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2020年6月4日木曜日

聖光上人のご生涯①(ご生誕)

浄土宗をお開きくださったのは「法然上人」ということは、ご存じの方が多いのですが、

「二代目はどなた?」と尋ねられて答えることができる人はどれほどおられましょうか?

しかし初代がいくら偉くても、二代目三代目が頼りないと潰れてしまいます。

浄土宗第二祖聖光上人」は法然上人の数多いお弟子の中で、浄土宗を継いでくださった

大切な方であります。

「聖光上人」とお呼びすることが多いですが、別名をたくさんお持ちです。

聖光上人は正式には「聖光房弁長」とおっしゃいいますので、

弁長上人」ともお呼びします。

九州のご出身ですので「鎮西上人」ともいいます。

昔九州のことを鎮西と申しました。

それからご自身のことはよく「弁阿」(べんな)と名乗られます。

弁阿上人」です。

「弁阿弥陀仏」の略です。

さらには浄土宗の第二祖なので単に「二祖さま」とお呼びすることもあります。

「聖光上人」、「弁長上人」、「鎮西上人」、「弁阿上人」、「二祖さま」

このような呼び方があることをご承知おきください。

聖光上人は応保二年(1162)のお生まれです。

法然上人より29歳お若いということになります。

ちなみに同じく法然上人門下の親鸞聖人は承安三年(1173)のお生まれですから、

聖光上人より11歳お若いということになります。

時代は平安時代の最末期。

お父さまは法然上人と同様、武士です。

九州今の福岡県北九州市、筑前の国香月城の城主の弟、香月弾正左右衛門則茂という

お名前です。

出家して「順乗」と名乗られました。

お母さまのお名前は「聖養さま」といいます。

これはお戒名です。

聖光上人がお生まれになった場所には現在「吉祥寺」という浄土宗のお寺が建立されています。

見事な藤棚が有名です。

本堂の裏手に石塔があり、そこには

「究竟院殿大譽教阿順乗大居士 承安三年八月二十八日」とお父さまの戒名が

彫られておりその隣に

「大宝院殿安譽聖寿妙養大姉 応保二年五月六日」と

お母さまの戒名が並んで彫られています。

おそらくこの戒名の「聖寿妙養」の二字をとって「聖養」とされたのでしょう。

聖光上人の孫弟子にあたる了慧道光上人が著された『聖光上人伝』には

お母さまについては注釈の中で「上人母法號聖養」とのみ記されています。

法然上人のお母さまは秦氏さまでしたね。

一族の名前です。

昔は女性が個人名を語ることはなかったのですね。

もちろん身内では何らかの呼び名はあったでしょうが、それを公にはしなかったようです。

ですから普通のお名前ではなしにお戒名のみが伝わっています。

ご両親共に信仰篤く、これも法然上人のご両親と同じく、日本三戒壇の一つ、

太宰府の観世音寺というお寺の観音さまに七日間参籠なさったとも伝えられます。

子授け祈願です。

子供を授かるのは簡単なことではありません。

今でも決して当たり前ではありません。

子供を授かるということは、今も昔も本当に「有ること難い」稀なことなのです。

お参りされて七日目、夢をご覧になりました。

法然上人のお母さま、秦氏さまも法然上人をお腹に身ごもられる時に

剃刀を呑む夢をご覧になりました。

このように神仏に祈願して見る夢を霊夢と申します。

聖光上人のお母さま、聖養さまも霊夢で、立派なお坊さんが現れて、

「お前のお腹を借りて人々を救うぞ」とおっしゃったともいいます。

そしてめでたくご懐妊であります。

十月十日かけて赤ん坊が生まれてきましたが、それと同時に聖養さまは命を落とされます。

友人の救命救急医が言っていました。

「出産というのは本当は相当に危険なことなんだ。みんなが怖がるから医者は一々言わないけども、本当は母子共に命がけなんだ。
母子共に元気な出産は決して当たり前ではないんだ」

現在でもそうです。
ましてや800年以上前のことです。

生まれてきた赤ん坊は「文殊丸」と名付けられました。

法然上人は「勢至丸」です。

昔はよく子供に「○○丸」と名付けられました。
牛若丸もそうですね。

子供だけでなく、今でも船には○○丸というものが多いですね。

これは魔除けなのだそうです。

「麻呂」というのも同じ意味です。

出産同様、生まれた後、大人になるまで育つこと自体が大変なことなのです。

法然上人の幼名「勢至丸」も聖光上人の「文殊丸」も、どちらも尊い菩薩さまのお名前がついています。

勢至菩薩、文殊菩薩、どちらも知恵の菩薩と言われます。

どちらのご両親も信心深い方でしたから、そのように菩薩さまの名を付け、

「丸」をつけて、

「仏の知恵をいただけるような子に、元気な子になって欲しい」

と願われたのです。

「重刻聖光上人傳叙」貞厳
「聖光上人傳凡例」信冏

2020年6月3日水曜日

聖光上人のご生涯②(比叡山へ)

