ラベル 良忠上人のご生涯 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 良忠上人のご生涯 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2020年6月15日月曜日

良忠上人のご生涯①(ご生誕)

これから浄土宗の第三祖「良忠上人」の略伝をお伝えしてまいります。

「聖光上人のご生涯」の冒頭で「初代がいくら偉くても、

二代目三代目が頼りないと潰れてしまいます」と申し上げました。

聖光上人は「一本筋の入った貫禄ある念仏行者」というイメージです。

良忠上人は「浄土宗教団の地盤を固めた行動力の人」と言えるでしょう。

良忠上人は著作が多いことから

「記主禅師」(きしゅぜんじ)とも呼ばれています。

またご自身のことを

「然阿」(ねんな)ともおっしゃいます。

良忠上人は正治元年(1199)石見の国

つまり今の島根県三隅町というところのお生まれです。

法然上人は長承2年(1133)のお生まれですから、

66歳違いということになります。

「おじいさんと孫」ほどの年齢差です。

残念ながら、法然上人のご在世中に良忠上人との

ご対面は叶いませんでした。

お父さまは藤原一族の名門の末裔ですが、

出家して天台宗のお坊さんになられ、

お名前を「円尊」とおっしゃいました。

後に岩見の国に移住されましたが、その理由は定かではありません。

お母さまは伴氏とだけわかっていますが、こちらも詳細は不明です。

今お生まれになった場所には良忠寺というお寺が建っていますが、

明治になってから良忠上人を讃えて建てられたお寺です。

法然上人や聖光上人と同じく、

幼いときからとても聡明なお子であったようです。

11歳の時に三智法師という方がお父さまの円尊さまを訪ねて来て、

恵心僧都源信さまの『往生要集』という書物のお話しを

傍で聞いて感激したといいます。

恵心僧都源信さまは日本の浄土教の基礎を築いた方です。

『往生要集』には、地獄、餓鬼、畜生、

そして極楽の様子がつぶさに記されています。

みなさんは「地獄絵図」をご覧になったことはありますか?

地獄の獄卒が罪人を苦しめる絵は一度観たら脳裏に焼き付けられます。

あの絵の元になっているのが『往生要集』です。

極楽浄土についても詳しく記されています。

本書には法然上人も大きく影響を受けておられます。

良忠上人は11歳の時にその地獄の様子、

そして極楽の様子を聞いて打ち震えたというのです。

『然阿上人傳』
了慧道光


良忠上人のご生涯②(仏門に入る)

3歳で良忠上人は出雲の鰐淵寺に入られます。

今の小学6年生か中学1年生の頃からお寺で

過ごされたということになります。

やはり相当優秀であったようです。

14歳になられたお正月のことです。

建暦二年の元日。

建暦二年ってみなさん聞き覚えありませんか?

そうです。
「建暦二年正月二十三日大師在御判」とありますように

『一枚起請文』が記された年であり、

その二日後に法然上人が往生された年でもあります。

奇しくもその同じ正月に良忠上人はこんな歌を詠まれたといいます。

五濁(ごじょく)の憂き世に生まれしは 

恨みかたがた多けれど 

念仏往生と聞くときは 

かえりて嬉しくなりにけり

五濁」と申しますのは

①劫濁②見濁③煩悩濁④衆生濁⑤命濁  の五つです。

『浄土宗大辞典』によりますと

①劫濁(こうじょく)とは「時代のみだれで、

戦乱・飢饉・疫病などが多くなること」です。

②見濁(けんじょく)は

「思想のみだれで、邪悪な思想がはびこること」

③煩悩濁(ぼんのうじょく)は

「  貪・瞋・痴の三毒煩悩などが盛んになること」

④衆生濁(しゅじょうじょく)は

「人びとの資質が低下して教えの理解力が劣化すること」

⑤命濁は

「人びとの寿命が短くなること」です。

現代のことを指しているように感じませんか?

