ラベル 仏教入門 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 仏教入門 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2020年6月27日土曜日

仏教入門①(苦からの解脱)

仏教の目的は「苦からの解脱(げだつ)」です。

「苦」というのは単に「苦しい」というだけの意味ではありません。

「苦」は「思い通りにならない」ということです。

ですから、もしあなたが順風満帆の人生を歩み、

「すべてうまくいっている!満足だ!」と思っておられるのでしたら、

今のあなたに仏教は必要ないでしょう。

世間の価値観に乗ることができていれば、

それはそれでいいのです。

でもそこからはみ出さざるを得ない時に、

「異なる価値観」があると助かると思いませんか?

さして問題なく生きている時には仏教の必要性は感じにくいでしょう。

私(法輪寺住職)も佛教大学へ通う学生時代、

「仏教は苦だとか思い通りにならないとか、

悲観的なことばかり言うから受け入れられないんだ」

と思っていました。

「もっと明るいことを言えばいいのに」

と考えていました。

当時は取り立てて悩みもなく、

比較的思い通りになっている、と感じていたのかもしれません。

また、世の中がバブル景気で浮かれていたので、

「苦からの解脱」などと言うことを野暮に感じていたのでしょう。

世間の価値観は「強い」をヨシとし、「弱い」はダメ。

「勝ち」はよくて「負け」はダメ。

「成功」がよくて「失敗」はダメ。

「上位」がよくて「下位」はダメ。

「富」がよくて「貧」はダメ。

「美」がよくて「醜」はダメ。

「健康」がよくて「病」はダメ。

「若さ」がよくて「老い」はダメ。

「生きる」がよくて「死ぬ」がダメ。

このような二項対立の価値観を挙げればキリがありません。

多かれ少なかれこのような価値観を

生まれたときからずっと擦り込まれて、

大人になればすっかりそれが私の一部となっています。

『ブッダとは誰か』
吹田隆道


2020年6月26日金曜日

仏教入門②(壊れゆくもの)

「年を経るに従って元気になり、健康になり、

若くなり、ずっと勝ち続ける」ことができるならば、

世間の価値観のままに生きることができるでしょう。

「勝ち組」の方に居続けることができればよいですが、

そうはいきません。

「思い通りにならない」ことを避けて

一生を過ごすことは、まずできません。

幼い頃は「大きくなったらこうなりたい!」という夢や

目標を持って日々を過ごすことができるかもしれません。

それがある程度の年齢になると、

その夢や目標は自分の現実に合わせてサイズダウンしていくでしょう。

そして成長のピークを過ぎていくと、目の前の雑事に追われ、

夢も目標も持てなくなるかもしれません。

そして老いてゆき「生きていても楽しみも何もない」

と言う人のなんと多いことでしょう。

私たちの人生には必ず「思い通りにならないときがくる」

と言わざるを得ないのです。

世間の価値観とは何と残酷なものでしょうか。

世間の価値観だけを頼りに生きていると、

必ず壁にぶつかることになるでしょう。

「世間」というのは実は仏教用語で、

壊れゆくもの」という意味です。

私たちは「壊れゆくもの」にしがみつき、

壊れゆく現実に直面したときに、生きがいを失うのです。

世間の価値観、すなわち「壊れゆくもの」にだけ依存していると、

いつか必ず絶望せざるを得ない時がやってきます。

仏教は世間の価値観以外にもう一つの価値観を提示します。

出世間」です。

「世間から出る」という価値観です。

世間の価値観を捨て去ることは難しいでしょう。

でも「もう一つの価値観」を持っていれば、

つまずいた時の杖になることでしょう。

このブログがその第一歩を踏み出すためのきっかけになれば幸いです。

『ブッダが考えたこと』
宮元啓一


2020年6月25日木曜日

仏教入門③(四苦〈生苦・老苦〉)

