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2021年3月27日土曜日

三義校量(さんぎきょうりょう) ① 『往生論註(おうじょうろんちゅう)』

法然上人のお師匠さまは


善導大師(ぜんどうだいし)です。


善導大師(ぜんどうだいし)のお師匠さまは


道綽禅師(どうしゃくぜんじ)です。


道綽禅師(どうしゃくぜんじ)の


お師匠さまは曇鸞大師(どんらんだいし)です。


その曇鸞大師(どんらんだいし)の著書に


『往生論註(おうじょうろんちゅう)』という


書物があります。


『往生論註(おうじょうろんちゅう)』は


上下二巻あり、その上巻の最後に


「三義校量(さんぎきょうりょう)」と


呼ばれる箇所があります。


「悪人が救われるなんておかしいんじゃないの?!」


という疑問に対して、三つの理屈で応えるのが


「三義校量(さんぎきょうりょう)」です。


次からは内容に入っていきます。


2021年3月26日金曜日

三義校量(さんぎきょうりょう) ② 業道経(ごうどうきょう)

(本文)


問いて曰く、業道経(ごうどうきょう)に


言(のたま)わく、業道(ごうどう)は


称(はかり)のごとし。


重き者先ず牽くと。




(現代語訳)


お尋ねします。


業道経(ごうどうきょう)にこのようにあります。


「業の報いは秤のようなものなので、


重い方に傾くものである」






「業道経(ごうどうきょう)」というお経が


どのお経なのか、実は本当のところはわかりません。


『無量寿経(むりょうじゅきょう)』に「五悪段」と


呼ばれるところがあり、それを「業道経」と


言っているのだ、という説がありますが、


完全に文章が一致しているわけではないので、


確定はできません。


『往生論註(おうじょうろんちゅう)』には


その「業道経」に


「業(ごう)の報いは秤のようなものなので、


重い方に傾くものである」と記されているといいます。


「業(ごう)」というのは「行い」という意味で、


仏教では善業の結果は「楽(らく)」であり、


悪業の結果は「苦」であると説かれます。


善業をなすごとに、どのタイミングになるかはわかりませんが、


必ず「楽果(らっか)」がもたらされます。


悪業をなせば、未来に必ず「苦果(くか)」が訪れます。


自分の業を秤にかけた時、善業が多ければ楽果に傾き、


悪業が多ければ苦果に傾くはずだ、というのです。


2021年3月25日木曜日

三義校量(さんぎきょうりょう) ③ 下品下生(げほんげしょう)

(本文)


観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)に


言(のたま)うがごとし。


「人有りて五逆(ごぎゃく)・十悪(じゅうあく)を


造り諸(もろもろ)の不善を具せらん。


悪道に堕して多劫(たこう)を


経歴(きょうりゃく)して無量の苦を受くべし。


命終(みょうじゅう)の時に臨みて、


善知識の教えに遇いて、


南無無量寿仏と称(しょう)せん。


是(か)くのごとく心(しん)を至して


声をして絶えざらしめて、


十念を具足して便(すなわ)ち安楽浄土に


往生することを得(う)。


即ち大乗正定(しょうじょう)の


聚(じゅ)に入(い)りて、


畢竟(ひっきょう)じて退(たい)せず。


三塗(さんず)の諸(もろもろ)の


苦と永く隔(へだ)つ」と。




(現代語訳)


『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』には


「人が五逆(ごぎゃく)・十悪(じゅうあく)を行い、


さまざまの不善を身に具えれば、


その報いとして悪道に堕ちて長い間


とてつもない苦しみを受けねばならない。


ところがその人の臨終の時に、


善知識の教えに遇い、


「南無阿弥陀仏と称えよ、と教わって、


心を極楽に向けて声を絶やさず十念を称えれば、


極楽浄土へ往生することができ、


菩薩の仲間に入ってそこから落ちることがない。


そしてその人は永久に悪道の苦しみから


離れるのである」と記されています。






『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』の


「下品下生(げほんげしょう)」の項に出てくる


大悪人について説かれています。


「下品下生(げほんげしょう)」について、


詳しくは別に項を設けて記事を上げていますので、


そちらをご覧ください。



下品下生(げほんげしょう)

https://hourinji.blogspot.com/search/label/%E4%B8%8B%E5%93%81%E4%B8%8B%E7%94%9F%EF%BC%88%E3%81%92%E3%81%BB%E3%82%93%E3%81%92%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%86%EF%BC%89




