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2021年2月17日水曜日

二河白道(にがびゃくどう) ① 在阿(ざいあ)さまの問い

お念仏を称えるようになったら、


人格が高まり欲が消えて、


腹も立たなくなるのかと思ったら、


どうもそう簡単にはいかないようです。


在阿(ざいあ)というお坊さまが、


浄土宗の第三祖、良忠(りょうちゅう)上人に


このような質問をなさいました。


「阿弥陀さま、どうぞ極楽へ往生させて下さい」


と思って念仏しているのに、


私の欲深い心はちっとも治まらないじゃないか。


怒りの心も今なお消えそうにない。


それに対して「極楽へ往生したい!」


という思いはもっと強くなってもよさそうなのに、


ならないじゃないか。


これはどういうことでしょうか?という内容です。


例えばこれから気の合う友達や、


可愛い孫と一緒に温泉に旅行に


行くのは楽しみですよね。


ウキウキします。


でも「極楽へ往生したい」という思いは、


あるにはあるけれど、


ウキウキするほどの楽しみでもない。


念仏したいとは思うのですが、


それほど強くは沸いてこない。


「そうなんだよなあ」と同意される方も


多いのではないでしょうか。


それに対して良忠(りょうちゅう)上人は


どのようにお答えになったのでしょうか。



良忠上人のご生涯はコチラ

https://hourinji.blogspot.com/search/label/%E8%89%AF%E5%BF%A0%E4%B8%8A%E4%BA%BA%E3%81%AE%E3%81%94%E7%94%9F%E6%B6%AF


2021年2月16日火曜日

二河白道(にがびゃくどう) ② 良忠(りょうちゅう)上人の回答

在阿(ざいあ)さまからの質問に対して


良忠上人(りょうちゅうしょうにん)は


このようにお答えなさいました。


「お答えしましょう。


在阿さん、貪りや瞋りの煩悩は


最近身につけたものではないでしょう?