仏教の時代感覚は800年前も現代も同じ括りなのです。

良忠上人のお歌は

五濁の世に生まれてきたことは辛いことだけれど、

念仏を称えていたら必ず往生できることを知ると、

この世に生を受けたことがかえって嬉しくなるものである

というものでした。

それを聞いた先輩が

「正月早々縁起でもない!」

と良忠上人を叱ったといいます。

かの一休禅師も正月早々にドクロを持って

「正月は冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」

とふれて歩いたといいます。

良忠上人は先輩に言われたことであるから

反論はしなかったけれども、心の中で

「人の命は時を選ばない。そう考えると正月も盆もない。

今日もしあなたの命が終わるとしたらどうするのか!?」

と思われたといいます。


『良忠上人御法語』
大本山光明寺


2020年6月14日日曜日

良忠上人のご生涯③(出家と苦悩)

良忠上人は仏教の勉強に没頭し、16歳で正式に出家されました。

18歳になった良忠上人は、中国の法照禅師という方の

大聖竹林寺記』という書物を読まれました。

そこには

末法の時代の凡夫は、お釈迦様がこの世を去られてから

長い時間が経って、人々の知識は劣り、罪は深い。

そのような時代には念仏が最も適している

と書かれていました。

良忠上人はそれ以来、念仏一万遍称えるようになったといいます。

「何か劇的なことがあって念仏信仰に入られた」ことを

つい求めてしまいますが、経典や先達の解釈やその文言を

素直に受け取っていかれたことが尚ありがたく感じます。

後の偉業へと続く、その土台が18歳の時にできていたのです。

そこから良忠上人は非常にアクティブに移動を重ねられます。

山陰、山陽、京都、奈良と旅から旅へ教えを求めて移動を繰り返されるのです。

天台密教、真言密教、唯識、三論、華厳、禅の

み教えまでもを学んでいかれます。

法然上人も若き日に自分が本当に救われる教えを

探し求めて奈良を遍歴されました。

当時はもちろん徒歩です。

歩いては教えを聞いて学び、実践し、

歩いては歩いてはの繰り返しです。

良忠上人もまた教えを貪るように学び実践するけれども、

自分が救われるみ教えに中々出会うことができませんでした。

『看病用心鈔』
良忠上人


2020年6月13日土曜日

良忠上人のご生涯④(生仏法師)

18歳から数えると16年の月日が経ちます。

良忠上人34歳の時、まだ答えを得ることもできないまま

故郷の石見の奥の多陀寺に籠もって不断念仏を行ったといいます。

「不断念仏」とは食事や睡眠の時間を除いて

ずっとお念仏を称える行です。

このことから、まだ答えは得られていないけれども、

お念仏に傾倒しておられたことに間違いはないとわかります。

浄土教のみ教えに、何かしら惹かれておられたのでしょう。

そんな鬱々とした日々を過ごしておられた良忠上人に、

大きな転機が訪れます。

あるとき友人の生仏法師(しょうぶつほっし)

