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2021年6月10日木曜日

仏説阿弥陀経①

 釈尊が説かれた多くの経典の中で、


浄土宗は『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の


三経典を所依(しょえ)の経典として大切にします。


この三経典を法然上人は


『浄土三部経』と名づけられました。


これらの概要は先にこのブログ内で上げています。



「浄土宗の教え第1部 浄土三部経」

https://hourinji.blogspot.com/search/label/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E5%AE%97%E3%81%AE%E6%95%99%E3%81%88%20%E7%AC%AC%EF%BC%91%E9%83%A8%20%E6%B5%84%E5%9C%9F%E4%B8%89%E9%83%A8%E7%B5%8C




私たち浄土宗の者にとっては、


浄土三部経の『無量寿経』の中の「四誓偈(しせいげ)」、


『観無量寿経』の中の「真身観文(しんじんがんもん)」、


そして『阿弥陀経』は特になじみ深いお経だといえるでしょう。


法輪寺のお経本には、上記のお経に加えて


『観無量寿経』の中の「下品下生」以降も収めています。


各お経につきましては、すでに上げましたので、


ご参照ください。



「四誓偈」

https://hourinji.blogspot.com/search/label/%E5%9B%9B%E8%AA%93%E5%81%88%EF%BC%88%E3%81%97%E3%81%9B%E3%81%84%E3%81%92%EF%BC%89




「真身観文」

https://hourinji.blogspot.com/search/label/%E7%9C%9F%E8%BA%AB%E8%A6%B3%E6%96%87%EF%BC%88%E3%81%97%E3%82%93%E3%81%98%E3%82%93%E3%81%8C%E3%82%93%E3%82%82%E3%82%93%EF%BC%89



「下品下生」

https://hourinji.blogspot.com/search/label/%E4%B8%8B%E5%93%81%E4%B8%8B%E7%94%9F%EF%BC%88%E3%81%92%E3%81%BB%E3%82%93%E3%81%92%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%86%EF%BC%89


2021年6月9日水曜日

仏説阿弥陀経②

 『阿弥陀経』には極楽浄土の様子がありありと


描かれています。


ですから、『阿弥陀経』を読むと、


「先に極楽へ往かれたあの人はこんな世界に


おられるのだなあ」と思いを馳せることができます。


『阿弥陀経』の後半は、あらゆるところにおられる


仏さまが、こぞって阿弥陀さまを賞賛し、


念仏者を護ってくださると説かれています。


『阿弥陀経』は、釈尊が「極楽はこのような世界で、


そこに阿弥陀仏という仏がおられ、極楽の人々は


このようなことをされている」


と説かれる形式をとっています。


つまり釈尊が極楽や阿弥陀仏を


紹介してくださっているのです。


お経は通常、お弟子のどなたかが


釈尊に教えを請い、釈尊が語り始める


という形になっているものが多いのですが、


『阿弥陀経』は、誰に請われるわけでもなく、


釈尊が多くのお弟子の前で自ら語り始める、


という非常に珍しい形のお経です。


この形式を「無問自説(むもんじせつ)」といいます。


釈尊自ら「この法を伝えたい!」と思われて、


お弟子の中の長老である舎利弗(しゃりほつ)さまを


名指し、「舎利弗よ」と繰り返し語りかけられるのです。


それでは次回から本文をご紹介してまいります。


2021年6月8日火曜日

仏説阿弥陀経③

 (本文)


かくの如きを我聞きき。






(現代語訳)


このようなことを、私阿難(あなん)は聞きました。






(解説)


釈尊の時代のインドでは、


教えを文字にすることなく、


口から口へと伝えていました。


ですから釈尊の著書はありません。


釈尊が涅槃(ねはん)に入られた後、


お弟子が集まって、教えをまとめました。


お弟子の中で、釈尊の側で身の回りのお世話を


長年されてきた、阿難尊者(あなんそんじゃ)は


「教えを最も多く聞いてきた人」として


「多聞第一(たもんだいいち)」と認められていました。


そこで阿難尊者が「私はこう聞きました」と


教えを言葉にし、皆がそれを認めたならば、


その言葉を復唱して、釈尊の教えを確認しました。


ですからお経の冒頭には


阿難尊者が「私はこのように聞きました」


という意味の「如是我聞(にょぜがもん)」という言葉や


「釈尊は阿難にこうおっしゃいました」


「仏告阿難(ぶつごうあなん)」という言葉が多いのです。


2021年6月7日月曜日

仏説阿弥陀経④

 (本文)