何度も生まれ変わり死に変わりする中で


始まりのない昔から、


あなたの身についてきたものですよ。


そう簡単にはなくなりません。


しかし、極楽へ生まれたいと願う心は


最近になってようやく出てきた心でしょう。


これは当然弱いのです。


でも心配する必要はありません。


どれだけ煩悩が激しく湧いてこようとも、


阿弥陀さまの本願の力が働いています。


煩悩を持つあなたが称える念仏の声を


阿弥陀さまが聞き逃されることはありません」


と説き、「二河白道(にがびゃくどう)の譬えを


よくよく見合わせてご覧ください」


とおっしゃいました。


その「二河白道(にがびゃくどう)の譬え」とは


どういうものなのでしょうか。


2021年2月15日月曜日

二河白道(にがびゃくどう) ③ 二河白道(にがびゃくどう)の譬え その一

「二河白道(にがびゃくどう)の譬え」とは、


法然上人のお師匠さまである、


中国の善導大師(ぜんどうだいし)の


『観経疏(かんぎょうしょ)』という


書物に出る譬えです。


この「二河白道(にがびゃくどう)」は、


「極楽往生を願う心」について説くための譬えなのです。




東の方から旅人が西へ向いて


一人トボトボと歩いて来る。


道を尋ねようとも教えてくれる人とも出会わない。


その旅人の目の前に突然二つの河が現れる。


南側にはは火の河、北側には水の河。


二つの河は底なしの深さで、広さは百歩(ひゃくぶ)。


     ※善導大師が活躍された中国唐の時代は、一歩(いちぶ)が

        1.56メートル。よって百歩(ひゃくぶ)は156メートル。


南北には際限なくずっと続いている。


その水と火の二つの河の間に


白い道が一筋通っている。


その道の広さは4,5寸(12㎝~15㎝)で、


長さは川の幅と同じく百歩(ひゃくぶ)。


その白い道に北の水の河からは波が被さる。


南の火の河からは炎に覆われ、道が焼かれる。


水と火が交わって止むことがない。


旅人が一人寂しく旅をしていると、


獣や賊が狙い襲ってくる。


逃れようとして西へ西へと進んだときに


この二つの河が目の前に現れた。


2021年2月14日日曜日

二河白道(にがびゃくどう)④ 二河白道(にがびゃくどう)の譬え その二

二河を目の前にして逃げようにも


河は南北に際限なく続く。


向こう岸に逃げてしまいたいけれど、


この白い道は余りにも狭くて


向こう岸には渡れそうもない。


引き返そうとすると、盗賊や獣が追いかけてくる。


南北に避けて走ろうとすると、


獣や毒虫が向かってくる。


だからといって河を渡ろうとすると


水の河か火の河に落ちる。


引き返しても死ぬ。


立ち止まっても死ぬ。


前に進んでも死ぬ。


どうやっても死んでしまう。


旅人は覚悟を決める。


戻っても立ち止まっても進んでも死ぬのなら、


前に進もうと。


2021年2月13日土曜日

二河白道(にがびゃくどう) ⑤ 二河白道(にがびゃくどう)の譬え その三

旅人が覚悟を決めたその時、


東の岸、つまり旅人の後ろから声がする。


「大丈夫だと信じてその白い道を渡れよ。


立ち止まったら死んでしまうぞ」


西の岸からは


「まっすぐにやって来い。


私が護ってやるから水や火を恐れずにやって来い」


という声が聞こえてくる。


東からの行けという声と


西からの来いの声に励まされて、


旅人は決心して白い道を進もうとする。


ところが少し歩き出すと


東の岸から賊達の叫び声が聞こえる。


「帰ってこい!悪いことは言わん。


そんな細い道を通って渡れるわけがないぞ。


間違いなく死んでしまうぞ!


悪いことは言わん!


