移り変わるには順序があるが、

死に至ることには順序はない。

死というものは前から順を追って

やって来るとは限らない。

かねてから人の後ろに迫ってきているのだ。

人はみな、死があることを知っているけれども、

その覚悟が切実になっていないうちに、

死が不意にやってくるのだ」

更にこの、死ぬということを、

潮が満ちることに譬えておられます。

海辺から沖まで続く干潟を見て、

まだまだ潮が満ちて来るには時間があると思っている。

綺麗な景色だなどと呑気なことを

思っているけれども知らないうちに

磯から潮が満ちてきて、足元が冷たくなって

初めて気づき、驚くのです。

私たちは勝手に向うに見える干潟から

潮が満ちてくると思い込んでいます。

しかし実際には干潟よりも今立っている

磯の方から潮が満ちてくることがあります。

まだまだ潮が満ちるには早いと

思っているけれども知らない間に潮が満ちてきて

足元を濡らすのです。

私達の死に対する認識もこれと

変わらないのではないでしょうか。

まだまだ死ぬには早いと思って、

目先のことばかりに振り回されて生きていないか?

ということです。

死というものは勝手に前からやって来ると

思っていますがそうとは限りません。

知らない間に足元まで迫ってきているのです。

後ろから、足元からやって来ることも、

頭の片隅ではわかってはいるけれど、

実際の自分が関わるとは思っていません。

このように「無常」という事実は「当たり前」で

ありながら、本当に理解することは極めて困難です

『徒然草』
吉田兼好
現代語訳・三木紀人


2020年7月31日金曜日

無明④(四法印)

無常であるが故に、10年前はもちろんのこと、

一瞬前の私も「今の私」とは異なります。

10年経って突然変わることもありますが、

殆どのものは徐々に徐々に変化しています。

「わたし」「あなた」と言い合い、

お互いを「同じ人」と思っていますが、

実はお互いが変化し続けています。

だから仲良くしたり喧嘩したり

出会ったり別れたりします。

それなのに「自分はこういう者」「あの人はこういう人」

と固定した見方しかできないのが我々でしょう。

その「わたし」も「あなた」も

決して固定したものではなく、移り変わります。

どの人も物もすべて変わらないものはない。

「変わらない我」はないので、

これを「無我」と言います。

ここでいう「」というのは

不変の実体」という意味です。

すべてのものに「不変の実体」はないので

「無我」なのです。

すべてのものは移り変わるのに

「移り変わって欲しくない」と思い通りに

しようとする自分がいます。

身体が老いていくのにそれを認めたくない。

病になった自分を認めたくない。

もちろん「自らの死」を認めたくない。

でもすべては移り変わってゆき、

「老い」も「病」も「死」も

必ずすべての人に訪れます。

その「思い通りにならないこと」が「苦」です

「苦」には「不安」とか、「悩み」とか、

「不快」とか、「喜ばしくないこと」とか、

「辛いこと」など色んな意味が含まれます。

私にとっての「好ましくないあり方」です。

この「無常」「無我」「苦」

「三法印(さんぼういん)」といいます。

仏教の核ともいえる「三つの教え」です。

それと逆が「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」です。

「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」は、

仏教における究極の目的です。

あらゆる苦しみ悩みから抜け出した、

「静かな安楽の境地」です。

「三法印(さんぼういん)」に

「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」を加えて

「四法印(しほういん)」といいます。

「無常」「無我」「苦」のあり方がしっかりとわかり、

「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」に至ることが

できればよいのですが、果たして私たちに

それができるのでしょうか。

「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」の境地に

至るためにはあらゆる「執着(しゅうじゃく)」を

断ち切らねばなりません。

『苦の探求』
蜂屋賢喜代


2020年7月30日木曜日

無明⑤(自分の〇〇)

私たちは「自分のため」だけに生きています。

「そんなことはありません。

私は自分の家族のために生きているのです」

という方もおられるでしょう。

しかしそれは「自分の家族」です。

あくまで「自分」という「枠」の中に

「家族」を取り込んでいるだけです。

私たちは「自分」という枠の中には

まず「自分」を入れます。

そしてこの枠の中の「自分」を思い通りにしようとします。

病気になったら「病気になったのだ」

と思えばいいのですが、そうはいきません。

「何でこんなことになったの?」と

「自分が思う自分」にしようとします。

でもそれは思い通りにならないので苦しみます。

「老いていく自分」は「自分が思う自分」

ではないので、「若くありたい」

とコントロールしようとします。

でもそんなことが思い通りになるはずがありません。

「自分」という枠はどんどん広がります。

「自分の子」を完全に囲い、

他人の子とは明らかに区別します。

そして「自分の子」を自分の思い通りに

コントロールしようとします。

しかもやっかいなことに、「ウチの子のため」だと

思い込んでいます。
 
場合によっては大人になってから

精神的に辛い日々が続き、その原因を探ったら

実は「自分の母親のエゴに苦しめられていた」

ということもかなりあるといいます。

しかし「あの優しかった母親が原因のはずがない」

と本人も思い込んでいますし、

母親も「ウチの子のために」と思っていますから、

自分が原因だとは気づきにくいというのです。
 
子にとって親は「自分の親」です。

他の大人には丁寧に接しても、

「自分の親」は自分の「枠」の中にいますから、

多少暴言を吐いても許されます。

そうやってお互いを傷つけ合うのです。
 
「私は家族も大事ですが、

会社がよくなるようにと思って日々頑張っています」

という方もおられるでしょう。

しかしそれも「自分の会社」です。

勤める会社や母校の評価が自分の

アイデンティティーになります。

母校を馬鹿にされたら、まるで

自分が馬鹿にされたように感じるのは、

学校をも自分の中に取り込んでしまうからです。
 
「外国が日本のことをないがしろにするのは許せない!」

という「愛国心」も同じです。

「自分の国」です。
 
「愛」という言葉は仏教用語では

「執着(しゅうじゃく)」を意味します。

「執着」は「煩悩」です。

我々の苦しみの原因です。
 
「自分の」という「枠」は即ち

「煩悩」なのです。

ですから、あらゆる苦しみ迷いから逃れるためには、

この「枠」たる「煩悩(ぼんのう)」を

取り去ればよいのです。

しかし私たちが「枠」を取り去ることは非常に困難です。

『観無量寿経を語る』
佐藤春夫


2020年7月29日水曜日

無明⑥(凡夫)


