2021年6月10日木曜日

仏説阿弥陀経①

 釈尊が説かれた多くの経典の中で、


浄土宗は『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の


三経典を所依(しょえ)の経典として大切にします。


この三経典を法然上人は


『浄土三部経』と名づけられました。


これらの概要は先にこのブログ内で上げています。



「浄土宗の教え第1部 浄土三部経」

https://hourinji.blogspot.com/search/label/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E5%AE%97%E3%81%AE%E6%95%99%E3%81%88%20%E7%AC%AC%EF%BC%91%E9%83%A8%20%E6%B5%84%E5%9C%9F%E4%B8%89%E9%83%A8%E7%B5%8C




私たち浄土宗の者にとっては、


浄土三部経の『無量寿経』の中の「四誓偈(しせいげ)」、


『観無量寿経』の中の「真身観文(しんじんがんもん)」、


そして『阿弥陀経』は特になじみ深いお経だといえるでしょう。


法輪寺のお経本には、上記のお経に加えて


『観無量寿経』の中の「下品下生」以降も収めています。


各お経につきましては、すでに上げましたので、


ご参照ください。



「四誓偈」

https://hourinji.blogspot.com/search/label/%E5%9B%9B%E8%AA%93%E5%81%88%EF%BC%88%E3%81%97%E3%81%9B%E3%81%84%E3%81%92%EF%BC%89




「真身観文」

https://hourinji.blogspot.com/search/label/%E7%9C%9F%E8%BA%AB%E8%A6%B3%E6%96%87%EF%BC%88%E3%81%97%E3%82%93%E3%81%98%E3%82%93%E3%81%8C%E3%82%93%E3%82%82%E3%82%93%EF%BC%89



「下品下生」

https://hourinji.blogspot.com/search/label/%E4%B8%8B%E5%93%81%E4%B8%8B%E7%94%9F%EF%BC%88%E3%81%92%E3%81%BB%E3%82%93%E3%81%92%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%86%EF%BC%89


2021年6月9日水曜日

仏説阿弥陀経②

 『阿弥陀経』には極楽浄土の様子がありありと


描かれています。


ですから、『阿弥陀経』を読むと、


「先に極楽へ往かれたあの人はこんな世界に


おられるのだなあ」と思いを馳せることができます。


『阿弥陀経』の後半は、あらゆるところにおられる


仏さまが、こぞって阿弥陀さまを賞賛し、


念仏者を護ってくださると説かれています。


『阿弥陀経』は、釈尊が「極楽はこのような世界で、


そこに阿弥陀仏という仏がおられ、極楽の人々は


このようなことをされている」


と説かれる形式をとっています。


つまり釈尊が極楽や阿弥陀仏を


紹介してくださっているのです。


お経は通常、お弟子のどなたかが


釈尊に教えを請い、釈尊が語り始める


という形になっているものが多いのですが、


『阿弥陀経』は、誰に請われるわけでもなく、


釈尊が多くのお弟子の前で自ら語り始める、


という非常に珍しい形のお経です。


この形式を「無問自説(むもんじせつ)」といいます。


釈尊自ら「この法を伝えたい!」と思われて、


お弟子の中の長老である舎利弗(しゃりほつ)さまを


名指し、「舎利弗よ」と繰り返し語りかけられるのです。


それでは次回から本文をご紹介してまいります。


2021年6月8日火曜日

仏説阿弥陀経③

 (本文)


かくの如きを我聞きき。






(現代語訳)


このようなことを、私阿難(あなん)は聞きました。






(解説)


釈尊の時代のインドでは、


教えを文字にすることなく、


口から口へと伝えていました。


ですから釈尊の著書はありません。


釈尊が涅槃(ねはん)に入られた後、


お弟子が集まって、教えをまとめました。


お弟子の中で、釈尊の側で身の回りのお世話を


長年されてきた、阿難尊者(あなんそんじゃ)は


「教えを最も多く聞いてきた人」として


「多聞第一(たもんだいいち)」と認められていました。


そこで阿難尊者が「私はこう聞きました」と


教えを言葉にし、皆がそれを認めたならば、


その言葉を復唱して、釈尊の教えを確認しました。


ですからお経の冒頭には


阿難尊者が「私はこのように聞きました」


という意味の「如是我聞(にょぜがもん)」という言葉や


「釈尊は阿難にこうおっしゃいました」


「仏告阿難(ぶつごうあなん)」という言葉が多いのです。


2021年6月7日月曜日

仏説阿弥陀経④

 (本文)


一時、仏、舎衛国(しゃえいこく)の


祇樹給孤独園(ぎじゅぎっこどくおん)に


在(ましま)して、大比丘衆(だいびくしゅ)


千二百五十人と倶(とも)なりき。


皆是れ大阿羅漢(だいあらかん)なり。


衆(しゅう)に知識せられたり。






(現代語訳)