あらましはこういう話です。


「下品下生(げほんげしょう)」に登場する大悪人は、


人を殺し盗みをし、親まで殺してしまうような人です。


その大悪人は今まで仏教のみ教えと


出会う縁がありませんでした。


もしかしたら誰かが教えてくれたことも


あったのかは分かりませんが、


それに耳を貸そうともしなかったのです。


その大悪人がいよいよ最後臨終を迎えます。

                                      

大悪人の臨終の枕辺に、


念仏のみ教えを信じている人がやってきます。


古くからの知り合いだったのに、


その人の言葉に耳を傾けなかったのかも知れません。


でもいよいよ臨終にあたり、


「このまま俺は地獄に堕ちるしかないのか!」と


もがき苦しんでいる時に、


「地獄には往きたくなかろう。


極楽へ往きたいとは思わないか?


極楽へ往きたいならば、阿弥陀さまにすがって


南無阿弥陀仏と称えよ」と教えられるのです。


「この俺が極楽へ往けるのか?


親まで殺したんだぞ」


「いや、阿弥陀さまのお力を信じなさい。


間違いないから」と諭されます。


「本当か?俺が救われるんだな!」


と喜んで「南無阿弥陀仏」と


大悪人は称え始めます。


その念仏が十遍に達したところで


その大悪人は事切れるのです。


大悪人は臨終間際にお念仏を勧められて、


自らお念仏を称えた結果、極楽へ往生しました、


と「下品下生(げほんげしょう)」に説かれています。


さて、これをどのように理解したらよいでしょうか。


2021年3月24日水曜日

三義校量(さんぎきょうりょう) ④ 悪人往生に対する疑問

(本文)


先(ま)ず牽(ひ)くの義、理に於いて如何ぞ。


又曠劫(こうごう)より已来(このかた)、


備(つぶさ)に諸(もろもろ)の行を造りて、


有漏(うろ)の法は三界(さんがい)に


繋属(けぞく)せり。


但(ただ)十念阿弥陀仏を念じたてまつるを以て


便(すなわ)ち三界を出(い)ず。


繋業(けごう)の義、復(また)


云何(いかん)せんと欲する。




(現代語訳)


では「重い方に傾く」という道理はどうなりますか?


また人は遙か昔から数々の行いをして、


その煩悩の身はみな迷いの世界に縛り付けられています。


それがたった十遍の念仏で、


迷いの世界から抜け出せるといいます。


それならば、悪業によって


苦しみ迷いの世界に縛り付けられるという理屈を


どう考えたらよいのでしょうか。






「一生悪の限りを尽くしてきた悪人が、


たった十遍の念仏で極楽へ往けるっていうのは


どう考えてもおかしいじゃないか。


『業道経(ごうどうきょう)』というお経には、


業(ごう)は秤のようなものであると記されている」


というのです。


業(ごう)は秤のようなもので、重い方に傾く。


普通に考えると、一生悪い行いをしてきた人の業の方が


重いはずである。


たった十遍の念仏の方が重いのは


おかしいのではないか、との疑問です。


とても真っ当な疑問だと思われます。


2021年3月23日火曜日

三義校量(さんぎきょうりょう) ⑤ 疑問に対する回答

(本文)