すべては移り変わる。

私も家族も永遠ではない。

「無常」です。

無常ゆえにすべての変化を受け入れる。

私自身も常に変化するから「変わらない我」はない。

「無我」です。

無常であり無我であるから、

すべてのものは思い通りになりません。

「苦」です。

このような「真理」を頭ではなんとか理解しても、

本当に理解することがなかなかできないのが私たちです。

「煩悩」が邪魔をするのです。

その煩悩を持ち合わせた私たちのことを

「凡夫(ぼんぶ)」と申します。

仏教には色んな教えがあります。

インドから始まる仏教の多くの教えでは、

煩悩を断ちきって、苦しみから出ようと説きます。

それができる人はその道を行けばよいでしょう。

しかし「誰でも必ず死ぬ」という

そんな単純なことさえも分からない、

煩悩から逃れられない私です。

無常とか、無我という真理は頭の中では理解できます。

「すべてのものは移り変わる」

そんなことは当たり前です。

すべてのものは移り変わるから、

私も私の妻も、私の子供も友人も

知り合いもみんな常に変化している。

だからみんな健康であり続けることは不可能である。

みんなが生き続けることも不可能である。

急に誰かが死ぬかも知れない。

それが自分かも知れないし、最愛の人かも知れない。

そういう可能性は常にある。

そんなことは頭では誰でもがわかりきっていることです。

けれども、「自分が突然死ぬのを認められるか?」

と問われると、どうでしょうか。

いつか死ぬのはわかっていても

今死ぬとは思っていません。

ましてや、自分の息子が今日死ぬなんて、

絶対に認めたくありません。

そんなことを考えたくもありません。

『悪人正機説』
梶村昇


2020年7月28日火曜日

無明⑦(自分に対する執着)

遠い地での災害や、外国の戦争のニュースを観ると

「気の毒に」と思います。

有名人の死を知って、「あの人も亡くなったのだな」と

寂しく思います。

その災害が起こった遠い地に、

戦争が起こっている外国に友人や親戚がいる、

となると突然身近に感じます。

詳しくニュースを調べ、共通の知人に連絡をとり、

そわそわとします。

もし、その地にいる人が「自分の子」であったら、

そわそわするどころではないでしょう。

いてもたってもいられなくなります。

こどもの安否を思うと胸が締め付けられることでしょう。

「自分の子」「自分の家族」という

「自分の○○」のことになると、

私たちは理性を失います。

「自分の子」に災害が降りかかったら

「代わってやりたい!」と思うかもしれません。

自分の子が苦しんでいたら、

「自分が同じ目に遭う方がマシだ」と思うかもしれません。

「自分の」という執着(しゅうじゃく)が

強ければ強いほど、その苦しみは強くなります。

『法然の衝撃』
阿満利麿


2020年7月27日月曜日

無明⑧(無明)

「無常」「無我」「苦」というのは、

認めたいかどうかは別にしても真理です。

考えるのが嫌でも常にすべてのものは変化しています。

分かっているつもりでもそれを本当の意味で

理解できないことを「無明(むみょう)」といいます。

「道理に」「明るく無い」から

「無明(むみょう)」です。

これは煩悩の根本です。

浄土宗のお念仏の教えは

その煩悩をどうすることもできない

「凡夫(ぼんぶ)」のために説かれた教えなのです。

阿弥陀さまが、「生きている限り老いていくのに、

人々は老いたくない老いたくないと苦しんでいる。

生きていれば病にもなるのに

病気になりたくない、なりたくないと

無常を認められず苦しんでいる。

いつか必ず死に、愛する人とも

別れなくてはならないのに、

死にたくない、死んで欲しくない、と苦しんでいる。

真理に逆らって、どうにもならないことを認められず、

苦しんでいる者を救うにはどうしたらよいか?」

と悩まれた末に極楽浄土という世界を作って、

南無阿弥陀仏と唱える者を救うと誓ってくださいました。

他者が苦しむ姿は「他人事(ひとごと)」

ではないのです。

自分の身に降りかかったら、きっと同じように

苦しむことでしょう。

無常・無我を認められず「苦」を背負うことでしょう。

そのような「無明(むみょう)」の私たちに

「我が名を呼ぶ者を救う」と手を差し伸べてくださった、

阿弥陀仏の本願を本当にありがたいと思い、

皆さまにもお念仏をお勧めするのです。

『法然 イエスの面影をしのばせる人』
井上洋治


8月前半のことば 「亡き親の しきりに恋し 蝉の声」

 8月前半のことば 「亡き親の しきりに恋し 蝉の声」   若い頃、親の言葉を素直に聞けず、反発ばかりしていた日々はありませんでしたか。進路のことで衝突したり、ささいな注意に声を荒らげたり。  しかし自分が親となり、泣きやまぬ我が子を抱いて途方に暮れる時、かつて自分を包んでいた親...