戻って来い!」


その声を聞いても一切耳を貸さずに


ただひたすらに進んで行くと、


西の岸に無事到着する。


東の賊や獣たちからの危険もなくなり、


善い友に囲まれて幸せに過ごした。





以上が善導大師(ぜんどうだいし)によって


説かれた二河白道(にがびゃくどう)という譬えです。


この譬えは何を意味しているのでしょうか。


次回からこの譬えが意味するところを


お伝えしてまいります。


2021年2月12日金曜日

二河白道(にがびゃくどう) ⑥ 譬えの解釈 その一

前回まで「二河白道(にがびゃくどう)」の


譬喩をご紹介してまいりました。


今回からはこの譬喩が何を意味しているのかについて、


善導大師(ぜんどうだいし)ご本人の解説をご紹介します。




東の岸というのは、私たちの「現実の苦悩の世界」


をあらわします。


西の岸は、極楽浄土をあらわします。


また、私たちは目や耳、鼻、舌、身体、心で


様々な感覚を味わい、考え、喜び、悩み、


楽しみ、苦しみます。


そういった外部からの数え切れないほど多くの


情報に反応して私たちの心は揺れ動きます。


譬えの中に出てくる獣はそれらの情報や


情報を受け取る我々自身をあらわします。


旅人が一人寂しく彷徨っているのは、


「本当に自分を良い方に導いてくれる友」と


未だに遭っていない私たちの状況をあらわします。


次回は水の河と火の河が


何をあらわすのかをお伝えします。


2021年2月11日木曜日

二河白道(にがびゃくどう) ⑦ 譬えの解釈 その二

「二河白道(にがびゃくどう)」の「二河(にが)」、


すなわち水の河と火の河は何をあらわすのでしょうか。


「水の河」は私たちの「貪りの煩悩」をあらわし、


「火の河」は「怒りの煩悩」をあらわします。


二河の間を通る、幅わずか四五寸の


「白道(びゃくどう)」は、貪りや怒りの


煩悩の中から、「浄土への往生を求める清い心」が


生まれることにたとえられています。


波が常に道を濡らすのは、愛欲の心が常に起こり、


善い心を汚すことをあらわします。


また、火の河が常に道を焼くというのは、


怒りの心が仏法の功徳を


焼き払ってしまうことにたとえられます。


東の岸から旅人が白道を歩むことを


勧める声は、「お釈迦さまの教え」をあらわします。


お釈迦さまはすでに入滅されて、


お姿を見ることは叶いませんが、


教えが現代にもきちんと伝わっていますので、


聞くことができます。


それをあらわすのです。


2021年2月10日水曜日

二河白道(にがびゃくどう) ⑧ 譬えの解釈 その三

旅人が勇気を出して、少しずつ進み出すのは、


私たちがお念仏と出会い、阿弥陀さまの御心に適うように


念仏を称え出すことをあらわします。


そこに盗賊たちが呼び返すのは、


念仏の教えと異なる見解を持つ人や、


異なる修行をする人たちが、自らの考えを説いて


私たちを念仏から遠ざけようとすることに


譬えられるのです。


西の岸から人の呼ぶ声が聞こえるのは、


阿弥陀さまの本願の御心を譬えたものです。


西の岸に着いて善き友と喜び合うというのは、


お念仏の教えと出会えた喜びです。


私たちは長い間迷いの世界を、生まれては死ぬことを


繰り返し(輪廻)、ずっと逃れることができませんでした。


お釈迦さまがそんな私たちを極楽へと


導くために「浄土三部経(じょうどさんぶきょう)」を


お説きくださいました。


阿弥陀さまは「我が名を呼ぶ者を救う」という


「本願」を建ててくださり、私たちを極楽へ


迎え入れようと手を差し伸べてくださっています。


このお釈迦さまと阿弥陀さまの御心を信じ随って、


水火(貪りと怒り)の二河をかえりみずに


本願を忘れることなく念仏を称え、


命尽きた後に極楽浄土に往生して


阿弥陀さまとお会いできることは


この上ない喜びでありましょう。

2021年2月9日火曜日

二河白道(にがびゃくどう) ⑨ 白道 を歩む私 その一

白道(びゃくどう)を歩む旅人は、「今現在の私」です。


他人の発する言葉に反応し、喜んだり落ち込んだり、


自信を持ったり不安に陥るなど、


自分の感情に振り回されて、人生を歩んできました。


その私がつい最近、お念仏の教えと出会ったのです。


ただ、お念仏の教えと出会っても、


それですぐそのまま苦しみが無くなる


わけではありません。


だから身辺にトラブルが起こると、


「極楽浄土へ往こう!」という気持ちが


シュンと失せてしまうのです。


その私の弱い「極楽往生を願う心」を表すのが


わずか四五寸の幅しかない白道(びゃくどう)です。


白道(びゃくどう)の幅の細さは、