答えて曰わく、汝五逆(ごぎゃく)・


十悪(じゅうあく)の繋業(けごう)等を


重(じゅう)と為し、


下下品(げげぼん)の人(にん)の十念を以て


軽(きょう)と為して、


罪の為に牽かれて先ず地獄に堕して


三界(さんがい)に繋在(けざい)すべしと謂わば、


今当(まさ)に義を以て校量(きょうりょう)すべし。




(現代語訳)


答えましょう。


あなたは五逆(ごぎゃく)や


十悪(じゅうあく)の苦しみ迷いの世界に


縛り付けられる行いが重いとし、


下品下生(げほんげしょう)の人の十念を


軽いとみなしています。


その罪によって、まず地獄に堕ちて


苦しみの世界に縛られるのが当然であるのに、


そうではないのが理屈に合わない、


ということですね。


では今その両者の重さを秤に掛けてみましょう。






一生悪の限りを尽くした大悪人の業(ごう)と


その人がお念仏を称えた業はどちらが重いのでしょうか。


『往生論註(おうじょうろんちゅう)』では、


仏法に基づいて、三つの量り方示されています。


これを「三義校量(さんぎきょうりょう)」といいます。


2021年3月22日月曜日

三義校量(さんぎきょうりょう) ⑥ 在心(ざいしん)・在縁(ざいえん)・在決定(ざいけつじょう)

(本文)


軽重(きょうじゅう)の義は


心(しん)に在り、縁に在り、


決定(けつじょう)に在りて、


時節の久近(くごん)・多少には在らず。




(現代語訳)


軽いか重いかを量るには


「心(しん)に在り」「縁に在り」


「決定(けつじょう)に在り」という


三つの理論によるのであって、


時間の長短や多少にあるのではないのです。





大悪人が積んできた罪業(ざいごう)と、


臨終間際に大悪人が称えた念仏の業の


重さを秤にかけます。


その量り方は三つの理論に基づいて行われます。


「在心(ざいしん)」「在縁(ざいえん)」


「在決定(ざいけつじょう)」の三つです。


2021年3月21日日曜日

三義校量(さんぎきょうりょう) ⑦ 在心(ざいしん)その一

(本文)


如何(いかん)が心(しん)に在る。


彼の造罪の人は自ら虚妄顛倒(こもうてんどう)の


見(けん)に依止(えじ)して生(しょう)ず。


此の十念は善知識の方便安慰(ほうべんあんに)に


依りて実相の法を聞きて生(しょう)ず。


一は実なり、一は虚(こ)なり。


あに相(あい)比ぶることを得んや。





(現代語訳)


「心(しん)に在り」というのは


どういうことでしょうか?


ここに登場する五逆(ごぎゃく)・


十悪(じゅうあく)の罪人は、


自らの誤った迷いにとらわれた心を


より所として行動しています。


対してこの十念は、善知識の導きによって、


真実の教えを聞いて念仏を称えるのです。


一方は真実であり、一方は虚妄(こもう)です。


比較にならないのです。






一つ目の量り方を「在心(ざいしん)」といいます。


罪を作る時とお念仏を称える時の


「心」を比べるのです。


罪を作る時は、悪人自身の煩悩まみれの


迷いの心がその出所となります。


一方お念仏を称える時の心は


真実の教えに基づいた心です。


「真実の心」と「迷いの心」では比べるまでもない、


というのです。


2021年3月20日土曜日

三義校量(さんぎきょうりょう) ⑧ 在心(ざいしん)その二

(本文)


譬えば千歳(せんざい)の闇室(あんしつ)に


光(ひかり)若し暫く至らば、


即便(すなわち)明朗なるがごとし。


闇、あに室に在ること千歳(せんざい)にして


去らじと言うことを得んや。


是を心(しん)に在りと名づく。




(現代語訳)


たとえば千年間真っ暗であった闇室(あんしつ)に、


一瞬でも光が入れば、たちまち明るくなることでしょう。


「千年もの間暗かったので闇は去らない」


などということがありましょうか。


これが「心(しん)に在り」という理論です。






例えば千年間扉を閉じて、


暗闇であった部屋を明るくするのに


千年かかるでしょうか?