ある時釈尊は、舎衛国(しゃえいこく)の


祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)におられて、


千二百五十人もの修行僧と一緒に過ごしておられた。


彼らはみんな偉大な阿羅漢(あらかん)の


境地に達しておられ、


人々に広く知られている。


※阿羅漢(あらかん)

 聖者が到達しうる最高位。






(解説)


釈尊ご在世の当時、インドでは舎衛国という


大都市がありました。


そこにスダッタという長者がいて、


仏教教団に土地を寄進しました。


その場所を「祇樹給孤独園(ぎじゅぎっこどくおん)」


といい、略して「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)」


と呼ばれています。


『阿弥陀経』は釈尊が祇園精舎において、


千二百五十人ものお弟子の前で説法された


内容が説き示されています。


千二百五十人のお弟子は、


初学者ではなく、「阿羅漢(あらかん)」という


覚りの境地に達した方々ばかりであったというのです。


2021年6月6日日曜日

仏説阿弥陀経⑤

 (本文)


長老舎利弗(ちょうろうしゃりほつ)、


摩訶目犍連(まかもっけんれん)、


摩訶迦葉(まかかしょう)、


摩訶迦旃延(まかかせんねん)、


摩訶倶絺羅(まかくちら)、


離婆多(りはだ)、周利槃陀伽(しゅりはんだか)、


難陀(なんだ)、阿難陀(あなんだ)、


羅睺羅(らごら)、憍梵波提(きょうぼんはだい)、


賓頭盧頗羅堕(びんづるはらだ)、


迦留陀夷(かるだい)、


摩訶劫賓那(まかこうひんな)、


薄拘羅(はくら)、阿㝹楼駄(あぬるだ)、


かくの如きらの諸もろの大弟子なり。




(現代語訳)


長老の舎利弗(しゃりほつ)はじめ、


摩訶目犍連(まかもっけんれん)、


摩訶迦葉(まかかしょう)、


摩訶迦旃延(まかかせんねん)、


摩訶倶絺羅(まかくちら)、


離婆多(りはだ)、周利槃陀伽(しゅりはんだか)、


難陀(なんだ)、阿難陀(あなんだ)、


羅睺羅(らごら)、憍梵波提(きょうぼんはだい)、


賓頭盧頗羅堕(びんづるはらだ)、


迦留陀夷(かるだい)、


摩訶劫賓那(まかこうひんな)、


薄拘羅(はくら)、阿㝹楼駄(あぬるだ)


などの多くのお弟子たちである。






(解説)


「長老」というのは、


お年寄りという意味ではありません。


修行僧の尊称であり、徳が高く出家年数の


長い僧侶のことをいいます。


本来僧侶の間には上下がありません。


ただ、集団生活をするときに順序をその都度


決めるのは非効率なので、


一定に決めておく必要があります。


そこで仏教では「出家年数の長さ」を基準にしました。


僅かな時差でも先に出家した者が序列は上になるのです。


ここに出てくる十六人の阿羅漢は、


千二百五十人のお弟子の中でも


出家年数が長い長老ばかりです。


舎利弗尊者(しゃりほつそんじゃ)は智慧第一、


目連尊者(もくれんそんじゃ)は神通第一と、


釈尊も彼らの徳を認めておられました。


2021年6月5日土曜日

仏説阿弥陀経⑥

 (本文)


ならびに諸もろの菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ)あり。


文殊師利法王子(もんじゅしりほうおうじ)、


阿逸多菩薩(あいったぼさつ)、


乾陀訶提菩薩(けんだかだいぼさつ)、


常精進菩薩(じょうしょうじんぼさつ)、


かくの如きらの諸もろの大菩薩、


及び釈提桓因等(しゃくだいかんにんとう)の


無量の諸天(しょてん)大衆(だいしゅ)と


倶(とも)なりき。




(現代語訳)


さらに多くの菩薩たちがおられた。


文殊師利法王子(もんじゅしりほうおうじ)、


阿逸多菩薩(あいったぼさつ)、


乾陀訶提菩薩(けんだかだいぼさつ)、


常精進菩薩(じょうしょうじんぼさつ)などの


菩薩たちがおられ、そして帝釈天などの


数え切れないほど多くの神々とも


ご一緒であった。






(解説)


阿羅漢(あらかん)の他に、


多くの菩薩(ぼさつ)や天の神々が


そこに列席して、釈尊の言葉に耳を傾けておられました。


菩薩(ぼさつ)とは、自らの覚りを目指すと共に


人々を救おうとする方です。


2021年6月4日金曜日

仏説阿弥陀経⑦

 (原文)


その時、仏、長老舎利弗(ちょうろうしゃりほつ)に


告げたまわく。


これより西方、十万億の仏土を過ぎて世界有り。


名づけて極楽という。


その土に仏まします、阿弥陀と号したてまつる。


いま現に在(ましま)して説法したまう。






(現代語訳)