一時、仏、舎衛国(しゃえいこく)の


祇樹給孤独園(ぎじゅぎっこどくおん)に


在(ましま)して、大比丘衆(だいびくしゅ)


千二百五十人と倶(とも)なりき。


皆是れ大阿羅漢(だいあらかん)なり。


衆(しゅう)に知識せられたり。






(現代語訳)


ある時釈尊は、舎衛国(しゃえいこく)の


祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)におられて、


千二百五十人もの修行僧と一緒に過ごしておられた。


彼らはみんな偉大な阿羅漢(あらかん)の


境地に達しておられ、


人々に広く知られている。


※阿羅漢(あらかん)

 聖者が到達しうる最高位。






(解説)


釈尊ご在世の当時、インドでは舎衛国という


大都市がありました。


そこにスダッタという長者がいて、


仏教教団に土地を寄進しました。


その場所を「祇樹給孤独園(ぎじゅぎっこどくおん)」


といい、略して「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)」


と呼ばれています。


『阿弥陀経』は釈尊が祇園精舎において、


千二百五十人ものお弟子の前で説法された


内容が説き示されています。


千二百五十人のお弟子は、


初学者ではなく、「阿羅漢(あらかん)」という


覚りの境地に達した方々ばかりであったというのです。


2021年6月6日日曜日

仏説阿弥陀経⑤

 (本文)


長老舎利弗(ちょうろうしゃりほつ)、


摩訶目犍連(まかもっけんれん)、


摩訶迦葉(まかかしょう)、


摩訶迦旃延(まかかせんねん)、


摩訶倶絺羅(まかくちら)、


離婆多(りはだ)、周利槃陀伽(しゅりはんだか)、


難陀(なんだ)、阿難陀(あなんだ)、


羅睺羅(らごら)、憍梵波提(きょうぼんはだい)、


賓頭盧頗羅堕(びんづるはらだ)、


迦留陀夷(かるだい)、


摩訶劫賓那(まかこうひんな)、


薄拘羅(はくら)、阿㝹楼駄(あぬるだ)、


かくの如きらの諸もろの大弟子なり。




(現代語訳)


長老の舎利弗(しゃりほつ)はじめ、


摩訶目犍連(まかもっけんれん)、


摩訶迦葉(まかかしょう)、


摩訶迦旃延(まかかせんねん)、


摩訶倶絺羅(まかくちら)、


離婆多(りはだ)、周利槃陀伽(しゅりはんだか)、


難陀(なんだ)、阿難陀(あなんだ)、


羅睺羅(らごら)、憍梵波提(きょうぼんはだい)、


賓頭盧頗羅堕(びんづるはらだ)、


迦留陀夷(かるだい)、


摩訶劫賓那(まかこうひんな)、


薄拘羅(はくら)、阿㝹楼駄(あぬるだ)


などの多くのお弟子たちである。






(解説)


「長老」というのは、


お年寄りという意味ではありません。


修行僧の尊称であり、徳が高く出家年数の


長い僧侶のことをいいます。


本来僧侶の間には上下がありません。


ただ、集団生活をするときに順序をその都度


決めるのは非効率なので、


一定に決めておく必要があります。


そこで仏教では「出家年数の長さ」を基準にしました。


僅かな時差でも先に出家した者が序列は上になるのです。


ここに出てくる十六人の阿羅漢は、


千二百五十人のお弟子の中でも


出家年数が長い長老ばかりです。


舎利弗尊者(しゃりほつそんじゃ)は智慧第一、


目連尊者(もくれんそんじゃ)は神通第一と、


釈尊も彼らの徳を認めておられました。


2021年6月5日土曜日

仏説阿弥陀経⑥

 (本文)


ならびに諸もろの菩薩摩訶薩(ぼさつまかさつ)あり。


文殊師利法王子(もんじゅしりほうおうじ)、


阿逸多菩薩(あいったぼさつ)、


乾陀訶提菩薩(けんだかだいぼさつ)、


常精進菩薩(じょうしょうじんぼさつ)、


かくの如きらの諸もろの大菩薩、


及び釈提桓因等(しゃくだいかんにんとう)の


無量の諸天(しょてん)大衆(だいしゅ)と


倶(とも)なりき。




(現代語訳)


さらに多くの菩薩たちがおられた。


文殊師利法王子(もんじゅしりほうおうじ)、


阿逸多菩薩(あいったぼさつ)、


乾陀訶提菩薩(けんだかだいぼさつ)、


常精進菩薩(じょうしょうじんぼさつ)などの


菩薩たちがおられ、そして帝釈天などの


数え切れないほど多くの神々とも


ご一緒であった。






(解説)