かかりませんよね。


光が入れば一瞬の中に明るくなります。


それと同じように、親殺しの罪を行う心は


闇のようなものだけれど、


念仏の光が心にさせば瞬く間に明るく輝くのです。


よって罪を作る心より念仏の心の方が重い。


これが在心(ざいしん)と呼ばれる量り方です。  

2021年3月19日金曜日

三義校量(さんぎきょうりょう) ⑨ 在縁(ざいえん)その一

(本文)


云何が縁に在る。


彼の造罪の人は自ら妄想(もうぞう)の


心(しん)に依止(えじ)し、


煩悩虚妄(ぼんのうこもう)の


果報の衆生に依りて生ず。


此の十念は無上の信心に依止(えじ)して、


阿弥陀如来の方便荘厳真実清浄無量


(ほうべんしょうごんしんじつしょうじょうむりょう)の


功徳の名号に依りて生ず。





(現代語訳)


あの(ごぎゃく)・十悪(じゅうあく)の罪人は、


自らの誤った迷いにとらわれた心をより所とし、


煩悩にまみれた人との縁の中で過ごしています。


対してこの十念は、


この上ない信心をより所として、


阿弥陀仏の真実で清い功徳が収まった


念仏を縁としているのです。






二つ目の量り方は「在縁(ざいえん)」です。


人殺し、親殺しの縁は


お互い凡夫(ぼんぶ)同士の縁の中で生まれます。


悪い環境や悪い仲間と過ごすうちに、


更に悪い縁を呼び込みます。


悪い縁の中で出会う相手とは、


トラブルを起こしやすいものです。


悪人には悪人の正義があります。


「あいつが悪いから懲らしめてやろう」


「あいつはルールを破ったのだから、痛めつけよう」


「こっちは生まれながらに辛い境遇にあるのだから、


金持ちからふんだくってもよかろう」


そのように相手が凡夫(ぼんぶ)の場合、


自分では正しい行動をしているつもりでも、


罪を作ってしまうことが増えてきます。


方や念仏の縁は阿弥陀さまとのご縁です。


念仏を称えれば、阿弥陀さまの本願の力によって、


必ず間違いなく極楽浄土へ迎え取っていただけます。


同じ縁でも大違いです。


だから念仏の縁の方が重いのである、というのです。


これが「在縁(ざいえん)」の理路です。


2021年3月18日木曜日

三義校量(さんぎきょうりょう) ⑩在縁(ざいえん)その二

(本文)


譬えば人有りて毒の箭(や)を被(こうむ)りて、


中(あた)る所、筋を切り骨を破るに、


滅除薬(めつじょやく)の鼓(つづみ)を聞けば、


即ち箭(や)出で毒除こるがごとし。


〈首楞厳経(しゅりょうごんぎょう)に言わく、


「譬えば薬有り、名づけて滅除と曰う。


若し闘戦(とうせん)の時用いて以て


鼓(つづみ)に塗るに、鼓(つづみ)の声を聞けば


箭(や)出で毒除こるがごとし。


菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ)


亦復(また)是(かく)のごとし。


首楞厳三昧(しゅりょうごんざんまい)に住して


其の名を聞けば、三毒の箭(や)


自然(じねん)に抜け出ず」と。〉


あに彼の箭(や)深く毒激しくして、


鼓(つづみ)の音声(おんじょう)を聞くとも、


箭(や)を抜き毒を去ること


能(あた)わずと言うことを得(う)べけんや。


是を縁に在りと名づく。




(現代語訳)


たとえばある人が毒矢に当たって、


筋を切り骨を破ってしまったとしましょう。


ところが滅除薬(めつじょやく)を塗った


鼓の音を聞くと、たちまち矢が抜け出て


毒も除かれるようなものです。


首楞厳経(しゅりょうごんぎょう)には、


「たとえばここに滅除という名前の薬があるとしよう。


もし戦の時にその薬を鼓に塗ると、


鼓の音を聞けば矢は抜け出て、


毒は除かれる。覚りを求める者も同様である。


首楞厳経三昧(しゅりょうごんざんまい)に入って、


その名を聞けば、煩悩の矢は自然と抜け出るものである」


と説かれています。


そうであるのに、矢が深く刺さり、


毒が激しいからと言って、


鼓の音を聞いても矢が抜けて


毒が除かれることができないなどということが


あり得ましょうか?