お釈迦さまが説かれた仏教の教えは

「人生には悩み・苦しみがともなうものなのだ」

ということをそのまま受け入れる、というところから始まります。

お釈迦さまは私たちが人生において必ず出会う

「思い通りにならないもの」をお示しくださいました。

まずは「生・老・病・死」の「四苦」です。

生苦」は「生まれてくる苦しみ」です。

全く憶えていませんが、産道を通ってくる時は

相当な苦しみを味わうそうです。

赤ん坊の頭蓋骨は柔らかいので、

変形しながら何とか産道を通ってきますが、

その苦しみは相当なものだといいます。

私の長男がまだお腹の中にいるとき、産婦人科の先生が

「お腹の中からも声は聞こえているようです。

1歳半ぐらいになって、突然お腹の中でどう聞こえていたか、

どう思っていたか、などを話す子が稀にいるんですよ」

とおっしゃっていました。

殆どの子は生まれるときに忘れてしまうのだそうです。

真偽のほどはわかりませんが、興味深い話です。

お釈迦さまが前世の記憶を失わなかったのは、

お母さまマーヤさまの右脇から生まれたからだという説明もあります。

面白いですね。


仏教では、あらゆる生きものは死を迎えたら

次にまた生まれ変わるといいます。

生きている間に経験した色々なこと、学習が

生まれ変わった先に生かすことができればいいのですが、

そうはいきません。

生まれ変わって産道を通る時に、あまりに苦しすぎて、

すべて忘れてしまうのだそうです。

だから次に生まれ変わった先で経験を生かすこともできず、

愛する人と再会しても、再会を喜び合うこともできないのです。

老苦」は文字通り「老いていく苦しみ」です。

子供の頃は「大きくなったらプロ野球選手になろう!」

などと夢を見るかもしれません。

だんだん背が伸び、色んなことを覚え、

力がつき、成長していきます。

その成長が一生ずっと続けば老いの苦しみはないのでしょうが、

ある時期がきたら成長は止まります。

若さや体力を維持しようと努力をすれば、

ある程度は老いのスピードを落とすことができるようです。

しかし決して止めることはできません。

それを「もう40歳になってしまった。僕もおじさんだ」

と嘆いたり、あるいは

「アンチエイジングよ!いつまでも若くいましょうよ!」

と自他を鼓舞しても、必ずその戦いはいつか敗北を迎えます。

思い通りにはならないのです。

『ブッダのことば』
宮元啓一


2020年6月24日水曜日

仏教入門④(四苦〈病苦・死苦〉)

病苦」は「病の苦しみ」です。

誰も病気になりたい人はいないのに、

生きていればいつか病気になる時もやってきます。

しかし実際に病気になると肉体的な苦しみはもちろんのこと、

精神的にも苦しい思いが溢れます。

「なぜ私だけがこんな目に遭うの?」

「このままずっと治らないの?」

「何であの時に気づかなかったのだろう?」

不安・後悔・怒り。

さまざまなネガティブな感情がわき起こってきます。

「病気のない人生」であって欲しいですが、

それが思い通りにならないのです。

そして究極は「死苦」です。

浄土宗第二祖聖光上人は

八万の法門は死の一字を説く」とおっしゃっています。

「八万の法門」というのは「お釈迦さまが説かれたすべての教え」

という意味、つまり「仏法」です。

仏法は死を説いているのだ」ということです。

生きていれば必ず死を迎えるということは誰でも知っていますが、

それを自分のこととして受け入れることは人生最大の難問です。

死にたくなくてもいつかは死に至りますし、

逆に「もういい」と思っていても寿命はコントロールできません。

「死をコントロールできるならいつがいいか?」などと考えると、

「子どもが学校を卒業するまで」と思うかもしれません。

しかしよく考えると「子どもが自立するまで」

「家庭をもつまで」「孫の顔を見るまで」「孫が成人するまで」

と区切りがつかなくなることもあるでしょう。

そしてその時点が来たらパッと覚悟できるかというと、どうでしょうか。

そしてそんな妄想自体がナンセンスで、やはり思い通りにはなりません。

『仏教思想のゼロポイント』
魚川祐司


2020年6月23日火曜日

仏教入門⑤(八苦)

「生・老・病・死(しょう・ろう・びょう・し)」の四苦に、

愛別離苦(あいべつりく)・怨憎会苦(おんぞうえく)・

求不得苦(ぐふとっく)・五取蘊苦(ごしゅうんく)