阿羅漢(あらかん)の他に、


多くの菩薩(ぼさつ)や天の神々が


そこに列席して、釈尊の言葉に耳を傾けておられました。


菩薩(ぼさつ)とは、自らの覚りを目指すと共に


人々を救おうとする方です。


2021年6月4日金曜日

仏説阿弥陀経⑦

 (原文)


その時、仏、長老舎利弗(ちょうろうしゃりほつ)に


告げたまわく。


これより西方、十万億の仏土を過ぎて世界有り。


名づけて極楽という。


その土に仏まします、阿弥陀と号したてまつる。


いま現に在(ましま)して説法したまう。






(現代語訳)


その時、釈尊は長老の舎利弗(しゃりほつ)に


このようにおっしゃいました。


「ここから西へ十万億もの仏の国を


過ぎたところに一つの世界がある。


その世界を極楽という。


その国に仏がおられて、


その名を阿弥陀とおっしゃいます。


阿弥陀仏は、今現在も極楽におられて


説法されています」






(解説)


釈尊は、たくさんおられるお弟子の中を


代表して、舎利弗尊者(しゃりほつそんじゃ)を


対話の相手として説法を始められました。


遙か西の彼方に極楽浄土という世界が実在し、


そこに阿弥陀仏という仏さまがおられ、


今現在も人々を救うために説法教化


されていることが釈尊によってここに明かされます。


阿弥陀仏は、「過去におられた仏」ではなく


今現在も極楽におられることが、わかります。

2021年6月3日木曜日

仏説阿弥陀経⑧

(本文)


舎利弗(しゃりほつ)、


彼の土(ど)を何が故ぞ、


名づけて極楽とする。


その国の衆生、もろもろの苦あることなく、


ただ諸もろの楽(らく)のみを受く、


故に極楽と名づく。






(現代語訳)


〈釈尊から舎利弗(しゃりほつ)に向けてのお言葉のつづき〉


「その国をなぜ極楽と名づけるのだろうか。


その国の人々は、あらゆる苦しみがなく、


ただ様々な楽だけを受けている。


だから極楽と名づけるのである」






(解説)


ここに「極楽」と名づけられた理由が示されています。


「極楽」とは苦しみがなく、楽だけを享受するから


極楽と名づけた、というのです。


私たちの楽しみは、掴んでは消える、


まるで霞のようなものばかりです。


「今が幸せ」という「今」が永遠に続くことは


あり得ません。


「家族がみんな仲良く健康でいるのが一番」と


言いますが、それは決してささやかな望みではなく、


達成することが不可能な望みなのです。


そのような「望みの叶わない世界」に生まれては、


年老いてゆき、生きていればいつか必ず病になり、


必ず死を迎えます。


「若くい続けたい」という望みは叶いません。


「ずっと健康でいたい」という望みも、


生きている限り必ず失われます。


「愛する人とずっと一緒にいるだけでいい」という


望みは、残酷なことに必ずいつか絶たれてしまうのです。


離れがたい最愛の人とも必ずいつか別れる日がきます。


人間関係に苦しみ悩むことも度々あります。


思いもかけず天災に見舞われ、路頭に迷うことも


あるかもしれません。


ちっとも思い通りにならない人生です。


生きていくということは大変なことです。


その「あらゆる苦しみ、悩み、痛み」がなく、


「もろもろの楽」だけを受ける世界が


「極楽浄土」なのです。


2021年6月2日水曜日

仏説阿弥陀経⑨

 (本文)


また舎利弗(しゃりほつ)、


極楽国土には七重の欄楯(らんじゅん)・


七重の羅網(らもう)・


七重の行樹(ごうじゅ)あり。


皆これ四宝(しほう)をもて、


周匝(しゅそう)し囲繞(いにょう)せり。


この故にかの国を名づけて極楽という。






(現代語訳)


〈釈尊から舎利弗(しゃりほつ)に向けてのお言葉のつづき〉




「また舎利弗よ、極楽には七重に囲む垣根、


七重に覆う宝の網、七重の並木がある。


それらはみな金・銀・青玉・水晶の


四つの宝でできていて、


国の周りを囲んでいる。


(そんな美しい国であるから)


極楽と名づけるのである」





(解説)