これが「縁に在り」という理論です。






毒矢にあてられ筋が切れ、骨が折れた時に、


滅除薬を塗った鼓を打ち鳴らしたら、


その鼓の音を聞いただけで、


矢は抜け毒も除かれるといいます。


ちょっとピンとこないかもしれませんね。


あえて解説をしますと、「毒矢に当てられた人」というのは、


「迷いの世界の凡夫」です。


また、「滅除薬の塗られた鼓の音」は、


「南無阿弥陀仏のお念仏」です。


お念仏に具わる偉大な力が、


鼓の音に託されているのです。


お念仏には、人間の浅はかな考えでは捉えられない


不思議な力が具わっているのです。


2021年3月17日水曜日

三義校量(さんぎきょうりょう) ⑪在決定(ざいけつじょう)

(本文)


何が決定(けつじょう)に在る。


彼の造罪の人は有後心(うごしん)・


有間心(うけんしん)に


依止(えじ)して生(しょう)ず。


此の十念は無後心(むごしん)・


無間心(むけんしん)に


依止(えじ)して生(しょう)ず。


是を決定(けつじょう)と名づく。




(現代語訳)


「決定(けつじょう)に在り」とは


どういうことでしょうか。


あの(ごぎゃく)・十悪(じゅうあく)の罪人は、


「まだこの後時間がたっぷりある」


という心をより所にしています。


対してこの十念は、「もう残った時間はない」


という心をより所にしています。


これが「決定(けつじょう)に在り」


という理論です。





三つ目が「在決定」です。


この大悪人にはもう臨終まで残る時間がありません。


私たちはいずれ死ぬ時が来るとは分かっていても、


「今すぐに!」とは思っていませんよね。


このように「残る時間がある」と思う心を


「有後心(うごしん)」「有間心(うけんじん)」


と言います。


後があって死ぬまでに時間があれば、


「もっと悪いことをしてやろう」とか


「今は悪事に手を染めているけれど、


いつか善いことをしよう」


などと「悪事をした先」を想定して


行動をしてしまいます。


対してこの大悪人はもう臨終間際です。


時間がありません。


「無後心(むごしん)」「無間心(むけんじん)」です。


後がない心、死ぬまで間のある心です。


いわば「背水の陣」です。


この時の心は強力です。


「阿弥陀さま!」と頼み、


「極楽へ往きたい」と願う心が強くなります。


そして念仏以外の行をする余裕も無く、


一心に「南無阿弥陀仏」と称えることでしょう。


その「お念仏しかない!」と


極楽往きを決定する心を


「決定心(けつじょうしん)」といいます。


この「無後心(むごしん)」「無間心(むけんじん)」の


「決定心(けつじょうしん)」は重いのです。


2021年3月16日火曜日

三義校量(さんぎきょうりょう) ⑫ 両経は一義

(本文)


三の義を校量(きょうりょう)するに十念は重し。


重きもの先ず牽きて能(よ)く


三有(さんぬ)を出(い)ず。


両経(りょうきょう)は一義なるのみ。




(現代語訳)