を加えた八つの苦を「八苦」といいます。

「四苦」と「八苦」が別々にあるのではなく、

「四苦」にあとの四つを加えて「八苦」なのです。

一般に「四苦八苦する」というのはここからきています。

愛別離苦(あいべつりく)」は愛する人と

別れなくてはならない苦しみです。

生き別れ、死に別れ、そして愛する人が去るのか自分が去るのか。

必ずその時はやってきます。

「自分が去る方がいい」と思うかもしれません。

しかしそれもわかりません。

愛する人と別れたい人などあろうはずはありません。

誰一人そんなことを望む人はありません。

しかし避けられない苦しみであり、

自分自身の「老病死」以上に苦しいと感じる人は多くいます。

怨憎会苦(おんぞうえく)」は

「会いたくないような憎い人と会わなくてはならない苦しみ」

つまり人間関係の苦しみです。

成人の悩みの殆どは人間関係だと言われています。

多くの人が大なり小なり人間関係に苦しめられています。

いじめ、パワハラ、派閥やグループ同士の争いなど

枚挙にいとまがありません。

生きている中で人間関係に悩んだことのない人はいないでしょう。

そしてその苦しみは「死苦」を超える場合もあります。

求不得苦(ぐふとっく)」は「求めても得られない苦しみ」です。

 「人気者になりたい」「あの大学に行きたい」

「あの子とお付き合いしたい」「お金持ちになりたい」

「芸能人になりたい」

目標をもって努力するのにはいいですが、思い通りにならないときに、

やはり苦しみを味わいます。

「なぜこんな貧しい家に生まれてきたのか。

金持ちの家に生まれたらよかったのに」

社会の不公平を是正する努力をしていく必要はあります。

しかし「求めても得られないもの」

を苦しみとするのは自分の問題です。

五取蘊苦(ごしゅうんく)」は「五蘊盛苦(ごうんじょうく)」

「五陰盛苦(ごおんじょうく)」「五盛陰苦(ごじょうおんく)」

といわれる場合もあります。

五取蘊」とは「色受想行識(しきじゅそうぎょうしき)」の五つで、

要するに「自分の身体を含むあらゆる物と心」です。

この「物と心」に執着して私たちは

自分を苦しめているというのです。

「五取蘊苦」以外の七苦はみんな「自分の身体や心」

「他者の身体や心」「あらゆる物」に関わるものです。

それらの七苦を「自分の心と身体が受け止めないといけない苦しみ」

とも言えます。

生老病死の直接的な苦しみ以外に、

それが受け入れられない苦しみがあります。

愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦そのものの苦しみは

それだけで大きいものですが、それ以外にも

その事実を受け入れられずに長く苦しむ、

という現実があります。

これらは「五取蘊苦(ごしゅうんく)」の範疇です。

さらには七苦に含まれない苦しみ、たとえば

「電車で足を踏まれて痛い」とか、

「仕事に行きたくないなあ」

「何かわからないけれど将来が不安だなあ」

「誰かに悪口を言われているような気がする」etc.

そういう私たちが日常的に感じるあらゆる苦しみを

網羅するのが「五取蘊苦(ごしゅうんく)」です。

だから「五取蘊苦」は「八苦の総括」であるといいます。

つまり「五取蘊苦」こそが「生きる苦しみ」なのです。

『ブッダが説いたこと』
ワールポラ・ラーフラ


2020年6月22日月曜日

仏教入門⑥(四聖諦)

お釈迦さまはこれらの「思い通りにならないものがある」

ということを「まず認める」ようお勧めくださっています。

お釈迦さまが覚りを開かれた後、深い瞑想に入り、

人々に教えを伝える決意をされます。

そしてサールナートというところで、

かつて一緒に修行した五人の修行者に対して最初の説法をなさいます。

これを「初転法輪」といいます。

以前「お釈迦さまのご生涯」の際にこの話に触れました。



「四聖諦」は「苦しみから逃れるためのすべ」

を四段階にして説いてくださったものです。

その第一段階が

思い通りにならないことがあるということを認める

という段階です。

私たちはその思い通りにならないことを

「思い通りにしたい」と思うけれど、

結局それが思い通りにならないことを苦しく感じるのです。

それをまず「思い通りにならないことがある」

と認めることから始まるのです。

『出家とはなにか』
佐々木閑


2020年6月21日日曜日

仏教入門⑦(集諦)