「極楽」が「あらゆる苦しみがなく、楽だけを受ける世界」


だとしても、もし「美味しい料理を食べたいだけ食べ、


一日中お酒を飲み、海岸で寝そべって過ごす」というような


快楽の極みの世界であろうはずはありません。


私たちの欲望は限りがなく、望みが叶っても


満足することはありません。


人が羨む贅沢を手に入れた人が「空しさを感じる」と


おっしゃるのを聞いたことがあります。


ですから極楽の「楽」はそういうものではありません。


「覚りの楽」なのです。


しかし、私たち凡夫には覚りの世界は理解できません。


それでも阿弥陀仏も釈尊も、


「何とか苦しむ凡夫を導いてやりたい」


と願ってくださいました。


そして釈尊は「凡夫にわかるような表現」を用いて


極楽の美しさを表現して「こんな素晴らしい世界だから


目指して来いよ」とお導きくださっているのです。


きらびやかな宝石でちりばめられた、


美しい国だからそこに憧れを持ち、


「往きたい」と素直に願うことが、


仏さまのお慈悲に報いることになるのです。


2021年5月31日月曜日

仏説阿弥陀経⑩

 (本文)


また舎利弗(しゃりほつ)、


極楽国土には七宝(しっぽう)の池あり。


八功徳水(はっくどくすい)その中に充満せり。


池の底には純(もっぱ)ら


金沙(こんしゃ)をもって


地(じ)に布(し)けり。






(現代語訳)


〈釈尊から舎利弗(しゃりほつ)に向けてのお言葉のつづき〉


「また舎利弗(しゃりほつ)よ、


極楽には七宝(しっぽう)からできた池がある。


その池は、八功徳水(はっくどくすい)で


満たされている。


池の底には金の砂が敷き詰められている」



※七宝(しっぽう)

 七種類の宝玉。すなわち①金(こん)・

 ②銀(ごん)③瑠璃(るり)④頗瓈(はり)(水晶)・

 ⑤硨磲(しゃこ)・⑥赤珠(しゃくしゅ)(赤真珠)・

 ⑦瑪瑙(めのう)の七つの宝のこと。


※八功徳水(はっくどくすい)

 八種のすぐれた功徳を具えた水。

 ①清らかで澄んでいる②臭みがない

 ③軽い④冷たい⑤軟らかい⑥美しい

 ⑦飲みたい時に飲める

 ⑧飲み終わった後に体調を崩すことがない

 という八種の功徳。





(解説)


日本は水が非常に清潔かつ安価ですが、


他国では綺麗な水を手に入れるのが


困難なところも多いといいます。


水がないと生き物は生きていくことができません。


水があっても、それが不潔ですと、


病気にかかりますし、疫病が広がってしまいます。


極楽の池にある水は清潔で冷たく美味しく、


飲んで病気にかかることもないのです。


2021年5月30日日曜日

仏説阿弥陀経⑪

 (本文)


四辺(しへん)に階道(かいどう)あり。


金(こん)・銀(ごん)・瑠璃(るり)・


玻璃(はり)をもって合成(ごうじょう)せり。


上(ほとり)に楼閣(ろうかく)有り。


また金(こん)・銀(ごん)・瑠璃(るり)・


玻璃(はり)・硨磲(しゃこ)・


赤珠(しゃくしゅ)・碼碯(めのう)をもって、


しかもこれを厳飾(ごんじき)せり。






(現代語訳)


〈釈尊から舎利弗(しゃりほつ)に向けてのお言葉のつづき〉


「池の四方には階段があり、


金・銀・瑠璃・水晶からできている。


岸の上には楼閣があり、また金・銀・


瑠璃・水晶・硨磲(しゃこ)・


赤真珠・瑪瑙(めのう)で飾られている」





(解説)


極楽の飾りを「荘厳(しょうごん)」といいます。


荘厳は、阿弥陀仏が仏になるために


修行されていた時代に、


「もし私が仏になったら、こんな浄土をつくりたい!」と


願を建てられて、長く大変なご修行の末に


成し遂げられたものです。


つまり、豪華絢爛な荘厳は、すべて阿弥陀仏の


修行の功徳によってできているものです。


だから永遠不滅なのです。


私たちの世界の邸宅や庭園は、


その持ち主の徳によってできたものではなく、


お金の力でできたものばかりです。


ですからお金によって売り買いされ、


古くなったりお金に困れば壊れてしまうものです。


極楽の荘厳は「功徳の荘厳」ですから、


単なる豪華な建物や庭ではないのです。


2021年5月29日土曜日

仏説阿弥陀経⑫

(本文)