すなわち私たちの「極楽往生を願う心」の


弱さを表すのです。


阿弥陀さまの本願の力はとても強いのですが、


私たちの「極楽往生を願う心」は


とても弱く頼りないものです。


2021年2月8日月曜日

二河白道(にがびゃくどう) ⑩ 白道を歩む私 その二

念仏を称えていても、「欲しい欲しい」という


欲張りな心は起こります。


欲が過ぎれば念仏どころでは


なくなってしまいます。


それが旅人の右側、水の河です。


水の河は貪りの心を表します。


貪瞋痴(とんじんち)の貪です。


また念仏を称えていても、


自分の思い通りにならなくなると腹が立ちます。


腹が立って腹が立って腸が煮えくりかえると


念仏どころではなくなります。


それが旅人の左側、火の河です。


火の河は瞋りの心を表します。


貪瞋痴(とんじんち)の瞋です。



貪について

https://hourinji.blogspot.com/2020/08/blog-post_16.html


瞋と痴について

https://hourinji.blogspot.com/2020/08/blog-post_17.html


2021年2月7日日曜日

二河白道(にがびゃくどう) ⑪ 白道を歩む私 その三

ここに登場する旅人は現在の私自身であると申しました。


二河白道(にがびゃくどう)は


「私が死んでから細い道を歩む」


のではありません。


念仏を称えて生きていこうと


信仰を決めた私ですが、それですっかり心が安定して、


一生涯ずっと揺らぎ無く信仰していく、


というわけには、なかなかいきません。


私たちには煩悩があります。


念仏を称えていたら、煩悩がなくなるのではありません。


称えていても煩悩はあります。


頻繁に欲張りの心、腹立ちの心、


高慢な心、疑いの心を起こす私たちです。


それらの心が過ぎれば、念仏信仰を失いかねない


頼りない私たちです。


そんな私自身を表すのが旅人の姿なのです。


2021年2月6日土曜日

二河白道(にがびゃくどう) ⑫ 白道を歩む私 その四

念仏を称えて生きていこうと心が和らぐと、


他の信仰や見解を持つ人の言葉が


耳に入ってきやすくなります。


信仰と無縁の生活を送っている時には


宗教のことには耳を貸さなかったことでしょう。


しかし信仰が芽生えて、あらゆるものを


「ありがたいなあ」と思えるようになり、


素直な心になったときに、


他の信仰や見解を持つ方が言う言葉は気になるものです。


しかし、それに乗ってはいけません。


他の信仰が悪いとか、間違っているという


話ではありません。


同じ仏教の中の他の宗派も、


すべてお釈迦さまの教えですから、


それが間違っているはずはありません。


キリスト教やイスラム教、ユダヤ教、


神道、儒教、新興宗教など、


数え切れない数の宗教があります。


それらを信じている人はそれでいいのです。


ただ、念仏を信じて、


これから称えていこうという者は


他の宗教や他の見解を聞いて迷っていてはいけません。


他の宗派や宗教の話を一々に聞いて、


「それも一理ある」などと言っていたら、


信仰がフラつくのです。


宗教だけではありません。


「科学的にみたら、極楽なんてあり得ないよ」と


学のある人から言われたら、


「そうかな」と迷ってしまうのではないでしょうか。


2021年2月5日金曜日

二河白道(にがびゃくどう) ⑬ 白道歩む私 その五

念仏の信仰に目覚めた者だからこそ、


他の宗教や見解の方に何か言われると、


かえって迷いやすいといえます。


しかしそんなことではいけません。


お釈迦さまが浄土三部経を説いてくださり、


私たちに「阿弥陀仏を信じていけよ」と


励まし、後押しをしてくださっています。


阿弥陀さまは「我が名を呼ぶ者を必ず極楽へ迎え取るぞ」と


両手を広げて願ってくださっているのです。


お釈迦さまは「往け!」、阿弥陀さまは「来い!」と


私たちに呼びかけてくださっています。


私達が本気で救いを求めるならば、


「こっちにもこんな教えがある」


「あっちにもこんな教えがある」と


フラついていてはいけません。


それは救いから自らを遠ざけることになります。


阿弥陀さまを信じ、極楽への往生を願い、


念仏しようという者は、


他にどんなことを言われようとも、


どういう誘いや誘惑があったとしても、


脇目もふらずお念仏を称えていきましょう。


2021年2月4日木曜日

二河白道(にがびゃくどう) ⑭ まとめ その一

今まで向かう方向さえも分からなかった私が、


念仏の教えと出会い、ようやく方向が定まりました。


しかし念仏を称えていこうと思って生きていても、