次は第二段階です。

思い通りにならないことを思い通りにしようとして

苦しむのには原因がある

ということを明らかにしてくださっています。

その原因を「煩悩(ぼんのう)」といいます。

求めても求めてもいつまでも渇いていて、

ちっとも満たされない心

なので「渇愛(かつあい)」ともいいます。

たとえば、「ずっと生きたい」「ずっと健康でいたい」

「ずっと若いままでいたい」と願う心や

必要以上の食欲、性欲、睡眠欲、怠け心、快楽を求める心、

自分の存在を認めて欲しい!という「承認欲求」、

相手を思い通りにしたい!という「征服欲」、

人から尊敬されたい!という「名誉欲」などなど。

いわゆる「欲望」をひっくるめて「煩悩」というのです。

つまり「私たちの苦しみの原因は私たち自身の心にある

ということです。

普通私たちはイヤなことが起こったときに、

「会社のせい」「イヤな上司のせい」「できそこないの部下のせい」

「先生のせい」「親のせい」「配偶者のせい」

「嫌いなあいつのせい」「政治のせい」「天気のせい」

「ウイルスのせい」と責任の所在を他者に求めます。

しかし仏教では

「苦しみの原因は外にはないよ。自分の心にあるのだよ」

と教えてくれています。

もちろん人間関係や政治構造によって

苦しめられていることもあります。

それはそれで改善に動く必要があります。

パワハラ上司の下でずっと「悪いのは私の心」

と自分に言い聞かせても根本的な対処にはなりません。

転職するとか訴える等の処置が必要でしょう。

逃げることも逆らうことも訴えることもできずに

身体や言葉の暴力に耐えている優しい人たちが

搾取されてしまいます。

それを「自分が悪いのだ」と我慢せよ、

ということではありません。

そういったことには対処する必要があります。

しかしそれを感情的に「苦しい」

と認識するのは私の心です。

その原因は、求めても求めてもいつまでも渇いていて、

ちっとも満たされない心

「渇愛(かつあい)」があるというのです。

現実の法則にに反して、そうでないものを求めるのでは、

思い通りになろうはずはありません。

冷静に考えればわかることですが、

感情的に認められないのです。

「なぜ自分ばかりがこんな目にあうのだろう」

といくら考えて悩みのスパイラルに陥ってしまいます。

『なぜ悟りを目指すべきなのか』
アルボムッレ・スマナサーラ


2020年6月20日土曜日

仏教入門⑧(滅諦)

この「煩悩」によってどうにもならないもの

をどうにかしようとし、

結果どうにもならないから苦しむという

悪循環が繰り返されるというわけです。

ですから「苦」を止めるにはこの「煩悩」を止める必要があります。

それが第三段階です。

つまり「煩悩」の心を滅すれば「苦」も滅することができる

ということです。

先日こんなことがありました。

スーパーで買い物をしていたときです。

みんなマスクをして一定の距離を置いてレジに並んでいました。

すると隣のレジに並んでいる帽子をかぶった男の人が

ジロジロと見てきます。

最初は気のせいかと思っていたのですが、

しばらく経っても見てきます。

「感じ悪いなあ」とイヤな気持ちになりました。

レジで精算を済まして買った物を袋に詰めていると、

さきほどの人が

「やっぱり法輪寺のおっさん(和尚さんのこと)でしたな!」

と話しかけてきました。

その方はお檀家さんでした。

「私目が悪いし、みんなマスクしているのでわからないんですよ。

おっさんに似てるけど違うかな?どうかな?