池の中に蓮華あり。


大きさ車輪のごとし。


青色(しょうしき)には


青光(しょうこう)あり。


黄色(おうしき)には


黄光(おうこう)あり。


赤色(しゃくしき)には


赤光(しゃっこう)あり。


白色(びゃくしき)には


白光(びゃっこう)あり。


微妙香潔(みみょうこうけつ)なり。


舎利弗(しゃりほつ)、極楽国土には、


かくの如きの功徳荘厳(くどくしょうごん)を


成就(じょうじゅ)せり。






(現代語訳)


〈釈尊から舎利弗(しゃりほつ)に向けてのお言葉のつづき〉


「池の中には車輪ほどの大きさの蓮華が生えている。


そして青い花から青い光が、


黄色い花からは黄色い光が、


赤い花からは赤い光が、


白い花からは白い光が放たれていて、


美しく香りも清らかである。


舎利弗(しゃりほつ)よ、


極楽はこのようにすぐれた功徳で


飾られているのである」





(解説)


蓮は泥の中から美しい華を咲かせることから、


濁り乱れた世にありながら、


正しき道を求める修行者に譬えられて


たびたび仏典に登場します。


善導大師は煩悩に苛まれつつも、


極楽浄土を目指す念仏者を白蓮華に譬えおられます。


https://hourinji.blogspot.com/2021/03/blog-post_7.html



極楽では白蓮華だけでなく、


青・黄・赤・白の蓮が、


それぞれの色の光を放って美しく咲き誇っています。


このような素晴らしい情景を思い浮かべて、


極楽を求める心を育てていきたいものです。


2021年5月28日金曜日

仏説阿弥陀経⑬

(本文)


また舎利弗(しゃりほつ)、彼の仏の国土には、


常に天楽(てんがく)を作(な)す。


黄金を地(じ)とせり。


昼夜六時(ちゅうやろくじ)に


曼陀羅華(まんだらけ)を雨(ふ)らす。






(現代語訳)


〈釈尊から舎利弗(しゃりほつ)に向けてのお言葉のつづき〉


「また舎利弗(しゃりほつ)よ、


阿弥陀仏の国には、いつも素晴らしい


音楽が流れている。


大地は黄金でできている。


そして六時間毎に、曼荼羅の華が降ってくる」





(解説)


極楽ではいつもよい音楽が流れています。


大地は黄金です。


そこに曼荼羅の華が降ってくるのです。


曼荼羅華は、適意華(てきいけ)、如意華(にょいけ)


とも訳され、その香りをかぎ、その色を見る者は


みんな悦びに包まれるといいます。


2021年5月27日木曜日

仏説阿弥陀経⑭

(本文)


その国の衆生、常に清旦(しょうたん)をもって、


各おの衣裓(えこく)をもってもろもろの


妙華(みょうけ)を盛(い)れて、


他方十万億の仏を供養す。


すなわち食時(じきじ)をもって、


還って本国に到って、飯食(ぼんじき)し


経行(きょうぎょう)す。


舎利弗(しゃりほつ)、


極楽国土にはかくの如きの


功徳荘厳(くどくしょうごん)を


成就(じょうじゅ)せり。






(現代語訳)


〈釈尊から舎利弗(しゃりほつ)に向けてのお言葉のつづき〉


「極楽の人々は、いつも清らかな夜明けには


各々が華籠を持ち、そこにたくさんの美しい華を盛って、


他の国の十万億もの仏さまに供養する。


食事の時間には、すぐに元の国に帰って食事をとり、


その後静かに散歩をするのだ。


舎利弗(しゃりほつ)よ、


極楽はこのようにすぐれた功徳で


飾られているのである」





(解説)


仏教徒にとって、仏さまに直接供養できるというのは


悦び以外の何ものでもありません。


極楽では朝早くから、採れたての華を


阿弥陀さまをはじめ、多くの仏さまへ


供養することができます。


その後帰って食事をとり、


静かに散歩します。


何とものんびりして優雅に思います。


ただ、この散歩は修行の一つです。


僧堂のほとりを心を静めて歩行往復します。


乱雑に歩くのではなく、そぞろ歩きをするのです。


2021年5月26日水曜日

仏説阿弥陀経⑮

(本文)