やはり欲はあり、腹も立ちます。


信仰の浅い人はそれだけで念仏を失ってしまいます。


「ありがたいな」と思って念仏をし始めても、


日常生活に戻るとそのありがたさも失せて、


すっかり元に戻ってしまうのです。


欲や怒りに振り回されるだけの


毎日に戻ってしまって、念仏の信を


失うことがありうるのです。


こういう状態をあらわすのが「二河白道の譬喩」


における火と水の河です。


また、念仏を称えていると他の信仰や見解の人の


言葉が入りやすくなります。


「念仏みたいな年寄り臭いものはやめて、


楽しく過ごそうよ」という誘惑もあるでしょう。


それがもしかすると、我が子や孫の誘惑かもしれません。


また「念仏なんて称えても救われないよ、


こっちの方が正しいよ」と


言ってくる人がいるかも知れません。


「科学的にみたら極楽なんてないよ」という


もっともらしいことを言う人もいるでしょう。


そういう声が聞こえてきているのが


真ん中の白い道を歩いている旅人であり、


今の私たちなのです。


2021年2月3日水曜日

二河白道(にがびゃくどう) ⑮ まとめ その二

念仏信仰に入ったのに、他の人からの言葉に


容易く惑わされる私たちです。


そこに東からお釈迦さまの声がします。


「絶対大丈夫だから


阿弥陀さまの本願を信じて念仏称えて進めよ」


後ろからお釈迦さまがそう励まして下さるのです。


西からは阿弥陀さまが


「私を信じて念仏して進めよ。


間違いなく救いとってやるから」と


声をかけて下さっているのです。


「釈迦は行け、弥陀は来いよの中は我 


押され引かれて参る極楽」


お釈迦さまは「行け」と言って下さる。


阿弥さまは「来い」と言って下さる。


それを信じて念仏していけばよいのです。


お釈迦さまと阿弥陀さまが間違いないと


言って下さっているのに、


わざわざ凡夫(ぼんぶ)の言うことに


振り回されるのが私たちです。


信じるのは「仏さま」です。


凡夫(ぼんぶ)ではありません。


念仏というのは誰にでもできる非常に簡単な行です。


信仰もなく一遍だけ称えるのであれば、


本当に誰だってできるでしょう。


でも続けていくのは簡単ではありません。


そして信じ続けるということは難しいものです。


信じてからが正念場なのです。


これを「信後(しんご)の用心」といいます。


「ありがたい!」と信じた後が問題です。


色んなことがあるけれど、


お釈迦さまと阿弥陀さまのおっしゃることを信じて、


それに励まされて念仏を称えて生きていくのです。


これこそが二河白道(にがびゃくどう)の譬喩を


説かれた意味です。


2021年2月2日火曜日

二河白道(にがびゃくどう) ⑯ まとめ その三

最後にもう一度、在阿さまの質問に戻ります。


「生きていく中で貪りや怒りは放っておいても


どんどん湧いてくる。


でも極楽へ往生したい!という気持ちは


そこまで強くはならない。


どうしたらいいのですか?」という質問でした。


お答えになる良忠(りょうちゅう)上人は、


「貪りとか怒りといった煩悩は、


誰に教えられたわけでもないのに


どんどん湧いてくる。


これは生まれ変わり死に変わり、


輪廻(りんね)を続ける中で、


記憶にない遠い昔から


培ってきたものであるから強いのは仕方がない。


それに対して極楽往生したいという心は


最近ようやく身についたことだ。


だから弱いのは仕方がない。


二河白道(にがびゃくどう)の譬喩を


よくよく見直しなさいよ」ということでした。


自分の煩悩や他人の言葉など、


色んな誘惑があるけれど、


お釈迦さまと阿弥陀さまが、


「念仏を称えていけよ。


必ず極楽浄土へ往生することができるから」と


お示しくださるのですから、


ただそれだけを信じて念仏を称えればいいのです。


危うい時にはお釈迦さま、阿弥陀さま、


善導大師(ぜんどうだいし)、法然上人、


二祖聖光(しょうこう)上人、


三祖良忠(りょうちゅう)上人の言葉を


確認しつつ信仰の道を歩みましょう。


自分の感情にまかせていると、


好き勝手な方へと簡単に行ってしまいます。


頼りない自分自身の本質を自覚して、


危うい方向へ行かないように


今後も気をつけていきたいものです。


(二河白道の項終わる)


8月前半のことば 「亡き親の しきりに恋し 蝉の声」

 8月前半のことば 「亡き親の しきりに恋し 蝉の声」   若い頃、親の言葉を素直に聞けず、反発ばかりしていた日々はありませんでしたか。進路のことで衝突したり、ささいな注意に声を荒らげたり。  しかし自分が親となり、泣きやまぬ我が子を抱いて途方に暮れる時、かつて自分を包んでいた親...