と気になってずっと見てました」

とおっしゃいます。

私はジロジロ見てくる人に気分を害しながらも、

その人が知り合いとも思わずあまり見ないようにしていました。

マスクをして帽子をかぶっておられたので全くわかりませんでした。

わからないので、「ジロジロ見てくるなあ」「失礼な」「イヤだなあ」

というネガティブな心を起こしてしまいました。

最初からその方だとわかっていたら、

気持ちよくご挨拶していたところでしょう。

原因がわかればネガティブな心を起こすことはなかったのです。

それと同じく苦しみの原因である「煩悩」を滅すれば

苦しみも滅するということなのです。

『どうせ死ぬのになぜ生きるのか』
名越康文


2020年6月19日金曜日

仏教入門⑨(道諦)

第四段階は「煩悩を滅する方法がある」ということです。

それが様々な仏道修行です。

仏教には八万四千(はちまんしせん)の法門、といわれるように、

たくさんの教えがあります。

その多くは瞑想修行で、非常に理に適っています。

思い通りにならないものをそのまま見よ、と説く教えがあります。

判断するのではなしに、そのままを見よ、というのです。

私たちはついつい、ジロジロ見てくる人に嫌悪感を持ちます。

でも「ジロジロ見てくる人」は「ジロジロ見てくる人」

と受け取ればいいということです。

それに「なんでジロジロ見てくるの?!気持ち悪い!」

と嫌ったり、「あの人私に何か文句があるのだろうか?!」

と不安に思ってしまう、その必要はないというのです。

勝手に嫌悪感を持ったり不安に思って、

自分で自分を苦しめているのが私たちです。

しかしそんな必要はありません。

今ある状況をありのままに見ることによって、

余計な悩みを増やさずにすむのです。

私自身はこのような仏教の考え方でずいぶん救われました。

かつて「なぜ僕はこんなにツイてないんだろう」

「今日もイヤなことがあるのかな」

と不安にかられることが多い時期がありました。

でもこの仏教の考え方のおかげで、かなり改善されました。

いかに何てことはないことに自分は悩まされていたのだろう、

と思います。

『ブッダの処世術』
平岡聡


2020年6月18日木曜日

仏教入門⑩(別のアプローチ)

「そうか、自分で自分を苦しめているのか。

では見方を変えよう」「ものごとを正面から見すえるのだ」

と考え方を改善すればもうすべて解決できたか?