その時、釈尊は長老の舎利弗(しゃりほつ)に


このようにおっしゃいました。


「ここから西へ十万億もの仏の国を


過ぎたところに一つの世界がある。


その世界を極楽という。


その国に仏がおられて、


その名を阿弥陀とおっしゃいます。


阿弥陀仏は、今現在も極楽におられて


説法されています」






(解説)


釈尊は、たくさんおられるお弟子の中を


代表して、舎利弗尊者(しゃりほつそんじゃ)を


対話の相手として説法を始められました。


遙か西の彼方に極楽浄土という世界が実在し、


そこに阿弥陀仏という仏さまがおられ、


今現在も人々を救うために説法教化


されていることが釈尊によってここに明かされます。


阿弥陀仏は、「過去におられた仏」ではなく


今現在も極楽におられることが、わかります。

2021年6月3日木曜日

仏説阿弥陀経⑧

(本文)


舎利弗(しゃりほつ)、


彼の土(ど)を何が故ぞ、


名づけて極楽とする。


その国の衆生、もろもろの苦あることなく、


ただ諸もろの楽(らく)のみを受く、


故に極楽と名づく。






(現代語訳)


〈釈尊から舎利弗(しゃりほつ)に向けてのお言葉のつづき〉


「その国をなぜ極楽と名づけるのだろうか。


その国の人々は、あらゆる苦しみがなく、


ただ様々な楽だけを受けている。


だから極楽と名づけるのである」






(解説)


ここに「極楽」と名づけられた理由が示されています。


「極楽」とは苦しみがなく、楽だけを享受するから


極楽と名づけた、というのです。


私たちの楽しみは、掴んでは消える、


まるで霞のようなものばかりです。


「今が幸せ」という「今」が永遠に続くことは


あり得ません。


「家族がみんな仲良く健康でいるのが一番」と


言いますが、それは決してささやかな望みではなく、


達成することが不可能な望みなのです。


そのような「望みの叶わない世界」に生まれては、


年老いてゆき、生きていればいつか必ず病になり、


必ず死を迎えます。


「若くい続けたい」という望みは叶いません。


「ずっと健康でいたい」という望みも、


生きている限り必ず失われます。


「愛する人とずっと一緒にいるだけでいい」という


望みは、残酷なことに必ずいつか絶たれてしまうのです。


離れがたい最愛の人とも必ずいつか別れる日がきます。


人間関係に苦しみ悩むことも度々あります。


思いもかけず天災に見舞われ、路頭に迷うことも


あるかもしれません。


ちっとも思い通りにならない人生です。


生きていくということは大変なことです。


その「あらゆる苦しみ、悩み、痛み」がなく、


「もろもろの楽」だけを受ける世界が


「極楽浄土」なのです。


2021年6月2日水曜日

仏説阿弥陀経⑨

 (本文)


また舎利弗(しゃりほつ)、


極楽国土には七重の欄楯(らんじゅん)・


七重の羅網(らもう)・


七重の行樹(ごうじゅ)あり。


皆これ四宝(しほう)をもて、


周匝(しゅそう)し囲繞(いにょう)せり。


この故にかの国を名づけて極楽という。






(現代語訳)


〈釈尊から舎利弗(しゃりほつ)に向けてのお言葉のつづき〉




「また舎利弗よ、極楽には七重に囲む垣根、


七重に覆う宝の網、七重の並木がある。


それらはみな金・銀・青玉・水晶の


四つの宝でできていて、


国の周りを囲んでいる。


(そんな美しい国であるから)


極楽と名づけるのである」





(解説)


「極楽」が「あらゆる苦しみがなく、楽だけを受ける世界」


だとしても、もし「美味しい料理を食べたいだけ食べ、


一日中お酒を飲み、海岸で寝そべって過ごす」というような


快楽の極みの世界であろうはずはありません。


私たちの欲望は限りがなく、望みが叶っても


満足することはありません。


人が羨む贅沢を手に入れた人が「空しさを感じる」と


おっしゃるのを聞いたことがあります。


ですから極楽の「楽」はそういうものではありません。


「覚りの楽」なのです。


しかし、私たち凡夫には覚りの世界は理解できません。


それでも阿弥陀仏も釈尊も、


「何とか苦しむ凡夫を導いてやりたい」


と願ってくださいました。


そして釈尊は「凡夫にわかるような表現」を用いて


極楽の美しさを表現して「こんな素晴らしい世界だから


目指して来いよ」とお導きくださっているのです。


きらびやかな宝石でちりばめられた、


美しい国だからそこに憧れを持ち、


「往きたい」と素直に願うことが、


仏さまのお慈悲に報いることになるのです。


11月後半のことば

 11月後半のことば 「危ないのは逆境の時より順境の時」 逆境の時には、我々は注意深く努力し、成長と学びを得ます。 しかし、順境の時、油断の罠が待ち構えています。 仕事が順調な時、自分は失敗しないと安心し、準備を怠ることがあります。 例えば、プロジェクトが順調に進んでいる時に限っ...