訪ねて来られました。

生仏法師もまた、教えを求めて旅を続けておられました。

生仏法師もお念仏、とりわけ法然上人のみ教えに触れてみたいと

思っておられたといいます。

しかし法然上人はすでに極楽へ往生された後です。

直接教えを聞くことができないならば、

そのお弟子さんに教えを聞こうと思うけれども、

法然上人にはたくさんのお弟子さんがおられる。

その中でも時に、法然上人往生の後、

教団のリーダー的な存在になっておられた隆寛律師

それから秀才の証空上人

そして九州におられる聖光上人

隆寛律師、証空上人、聖光上人のお三方が法然上人ご往生の後、

各地でお念仏のみ教えを説かれている、

いわばトップスリーだったのです。

京都の長岡京に粟生の光明寺という、

紅葉でも有名な大きなお寺があります

粟生の光明寺は西山浄土宗の総本山です。

この証空上人の流れが「西山浄土宗」となっていくのです。

話を生仏法師に戻します。

隆寬律師、証空上人、聖光上人のお三方の中の

どなたについたらよいのかがわからない。

そこで生仏法師は、三人の名前を紙に書いて、

それを懐にしまって信濃の善光寺に向かいました。

昔の人のこういう行動に惹かれます。

教えを求めるためにはどれだけ旅するのも厭わないのです。

生仏法師はそれから遠い遠い善光寺へと向かいました。

その途中、榊の宿場に泊まりました。

現在、坂城町という町があります。

昔は「榊」とか、「坂木」と書いたようです。

お伝記には「榊宿」とあります。

榊宿は「善光寺には翌日到着」という位置にあります。

その榊宿に泊まった夜に生仏法師は夢をご覧になりました。

夢に登場したのは身の丈八尺、今の単位では240センチもの大男。

紙は雪のように白く、法衣をまとい、

威儀を整えて杖をついたお坊さんが枕元に立って言うのです。

聖光房がよく往生の道を知っているから、聖光房の元を訪ねよ

翌朝生仏法師は、隆寛律師と証空上人の名前を書いた紙を捨てて、

聖光上人のお名前だけを残しました。

もう目的は達成したので、善光寺には行かなくもよいはずですが、

そんな不義理な生仏法師ではありません。

昔の信仰者には本当に頭が下がります。

夢のお告げは善光寺の阿弥陀如来さまが

お坊さんに姿を変えて私の夢に現れてくださった、

その恩に報いるためにと七日七晩善光寺にお参りしたといいます。

そしてまたその足で九州へと向かうのです。

その途中に、同じように教えを求めている友人の良忠上人の元を訪ねてやってきた。

あなたも聖光上人の元へ行きませんか、という訳です。

良忠上人は大喜びで、早速筑後、

今の久留米の善導寺へ向かうことにしました。

『浄土宗行者用意問答』
良忠上人


2020年6月12日金曜日

良忠上人のご生涯⑤(聖光上人の元へ)

生仏法師がすぐに出発し、良忠上人は翌日に出発しました。

良忠上人はご準備などのあったのでしょう。

不思議なことにお伝記にはこれ以降生仏法師についての記述がありません。

個人的には生仏法師がこの後どうなさったのか、気になるところです。

それはともかく、、、

良忠上人は長い道のりを歩いてようやく善導寺(福岡県久留米市)に着きました。

ところが残念なことに聖光上人はお留守でした。

善導寺から20キロほど離れた天福(福岡県八女市)におられると聞いて、

翌日天福寺へと向かいました。

そこで運命の出会いです。

浄土宗二祖と三祖が出会われたのです

聖光上人75歳、良忠上人38歳でありました。

聖光上人にもたくさんのお弟子がいました。

しかしお弟子はたくさんいるけれども、

自分の跡を譲ることができる者がいないことを嘆いておられました。

そこに38歳男盛りの良忠上人が現れたのです。

良忠上人は他のお弟子以上に、

今まで必死の思いで教えを求めてこられましたから、

学識は豊富。

体力も抜群。

そしてなにより求める心が強い。

聖光上人は良忠上人を「私の若いときのようだ」とお喜びになり、

良忠上人も聖光上人の人格と信仰に強烈に惹かれた。

尊敬する師匠の「私の若いときのようだ」

という言葉は最高の褒め言葉でしょう。

お互い火花を散らすように聞き、答える。

わずか一年足らずの間に一器の水を一器に写すが如く

法然上人のお念仏のみ教えを伝え尽くされました。

その証として聖光上人の御著

『末代念仏授手印』(まつだいねんぶつじゅしゅいん)

『徹選択本願念仏集』(てつせんちゃくほんがんねんぶつしゅう)

授けられた良忠上人。

一生懸命読んですぐに、お師匠さまの

『末代念仏授手印』をこのように理解しました、

と一冊の書物をお師匠さまに差し出しました。

聖光上人目を通し、「よし、これで宜しい!」と喜んでくださった。

この書物が『領解末代念仏授手印鈔』

(りょうげまつだいねんぶつじゅしゅいんしょう)です。

略して『領解鈔』(りょうげしょう)ともいいます。

良忠上人は「記主禅師」と呼ばれるほど多くの書物を著されましたが、

『領解鈔』はその多くの著作の最初の一冊です。

領解」とは「頭だけでなく、全身でしっかりとわかった」という意味です。

「合点」です。

ですからこの『領解鈔』を別名「合点の書」とも申します。

当然『領解鈔』の内容と『末代念仏授手印』の内容には変わりはありません。

変わっていたらいけません。

当然同じなんです。

良忠上人が「こうですね。わかりました!」と書かれた書物。

「本当にわかる」ということです。

「わかる」とは「変わる」ことであるといいます。

親しく色々と教えてくださった先輩が、

これからお坊さんになる若い人によくこうおっしゃっていました。

思いが変われば姿が変わる。姿が変われば言葉が変わる。」

本当に思いがわかればその姿も変わってくる。

姿が変われば、人と話す言葉も自ずと変わっていくのです。

良忠上人はずっとご自分でお勉強なさってきて、ずっと救いを本気で求めて来られました。

私たちも念仏生活の中で、

「そうか、こういうことか。わかった!」

と心の底から合点することが何度もあります。

何度も「領解」「合点」を繰り返して信仰は深まっていくのです。

この正式な教えの相承をもって

浄土宗の第二祖聖光上人から良忠上人は

後継者と認められたのです。

『三祖良忠上人』
大橋俊雄


良忠上人のご生涯⑥(源智上人のこと)