というと、とてもそんなことは言えません。

本当に煩悩を滅し尽くすことができれば、

あらゆる悩みも苦しみからも解放されるのでしょう。

でもそこには到底たどり着けない自分がいます。

もし不治の病にかかる、パワハラやいじめ、

愛する人を亡くすなどの強烈な出来事が我が身に降りかかったら、

「そのままを正面からみる」とは

言っていられないであろう自分がいます。

私は今まで僧侶として、辛い経験をされた方と多く出会いました。

「愛する人を亡くす」という身を切り裂かれるような、

誰もしたくない経験をされる方がたくさんおられます。

その方々は5年、10年、20年と長きにわたって苦しまれます。

私が若い頃は「もう立ち直ってもよさそうなのに」

などと無責任に考えたこともありました。

しかし、何人もの方が同じように長い時間苦しまれる姿を見て、

「愛する人を亡くしたら、みんなこんなに苦しむのだ」

ということに遅ればせながら気づきました。

自分はその体験がないけれど、

同じことが我が身に降りかかった時には

自分もきっと同じように苦しむことでしょう。

体験していない者が安易に「こうすれば?」「こう考えたらどう?」

「早く忘れようよ」などということが

どれだけその人を傷つけることでしょう。

そうは言うものの、目の前に苦しむ人がいると

ついつい安易なアドバイスをしてしまう自分がいます。

これも何度も失敗し、今現在も愚かしく

その繰り返しをしています。

今までお伝えしてきた仏教の根本的な教えは非常に有益です。

それを冷静に受け止めることができる人は受け止め、

是非実践していってください。

しかしその実践も覚束ない、実践しようとしても

目の前の苦しみに苛まれてしまうことが私たちにはあります。

そんな私たちのためにお釈迦さまは

多くの教えを説いてくださっています。

日本の宗派には三論・法相・華厳・律・成実・倶舎の南都六宗、

天台宗、真言宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗、

浄土宗、浄土真宗、時宗、黄檗宗等々たくさんあります。

同じ仏教でありながら、行う修行方法は全く異なります。

曹洞宗は「ひたすら座る」といいますし、

浄土宗は「ただ念仏を称える」と説きます。

することが全く違うのにどちらも仏教です。

瞑想等の修行で煩悩を滅することができる人ばかりならいいけれど、

そうはいきません。

そのような

「自分で自分の苦しみに気づき、その原因である煩悩を断てばよい」

と知ってもそれができない者のために

お釈迦さまは念仏の教えを説かれました。

「信じて称える」という全く別の角度からのアプローチです。

自分の無力さを自覚して、「救ってくれる仏がいる」と知り、

「ただ念仏を称えれば救われる」という教えです。

自分で煩悩を断つことができなくても、

「信じて称える」ことならできる、という人は大勢います。

逆に「信じることができない」という人も大勢おられるでしょう。

その多様な人々のためにお釈迦さまは多くの教えを説かれたのです。

『反応しない練習』
草薙龍瞬


2020年6月17日水曜日

仏教入門⑪(ブックガイド)

この先には「瞑想とは異なるアプローチ」として

「浄土宗の教え」をお伝えします。

ただ、瞑想を軸にした仏教は大変素晴らしい智慧を授けてくれますので、

もっと学びたい方のために今回は「浄土宗の教え以外の」

いくつかの書籍をご紹介いたしまして、この項を閉じることにします。

経典
○『ブッダのことば』中村元訳
○『ブッダ最後の旅』中村元訳
○『ブッダの真理のことば・感興のことば』中村元訳
○『ブッダ神々との対話』中村元訳
○『ブッダ悪魔との対話』中村元訳


釈尊伝
○『ゴータマ・ブッダⅠ』中村元選集第11巻
○『ゴータマ・ブッダⅡ』中村元選集第12巻
○『ブッダ物語』中村元・田辺和子
○『新釈尊伝』渡辺照宏
○『釈尊をめぐる女性たち』渡辺照宏
○『仏教の源流-インド』長尾雅人
○『ブッダ・ゴータマの弟子たち』増谷文雄
○『ゴータマは、いかにしてブッダとなったのか』佐々木閑


その他
○『出家とはなにか』佐々木閑
○『「律」に学ぶ生き方の智慧』佐々木閑
○『日々是修行』佐々木閑
○『ごまかさない仏教』佐々木閑・宮崎哲弥
○『ブッダが考えたこと』宮元啓一
○『仏教誕生』宮元啓一
○『ブッダのことば』宮元啓一
○『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
○『ブッダとは誰か』吹田隆道
○『ブッダの処世術』平岡聡
○『どうせ死ぬのになぜ生きるのか』名越康文
○『苦の探求』蜂屋賢喜代
○『仏教思想のゼロポイント』魚川祐司
○『感じて、ゆるす仏教』藤田一照・魚川祐司
○『反応しない練習』草薙龍瞬
○『ANGER 怒り』ティク・ナット・ハン
○『FEAR 恐れ』ティク・ナット・ハン
○『なぜ悟りを目指すべきなのか』アルボムッレ・スマナサーラ
○『ブッダの小ばなし』釈徹宗・多田修


瞑想
○『ブッダの〈気づき〉の瞑想』ティク・ナット・ハン
○『ブッダの〈呼吸〉の瞑想』ティク・ナット・ハン
○『ブッダの〈今を生きる〉瞑想』ティク・ナット・ハン
○『ブッダ「愛」の瞑想』ティク・ナット・ハン
○『ブッダの智慧』アルボムッレ・スマナサーラ
○『瞑想入門』山下良道

                 仏教入門の項終わる


『怒り 心の炎の静め方』
ティク・ナット・ハン




9月後半のことば

 9月後半のことば 「多様性 仏の目には 皆凡夫」   近ごろ「多様性」という言葉を耳にしない日はありません。会議でも学校でも、街頭のポスターにすら踊っています。確かに、人は千人いれば千人、百人いれば百人、異なる価値観や性格を持っている。それは事実です。しかし、だからといってその...