これら三つの基準で量ってみると、


十念が重いということがわかります。


「重い方に傾く」のですから、


罪が重い人も念仏によって苦しみ迷いの世界から


抜け出ることができるのです。


「業道経(ごうどうきょう)」も


「観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)」も


同じ理屈で説かれているのです。




この三つの義、「在心(ざいしん)」「在縁(ざいえん)」


「在決定(ざいけつじょう)」の


三義によって量ってみると、


大悪人の罪の重さよりも念仏によって


極楽へ往生させていただく


み教えのの方が勝るということです。


2021年3月15日月曜日

三義校量(さんぎきょうりょう) ⑬ 「どんな悪人でも救われる」とは? その一

浄土宗の教えは「誰もが救われる教え」です。


だからと言って、それなら「どんな悪いことをしてもいいのか?」


というと、そんなはずはありません。


しかしながら、法然上人の教えを聞いた人の中には


昔から「南無阿弥陀仏と称えればどんな者でも救われる」


という教えを誤解して捉える人がいました。


「どんな者でも救われるなら、


どんな悪いことをしてもいいじゃないか」ということです。


また「どんな悪人でも救われる」という教えが


多くの誤解を生みました。


今でも誤解する人は多いです。


「それはおかしいじゃないか」と。


普通に「どんな悪人でも救われる」と聞いたら、


「じゃあ麻原彰晃でも救われるのか?