聖光上人からすべてを授与された良忠上人は帰郷を申し出ます。

聖光上人も

「津々浦々に浄土の教えを広め、多くの人に念仏を勧めよ」

と快く送り出されます。

聖光上人は立派な跡取りを送り出され、

翌年嘉禎四年(1238)二月二十九日

極楽浄土へ往生されました。

ようやく後継者を見つけてホッとなさったことでしょう。

良忠上人のそこから約10年後、50歳の時に京都で

『選択集』の講義をされるまでの足跡は残念ながら不明です。

法然上人には多くのお弟子がおられました。

その中に身の回りの世話を十八年にもわたってされた

側近のお弟子、勢観房源智(せいかんぼうげんち)上人がおられます。

源智上人は平師守(たいらのもろもり)の子ですから、平家の直系です。

源氏に見つかればすぐさま殺される身です。

その源智上人を幼いときから預かり、

かくまって弟子として育てたのが法然上人なのです。

源智上人は法然上人の一周忌にあたり、

三尺の阿弥陀如来像を造立しその胎内に、

この像を造立する趣旨「造立願文」を納めます。

その中で法然上人への恩義を

恩山尤も高きは教道の恩にして、徳海尤も深きは厳訓の徳なり

と表現されています。

かくまってもらい、育ててもらったご恩はもとより、

念仏一行で極楽浄土へ往生できるみ教えを伝授していただいた恩。

そして常に身の回りのお世話をし、

付き従う中で法然上人より甘やかすことなく厳しくご指導いただいた、

そのことを源智上人は喜んでおられるのです。

感謝してもしきれない。

「そのご恩に報いるために、三尺の阿弥陀仏像をお造りして、

この胎内に数万人の名前を納めよう」と書かれています。

事実胎内には「造立願文」の他に四万六千人以上の名前を記した

結縁交名(けちえんきょうみょう)」が納められていました。

この阿弥陀仏像が発見されるまで源智上人は法話に人が多く集まると

中止するほど消極的な方だとされていました。

それは源氏による平家の残党狩りの厳しさを物語る、ということでした。

ところがこの結縁交名の発見により、わずか一年の間に四万六千人の

名前を集めるほど行動的な人であったということがわかりました。

法然上人のご恩に報いるために、東奔西走されたのです。

その四万六千人の中にはご自身の親族である平家一門や

法然上人門下の先達のお名前、

全国北から南まで歩き回って縁をつないだ

有名無名の人々の名が綴られています。

そのような縁の深い、お世話になった方々の名が連なるのは理解できますが、

他にはなんと平家一門を皆殺しにした、

憎んでも憎みきれないであろう源頼朝以下源氏の名前が並んでいるのです。

「憎んでも憎みきれない」というのは勝手な想像ですが、

決して良好な関係であろうはずのない人々の名前さえ

納められていることに驚かされます。

更には

「その人々が皆法然上人のお導きを受けて

極楽浄土へと往生されるであろう。

そしてその中の一人が極楽浄土へ往生したら、

すぐにこの娑婆世界に戻ってきて、残った人々を導いてください」

と記されています。

源智上人は法然上人が極楽浄土へ往生された後も

このように人々に念仏教化を続けられました。

その源智上人の一門を「紫野門徒(むらさきのもんと)」といいます。

法然上人ご往生の後、大谷の禅房(今の知恩院勢至堂あたり)で

お弟子たちは毎月のご命日に「知恩講」を勤め、

集まってお念仏を称えていました。

しかし比叡山の衆徒に廟堂を破却されてしまいます。

嘆いた源智上人は廟堂を復興して法然上人の

ご遺骨を納め、伽藍を整えていきます。

それが後の「知恩院」となっていきます。

また、源智上人が住まわれた「加茂の河原屋」は

後に大本山「百万遍知恩寺」となります。

このように「知恩」というのは源智上人をはじめとした

法然上人門下が「法然上人の恩を知る」という意味なのです。


『勢観房源智』
梶村昇著



『勢観房源智上人』
総本山知恩院布教師会刊


良忠上人のご生涯⑦(赤築地〈あかつじ〉の談合)