また次に舎利弗(しゃりほつ)、


かの国には常に種々奇妙(しゅじゅきみょう)なる


雑色(ざっしき)の鳥あり。


白鵠(びゃっこく)・孔雀(くじゃく)・


鸚鵡(おうむ)・舎利(しゃり)・


迦陵頻伽(かりょうびんが)・


共命(ぐみょう)の鳥なり。


この諸衆(もろもろ)の鳥、


昼夜六時(ちゅうやろくじ)に


和雅(わげ)の音を出(い)だす。


その音(こえ)、五根(ごこん)・


五力(ごりき)・七菩提分(しちぼだいぶん)・


八聖道分(はっしょうどうぶん)、


かくの如き等(ら)の法を


演暢(えんちょう)す。


その土(ど)の衆生、


この音(こえ)を聞きおわって、


皆悉く仏を念じ法を念じ僧を念ず。






(現代語訳)


〈釈尊から舎利弗(しゃりほつ)に向けてのお言葉のつづき〉


「また次に舎利弗(しゃりほつ)よ、


極楽には常に種々の美しく彩られた鳥がいる。


それは白鳥、クジャク、オウム、九官鳥、


迦陵頻伽(かりょうびんが)、


共命(ぐみょう)の鳥である。


これらの鳥は、昼夜六時間毎に、


優雅な鳴き声でさえずるのだ。


その鳴き声は、五根(ごこん)・五力(ごりき)・


七菩提分(しちぼだいぶん)・


八聖道分(はっしょうどうぶん)などの、


仏教の教えを説いている。


極楽の人々は、この鳴き声を聞き終わり、


誰もが仏を念じ、教えを念じ、仏教教団を念じる」


※五根(ごこん)

 覚りを実現するための五つのはたらき。

 ①信じる②努力する③記憶する

 ④精神統一する⑤智慧


※五力(ごりき)

 さとりを実現するための五つの力。

 五根(ごこん)が

 五障(欺く・怠ける・怒る・恨む・憎む)

 を打ち破るための具体的な力となったもの。

 ①信じる力②努める力③記憶する力

 ④精神統一する力⑤智慧の力


※七菩提分(しちぼだいぶん)

 覚りを実現するための七つの要素。

 ①記憶する②教えの真偽を選び分ける

 ③努力する④正しい法を喜ぶ

 ⑤心が軽やかになる⑥心を統一する

 ⑦対象への執着を捨てて心が平等になる


※八聖道分(はっしょうどうぶん)

 仏教の八つの実践法。

 ①正しい見解②正しい思惟③正しい言葉

 ④正しい行い⑤正しい生活⑥正しい努力

 ⑦正しい憶念⑧正しい瞑想





(解説)


『阿弥陀経』に登場する鳥は、


私たちの世界に存在する鳥と、


私たちが見たこともない鳥がいます。


私たちの世界に存在する鳥は、


白鳥・クジャク・オウム・九官鳥。


私たちが見たこともない鳥に


迦陵頻伽(かりょうびんが)と


共命(ぐみょう)の鳥がいます。


迦陵頻伽(かりょうびんが)は頭が人間、


そして体は鳥の姿です。


共命(ぐみょう)の鳥の方は、頭が二つある双頭一身です。


双頭は人面だけではなく、鳥の場合もあるのだそうです。


阿弥陀経では、これらの鳥は、


昼夜六時間毎に、きれいな声で鳴いて


仏の法を伝えていると説かれています。


その鳴き声を聞くと、仏を念じ、教えを念じ、


仏教教団を念じる気持ちが自然に湧いてくるのです。


迦陵頻伽(かりょうびんが)は雅楽の曲にも


登場します。


曲に合わせて羽をつけた四人の童子が


可愛く舞う姿は、極楽を思い起こさせてくれます。


2021年5月25日火曜日

仏説阿弥陀経⑯

(本文)


舎利弗、汝、この鳥は実にこれ


罪報(ざいほう)の所生(しょしょう)なりと


謂(おも)うことなかれ。


所以(ゆえん)は何(いか)ん。


かの仏の国土には


三悪趣(さんなくしゅ)なければなり。


舎利弗(しゃりほつ)、その仏の国土には、


なおし三悪道(さんなくどう)の名もなし。


何に況んや実(じつ)あらんや。


この諸もろの鳥は皆これ阿弥陀仏の


法音(ほうおん)をして


宣流(せんる)せしめんと欲して、


変化(へんげ)して作(な)す所なり。






(現代語訳)