宅間守でも救われるのか?」


と思ってしまうかもしれません。


でもそういう意味ではありません。


「どんな悪人でも」というのは


自分自身を指して「こんな悪人でも」


ということを意味します。


煩悩を断つこともできずに、


自分中心の我欲に囚われる悪人です。


それがこの私です。


この私が南無阿弥陀仏と称えることによって


阿弥陀さまに救われていく、という話なのです。


2021年3月14日日曜日

三義校量(さんぎきょうりょう) ⑭ 「どんな悪人でも救われる」とは? その二

法然上人が説かれる


「どんな者でも救われる」という


突飛な言い回しが誤解を生んだのは確かです。


「阿弥陀さまの力を信じるなら、


悪いことをすればいいじゃないか」と極端な方へ走り、


そう吹聴する輩も出てきました。


これを「造悪無碍(ぞうあくむげ)」と言います。


「碍」は「さまたげ」という意味ですから、


「造悪無碍(ぞうあくむげ)」は


「罪を造ってもさまたげにならない」という意味です。


何に対するさまたげかというと、「極楽往生」です。


「いくら罪を造っても極楽に往生する


さまたげにはならない」ということなのです。


そういう考えから「いくら悪いことしてもいいじゃないか。


阿弥陀さまが救ってくれるんだから」


と言い出す輩が出てきて暴走しだしました。


もちろんそれを法然上人が


野放しになさっていたわけではありません。


たとえば法然上人とお弟子との問答の中に


このようなやりとりがあったのが、今に遺されています。


「法然上人、阿弥陀さまは悪人を嫌わないからといって、


積極的に悪いことをしようということが


許されるのでしょうか?」


というお弟子の質問です。


周りにそういう人がいたのかもしれません。


それに対して法然上人は


「阿弥陀さまは悪人も見捨てることありません。


ただ、積極的に悪いことをしようという者は


そもそも仏の弟子ではありません。


仏法のどこにも悪業を野放しにせよ、


という教えはありません。


どんな罪を造ったって平気だというのは


仏法でなないのです」と仰っています。


2021年3月13日土曜日

三義校量(さんぎきょうりょう) ⑮ 「どんな悪人でも救われる」とは? その三

仏教の方向性は「廃悪修善(はいあくしゅぜん)」です。


「悪いことをやめて善いことをしていきましょう」です。


ただ理想がそうであっても、実際には煩悩に苛まれて


悪い行いをしてしまう我々です。


でもそれを開き直って


「どんな悪いことをしてもいいじゃない!」


となると逆を向くことになってしまいます。


「できなくてもやっていこう」という姿勢が必要なのです。


また法然上人はこのようなお言葉も残されています。


「阿弥陀さまはすべての人々を哀れんで、


善人も悪人もすべて救ってくださるけれど、


善人を見ればお喜びになるし、


悪人を見れば悲しまれます。


それは善い土地に善い種をまけば、


善い作物が育つのと同じように、


善の方向に向いて念仏を称えるべきです」


浄土宗もあくまで仏教です。


ですから「悪いことをやめて善いことをしていこう」


という仏教の基本、廃悪修善(はいあくしゅぜん)の方向で


お念仏を称えることが真実の仏教徒である


ということなのです。


2021年3月12日金曜日

三義校量(さんぎきょうりょう) ⑯ 「どんな悪人でも救われる」とは? その四

「どんな悪いことをしてもいいじゃない」という


「造悪無碍(ぞうあくむげ)」のことを言うと、


多くの人が「それはダメでしょ」とおっしゃいます。


でもどうでしょう?


私たちの行動は「造悪無碍(ぞうあくむげ)」に


なっていませんか?


「美味しいもん食べて行きたいところに行って、


言いたいことを言って、


テレビを観ては出演者をこき下ろし、


店に行っては店員に偉そうに言って」という


煩悩むき出しの行動をしつつ


「浄土宗は南無阿弥陀仏と称えたら救われるんでしょ?!」


というのは「造悪無碍(ぞうあくむげ)」ではないでしょうか?


私たちがいざ臨終を迎える時には


「死にたくない」「怖い」という執着が現れると


以前お伝えしました。


https://hourinji.blogspot.com/2020/08/blog-post_28.html



元気な時は「俺は何も悪いことなんかしてない。


人様に後ろ指指されるようなことはしてない!」


と言えても、いざ臨終を迎えたときに


胸を張って言えるでしょうか。


「俺が俺が」と自分のためだけに生きてきた


私ではないでしょうか。


「自分さえよければいい」という生き方を


してきたのではないでしょうか。


でもそんな私が、お念仏によって必ず救われていきます。


それをお伝えするのが


「三義校量(さんぎきょうりょう)」の教えです。


大悪人は「あの悪人」ではなく「この私」です。

2021年3月11日木曜日

三義校量(さんぎきょうりょう) ⑰ 「どんな悪人でも救われる」とは? その五

煩悩に誘惑されながら、フラフラと迷いながらも


お念仏を称えてきて、不安の中臨終を迎えます。


そのいざ臨終のその時には間違いなく


阿弥陀さまがたくさんの菩薩を引き連れて


お迎えくださいます。


「来迎(らいこう)」です。



来迎

https://hourinji.blogspot.com/2020/08/blog-post_27.html



来迎(らいこう)をいただいて、


いよいよ「阿弥陀さまと会える」のです。


直接、目の当たりにお会いできるのです。


そうなれば「阿弥陀さまは本当にいるの?」とか


「極楽なんて本当にあるの?」とか


「本当にお念仏を称えるだけで極楽に往けるの?」などと


疑う余地はありません。


「確たる信」を得ることができるでしょう。


私たちはまだ臨終を迎えていません。


その臨終の時まで念仏の縁を絶ってはならないのです。


ずっとお念仏を続け、「確たる信」を得るべく


信仰を育てていかなくてはなりません。


「二河白道(にがびゃくどう)」の項でもお伝えしたように、


私たちの信仰は甚だ心許ないものです。



二河白道

https://hourinji.blogspot.com/search/label/%E4%BA%8C%E6%B2%B3%E7%99%BD%E9%81%93%EF%BC%88%E3%81%AB%E3%81%8C%E3%81%B3%E3%82%83%E3%81%8F%E3%81%A9%E3%81%86%EF%BC%89



その僅かな信仰を絶やすことなく育て続けていきましょう。


そのためにはお念仏をずっと続けていく以外にはないのです。


9月後半のことば

 9月後半のことば 「多様性 仏の目には 皆凡夫」   近ごろ「多様性」という言葉を耳にしない日はありません。会議でも学校でも、街頭のポスターにすら踊っています。確かに、人は千人いれば千人、百人いれば百人、異なる価値観や性格を持っている。それは事実です。しかし、だからといってその...