源智上人は法然上人門下の中でも、

法然上人の元で常随給仕された側近のお弟子として、

一目おかれる存在でありました。

その源智上人は奇しくも聖光上人と同じ年の年末に

極楽浄土へと往生されます。

源智上人にも多くのお弟子がおられました。

その中で源智上人の跡を継がれたのは蓮寂(れんじゃく)上人です。

京都に立ち寄った良忠上人は、

教えを確認するために蓮寂(れんじゃく)上人を訪ねました。

聖光上人の弟子である良忠上人。

源智上人のお弟子蓮寂上人。

どちらも法然上人からすると孫弟子です。

このお二人が京都は東山の赤築地(あかつじ)にて

四十八日間の談義をして、聖光上人の流れと

源智上人の流れを付き合わせたところ、

間違いなく符合することを確認しました。

そこで蓮寂上人は

「紫野(むらさきの)門徒は鎮西(ちんぜい)聖光上人の流れと同じである」

として別流を立てないことを明らかにされたのです。

教えを伝えている間に自分の考えを盛り込んでいくと、

徐々に異なったものになってきます。

浄土宗は聖光上人が良忠上人に伝えたように

「一器の水を一器へ写す」ようにして

同じ教えをそのままに伝授してゆくのです。

源智上人も同じく蓮寂上人へ伝授されました。

こうして大切な確認を終え、良忠上人は東国へと向かわれます。
『勢観房源智上人』
総本山知恩院

2020年6月11日木曜日

良忠上人のご生涯⑧(東国へ)

良忠上人は京都から伊勢路を通り、

現在の四日市六呂見(ろくろみ)にあります観音寺にて

人々に念仏の教えを伝えました。

そして長野善光寺へと向かわれます。

善光寺は良忠上人にとっては一度はお参りしたいところであったでしょう。

友人の生仏法師が善光寺如来から夢のお告げを受け、

「浄土の教えは聖光上人に聞くべし」と感得されたのでした。

生仏法師が聖光上人に浄土の教えを授かりたいと九州へ向かう途中に

「良忠上人にも教えてやろう。きっと喜ぶに違いない」

と立ち寄ってくださったことが、

今の良忠上人の行動の端緒でありました。

「いつかは善光寺の阿弥陀さまをお参りしたい」

と思っておられたことでしょう。

善光寺に参り、そこからしばらくの間、

信濃に滞在して辺りの人々に念仏教化をされました。

その後、今の千葉県下総(しもうさ)

上総(かずさ)へと向かいます。

鎌倉の御家人、千葉氏から援助を受けて、

千葉で念仏布教に努めます。

『近世浄土宗教団の足跡』
宇高良哲


2020年6月10日水曜日

良忠上人のご生涯⑨(在阿さまとの一問一答)

 千葉氏の帰依を受けて良忠上人は

下総(しもうさ)の国で布教と著作に励んでおられました。

そこに一人の天台の学僧が良忠上人を訪ねてきました。

血を吐く病といいますから、今で言う結核かもしれません。

もう余命いくばくもない、そういう状況です。

この学僧、名前は在阿(ざいあとおっしゃいます。

今まで天台を学んできたが、

胸を病んでもう自分には時間がないとさとります。

「もう間に合わない」と念仏のみ教えを求めた。

在阿(ざいあ)さまは聖光上人の

末代念仏授手印』(まつだいねんぶつじゅしゅいん)

を手に入れて読みました。

しかし、今まで自ら覚りを目指して修行してこられたので、

「仏に救われる」浄土宗のみ教えに納得できないところが多い。


「ただ阿弥陀さまの本願を信じて南無阿弥陀仏と称える」という

み教えを素直に信じることができない。

そこで在阿(ざいあ)さまは病の体で法然上人のお弟子を訪ねて歩きました。

まだ直接教えを聞いた方が生き残っておられたのです。

静岡に禅勝房(ぜんしょうぼう)さまという

法然上人のお弟子の中でもひたむきな念仏者として

尊敬を集めた方がおられました。

在阿(ざいあ)さまはその禅勝房(ぜんしょうぼう)さまを訪ねたけれども、

「私は難しい学問はわかりません。

私はただ南無阿弥陀仏と称えれば救われるというみ教えを

法然上人からお聞きして、それを人々にお伝えし、

自ら実践しているだけです」

とおっしゃいます。

ありがたいですね。

しかし在阿(ざいあ)さまはそれでは納得できない。

そして時間がない。

禅勝房(ぜんしょうぼう)さまから相模(さがみ)、

今の藤沢市の石川というところにおられる

道遍(どうへん)さまを紹介されます。

道遍さまも

「私にはあなたのご質問にお答えする学識はありません。」

とおっしゃる。

そしてまた道遍さまから、聖光上人の跡取りの

良忠上人が下総の福岡というところにおられると聞いて、

訪ねてきたというのです。

その数々の質問に対して良忠上人が答えた記録が『決答綬手印疑問鈔』です。

良忠上人59歳のときのことでした。

その後良忠上人は鎌倉へと向かいます。

『禅勝房』
梶村昇


良忠上人のご生涯⑩(鎌倉から京都へ、そしてご往生)