〈釈尊から舎利弗(しゃりほつ)に向けてのお言葉のつづき〉


「舎利弗(しゃりほつ)よ、


あなたはこの鳥が、罪の報いによって


鳥に生まれ変わったのだと考えてはならない。


なぜなら、極楽には三悪道(さんなくどう)、


つまり地獄・餓鬼・畜生という


苦しみ大きい世界がないからである。


舎利弗(しゃりほつ)よ、


極楽には三悪道(さんなくどう)の名前すらない。


ましてや三悪道(さんなくどう)があるはずがない。


これらの様々な鳥は、みな阿弥陀仏の教えを


説き広めようとして、


姿を鳥に変えて現れたのである。





(解説)


仏教の世界観に六道輪廻(ろくどうりんね)があります。


すべての者は地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の


六つの世界を生まれ変わり死に変わることを


繰り返していると説きます。


この六道輪廻は苦しみ迷いの世界です。


特に地獄・餓鬼・畜生は苦しい世界で、


この三つを三悪道(さんなくどう)、


あるいは三悪趣(さんなくしゅ)、


または三塗(さんず)、三途(さんず)といいます。


迷いの世界にいながらも、極楽浄土への往生を


願い、念仏を称える者は、その命尽きる時に


阿弥陀仏がお迎えくださり、極楽浄土へと


往生することができます。


そして二度と六道で迷うことはありません。


すなわち極楽浄土は六道の外にあるのです。


また、極楽浄土の中には地獄、餓鬼、畜生という


苦しい世界はありません。


『阿弥陀経』に登場する鳥たちは、


迷いの世界の存在ではなく、


阿弥陀仏の功徳によって、私たちを導き、


極楽の往生人に法を説くために


仮に姿を現した存在なのです。




六道輪廻については


「念仏と出会うということ」の項をご参照ください。

https://hourinji.blogspot.com/search/label/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E5%AE%97%E3%81%AE%E6%95%99%E3%81%88%E7%AC%AC2%E9%83%A8%E3%80%80%E5%BF%B5%E4%BB%8F%E3%81%A8%E5%87%BA%E4%BC%9A%E3%81%86%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E3%81%93%E3%81%A8


2021年5月24日月曜日

仏説阿弥陀経⑰

(本文)


舎利弗(しゃりほつ)、


かの仏の国土には微風(みふう)吹いて、


諸もろの宝行樹(ほうごうじゅ)


及び宝羅網(ほうらもう)を動かして


微妙(みみょう)の音を出せり。


譬えば百千種(ひゃくせんじゅ)の楽(がく)を


同時に倶(とも)に作(な)すが如し。


この音を聞く者は、皆自然(じねん)に


念仏・念法(ねんぽう)・念僧の心を生ず。


舎利弗(しゃりほつ)、その仏の国土には、


かくの如きの功徳荘厳(くどくしょうごん)を


成就(じょうじゅ)せり。




(現代語訳)


〈釈尊から舎利弗(しゃりほつ)に向けてのお言葉のつづき〉


舎利弗(しゃりほつ)よ、


極楽にはそよ風が吹いていて、


多くの宝の並木や宝の網を


そよ風が吹き動かして、


素晴らしい音を出している。


その音はまるで百千種類もの楽器を


同時に演奏するようなものである。


その音を聞く者は、


誰もが自ずと仏を念じ、仏の教えを念じ、


仏教教団を念じる心が生まれる。


舎利弗(しゃりほつ)よ、


極楽はこのようにすぐれた功徳で


飾られているのである」






(解説)


極楽には常に丁度程よいそよ風が吹いていて、


その音がたくさんの楽器で演奏される


オーケストラのように響き、


身に染みわたってくるのです。


その音が素晴らしいといっても、


それは娯楽ではなく、そんな音すらも


有り難い法に聞こえてくるのです。


ですから、極楽での修行は苦しいものではなく、


とても心地よく進んでいくのです。


2021年5月23日日曜日

仏説阿弥陀経⑱

(本文)


舎利弗(しゃりほつ)、


汝が意(こころ)において云何(いかん)。


かの仏を何が故ぞ阿弥陀と号したてまつる。


舎利弗(しゃりほつ)、


かの仏の光明無量にして、


十方(じっぽう)の国を照らすに


障碍(しょうげ)する所なし。


この故に号して阿弥陀とす。




(現代語訳)


〈釈尊から舎利弗(しゃりほつ)に向けてのお言葉のつづき〉


「舎利弗(しゃりほつ)よ、


あなたは以下のことをどのように思われるか?


なぜその仏を阿弥陀とお呼びするのであろうか?


舎利弗よ、阿弥陀仏が放たれる光は無量であり、


遮られることなく、十方の国を照らしている。


だから阿弥陀とお呼びするのだ」






(解説)


ここで釈尊は舎利弗尊者(しゃりほつそんじゃ)に


問いを投げかけられます。


「なぜその仏を阿弥陀というのかわかるか?」


という問いです。


その問いに舎利弗尊者が答えられることを待たず、


釈尊はお話しになります。


「阿弥陀」と名づける理由は二つあるとおっしゃいます。


一つ目は、「阿弥陀」は「限りなき光」


という徳を収めた仏さまである、ということです。


阿弥陀仏から放たれる光は


際限なく十方の世界を照らして、


すべての者を救おうと


手を差し伸べてくださっています。


だから「限りない」という意味をもつ


「阿弥陀」と名づけるのだ、とおっしゃるのです。


2021年5月22日土曜日

仏説阿弥陀経⑲

(本文)


また舎利弗(しゃりほつ)、


かの仏の寿命及び其の人民(にんみん)、


無量無辺(むりょうむへん)


阿僧祇劫(あそうぎこう)なり、


故に阿弥陀と名づけたてまつる。







(現代語訳)


「また舎利弗(しゃりほつ)よ、


阿弥陀仏の寿命と、その国に住む人々の


寿命に限りがない。


だから阿弥陀とお呼びするのだ」






(解説)


極楽におられる仏さまを


「阿弥陀」と名づけるもう一つの理由は


寿命が「限りない」からだと説かれます。


それのみならず、極楽浄土に往生した方々も、


みんな寿命に「限りがない」のです。


そんな夢のような功徳を与えうる


仏さまなので、「限りない」という


意味の「阿弥陀」と名づけられるのです。


歴史上、「不老長寿」を目指す人は多くいました。


それは人類の理想でした。


現代、医療が発達したことにより、


不老長寿まではいかずとも、


かなりの高齢化が進んでいます。


しかしいかがでしょうか。


それを「夢のようだ」と喜ぶ人が


どれだけおられましょうか。


それどころか「なぜこんなに長生きしてしまったのか」


「早く死なせてほしい」と嘆く人の


いかに多いことでしょうか。


私たちの世界において、長寿は必ずしも


幸福ではなくなっています。


極楽に往った人は、


「あらゆる苦しみ・悩み・痛みがなく、


楽だけを受ける」のです。


その上で限りない寿命をいただけるというのですから、


こんなにありがたいことはありません。


この世でなし得ない功徳が詰め込まれている


極楽浄土こそ、目指すべき理想郷なのです。


2021年5月21日金曜日

仏説阿弥陀経⑳

(本文)


舎利弗(しゃりほつ)、


阿弥陀仏(あみだぶつ)


成仏より已来(このかた)、


今において十劫(じっこう)なり。






(現代語訳)


〈釈尊から舎利弗(しゃりほつ)に向けてのお言葉のつづき〉


「舎利弗(しゃりほつ)よ、


阿弥陀仏は仏になられてから、


十劫という年月が経っている」






(解説)


「劫(こう)」という時間の単位を


『浄土宗大辞典』には以下のように


説明されています。


①四方一由旬の鉄城に芥子けし粒を満たし、


 100年ごとに一粒取り去ることを繰り返し、


 空になっても劫は終わらない(芥子劫)。


②40里四方の石を100年ごとに細軟の布で払拭し、


 その石が磨滅しても劫は終わらない(磐石劫)。


①にしても②にしても「とてつもなく長い時間」を


表していることがわかります。


阿弥陀仏がまだ仏になられる前、


法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)として


修行されていた時、


「凡夫を救うためにはどうすればよいか」と


悩まれた時間が五劫であったといいます。


その後、師匠の世自在王仏(せじざいおうぶつ)の


御前で、四十八願を建てられてから、


兆載永劫(ちょうさいようごう)の間、


修行をされた末に成仏され、


「阿弥陀仏」となられました。


そして阿弥陀仏として成仏されてから、


今までの時間を「十劫」と説かれるのです。


「五劫」も「兆載永劫」も「十劫」も、


我々の認知できる範囲を遙かに超えた


長い時間概念で阿弥陀仏や極楽浄土は説かれています。


9月後半のことば

 9月後半のことば 「多様性 仏の目には 皆凡夫」   近ごろ「多様性」という言葉を耳にしない日はありません。会議でも学校でも、街頭のポスターにすら踊っています。確かに、人は千人いれば千人、百人いれば百人、異なる価値観や性格を持っている。それは事実です。しかし、だからといってその...