良忠上人は鎌倉へ向かう途中、先に在阿(ざいあ)さまが訪ねた

道遍(どうへん)さまにお会いします。

道遍(どうへん)さまは法然上人の直弟子です。

法然上人のお言葉やお人柄もお聞きになったことでしょう。

教えに関して、あるいは教団のことなども相談なさったのかもしれません。

良忠上人は鎌倉武士北条朝直(ほうじょうともなお)公が

建立した悟真寺(ごしんじ)に招かれました。

このお寺は後に蓮華寺と名前を変え、

さらに光明寺と寺名を改めて、材木座へと移りました。

それが今の大本山光明寺です。

そこで良忠上人にもたくさんのお弟子がおられました。

中でも良暁(りょうぎょう)上人、性心(しょうしん)上人、

尊観(そんかん)上人、道光(どうこう)上人、

然空(ねんくう)上人、慈心(じしん)上人の六名は

学徳共に勝れ各地で教えを広めました。

然空(ねんくう)上人と慈心(じしん)上人は京都で布教なさっていました。

お二人からの願いに応えて良忠上人は78歳で再び上洛し、

さらには88歳で鎌倉へ帰って来られるのです。

その間にも資料を吟味し講義を重ね、

多くの著述をなされたといいます。

何というバイタリティーでしょうか。

驚くばかりです。

しかしご自身そう先が長くないと感じられたのでしょう。

お弟子の寂恵良暁(じゃくえりょうぎょう)上人に

付法状(ふほうじょう)と九条袈裟(くじょうげさ)、

松蔭の硯(まつかげのすずり)、

法然上人・聖光上人・良忠上人三代にわたって伝わる

『阿弥陀経』一巻を授与されます。

平家物語で平重衡(たいらのしげひら)公が

東大寺を焼き討ちした罪で処刑される前、

法然上人に会い念仏の教えを受けます。

それを喜んだ重衡(しげひら)公より法然上人に贈られたのが「松蔭の硯」です。

それで安心なさったのでしょう。

お弟子の了慧道光(りょうえどうこう)上人の

『然阿上人傳』(ねんなしょうにんでん)には

念仏の音声殊に鮮やかにして声々相い続き、

亥の刻に至りて止み、面容に笑みを含み、禅定に入るが如く、

湛然として逝く。時に世齢八十九、法臘七十四

とあります。

「法臘」(ほうろう)というのは出家してからの年数です。

「お顔に笑みを含んで、心静かに往生された」ということです。

弘安十年(1289)7月6日でありました。

ご遺骨は鎌倉光明寺の天照山にあるお墓に埋葬されています。

                (以上 「良忠上人のご生涯」の項終わる)

『浄土宗史』
浄土宗


参考文献

○『聖光と良忠』梶村昇   

 梶村昇先生は令和2年2月15日満95歳で西方極楽浄土へ往生なさいました。

 かなりの部分を本書に頼りました。

 これまでのご業績に敬意を表し、

 ご教導に感謝を込めて念仏回向いたします。

                      南無阿弥陀仏

○『然阿上人傳』了慧道光

○『近世浄土宗教団の足跡』宇高良哲

○『浄土宗史』成田俊治・伊藤唯真・平祐史

○『勢観房源智』梶村昇

○『勢観房源智上人』「源智上人と阿弥陀仏像造立願文」伊藤唯真



8月前半のことば 「亡き親の しきりに恋し 蝉の声」

 8月前半のことば 「亡き親の しきりに恋し 蝉の声」   若い頃、親の言葉を素直に聞けず、反発ばかりしていた日々はありませんでしたか。進路のことで衝突したり、ささいな注意に声を荒らげたり。  しかし自分が親となり、泣きやまぬ我が子を抱いて途方に暮れる時、かつて自分を包んでいた親...