どういう事情か記すものがないので詳細はわかりませんが、

聖光上人はわずか七歳で仏教の勉強を始められ、

九才で出家して頭を剃り、聖光房弁長というお名前を授かります。

さらには十四歳で、授戒を受けられて一人前のお坊さんになられたんです。

おそらくご両親が参籠なさった観世音寺での受戒と思われます。

その後、ご生誕の地近くにある白岩寺にて三年、飯塚の明星寺で五年にわたって

必死に勉学修行に励まれます。

福岡県久留米市に浄土宗の大本山「善導寺」があります。

善導寺の聖光上人像は、一般にイメージされる九州人、九州男児そのものです。

「威風堂々」という形容がふさわしい、力強い姿のお像がお祀りされています。

その風貌通り、力強く一生涯「行」を続けられました。

22歳で比叡山に登り、観叡上人に師事した後、観叡上人の勧めで、

証真上人という方のお弟子になります。

この証真上人という方は、学徳共非常に優れた方で、学問と修行に打ち込むが余り、

源平の戦いがあったこともご存じなかったといわれています。

にわかには信じがたい逸話ですが、それ程に厳しく修行をされた方だったのでしょう。

聖光上人は、証真上人に付いて比叡山で八年間修行なさり、九州へと帰って行かれます。

証真上人は法然上人の智徳に敬意を持っておられましたから、

聖光上人もその頃法然上人のお名前を耳にされていたのかもしれません。

『聖光上人傳』
了慧道光



2020年6月2日火曜日

聖光上人のご生涯③(三明房さま死の淵を彷徨う)

聖光上人がお生まれになると同時にお母さまがお亡くなりになったことを先にお伝えしました。(聖光上人のご生涯①)https://www.blogger.com/blog/post/edit/2937894655821144415/6366219382260676008

聖光上人は29歳で比叡山から九州に帰郷されます。

そして故郷の誕生の地に吉祥寺というお寺を建てられました。

本尊の「腹帯阿弥陀如来」と呼ばれる仏さまは、お産のために

亡くなったお母さまへの報恩のために自ら刻まれたお像です。

その翌年には、当時九州の仏教を学ぶ中心であった油山という山の、学頭になられます。

博多の南西6キロの所にあるのですが、当時は東西にそれぞれ360もの

お堂があったそうです。

九州における仏道修行の中心地である油山で、仏教の学校の

校長先生になられたのが御年30歳の時です。

いかに秀でておられたかがわかります。

聖光上人を慕って、多くの学僧が集まったといいます。

32歳の秋、聖光上人は若い頃学んだ明星寺へ久しぶりに訪ねました。

当時はたくさんのお堂があり、修行僧も多くおられたようです。

数年前に友人の案内で明星寺を訪れました。

説明板にはかつても隆盛が紹介されていました。

しかし今は人の気配もなく、ひっそりとたたずんでいました。

時代を聖光上人当時に戻します。

聖光上人には異母弟がおられ、当時明星寺で修行なさっていました。

お名前を三明房さまとおっしゃいます。

久しぶりに弟と会って、積もる話をしていたその時、突然

三明房さまは顔面蒼白になり、苦しみだしました。

もがき、あえいで生死を彷徨います。

了慧道光上人の『聖光上人傳』には「申より戌に至りて蘇生す」

と書かれていますので、午後四時頃に苦しみだし、

八時頃まで意識不明状態であったということです。

よく一命を取り留められたものです。

「忽ち眼前の無常に驚き、速やかに身後の浮沈を思ふ」と記されています。

「人の生き死にはいつどうなるかわからない。
そうだ!我が身もどうなるかわからないのだ!」

ニュースを観て、死を客観的にみることはあるかもしれません。

でもそれは他人事の域を出ません。

しかし死と隣り合わせなのは実は「この私」です。

聖光上人は「一人称の死」をはっきりと自覚されたのです。

聖光上人は大変ショックを受けられます。

さっきまで楽しく話をしていた、自分よりも年の若い、

元気であった弟が突然に苦しみ出したかと思うと、

生死を彷徨っている現場を目の当たりにしたときには

「死」を我がこととして自覚せざるを得ません。

聖光上人ご自身は、体格もしっかりとしておられます。

体力も知力も自信満々であったことでしょう。

しかし目の前の現実を見たときにはそんな自信も虚しく崩れ去ります。

「いつ死ぬかも知れない身とはいえ、命というのはこんなに儚いものなのか。

これを無常というのであるか。

何と恐ろしいことであろうか」

このように思われたことでしょう。

聖光上人はお生まれになると同時にお母さまを失われました。

そして幼い頃から仏道修行をしてこられました。

ですから「死」についてはずっと意識されてきたことでしょう。

しかし実際に目の前でつい先ほどまで元気で話していた

三明房さまの苦しむ姿を見た時に、

これ以上無い恐怖を感じられたのです。

私達の誰もが「いつか死ぬ」ということは知っています。

でもそれが本当に今来るかも知れないとまでは思っていません。

もし「今」死ぬならば、お金儲けなんて必要ないですね。

どんなに高級な車に乗っていても仕方ないですね。

もっと大事なことを今しなくてはなりません。

そうです。

今自分の命が尽きても、間違いなく極楽浄土へ往けるように

お念仏(なむあみだぶつと称えること)を称えるしかないのです。

『聖光上人御法語』前後編
大本山善導寺刊


2020年6月1日月曜日

聖光上人のご生涯④(念死念仏)

三明房さまが死の淵を彷徨われたお話を思うとき、

私の頭の中を駆け巡る過去の出来事があります。

実は私、京都の仏教大学を卒業してから三年間

一般企業に勤めたことがあります。

その会社に入社したばかりの頃のことでした。

バブル崩壊直後のことで、まだその余韻が残る頃です。

勤めていた会社の専務は大学時代ヨット部で活躍されていたこともあり、

福利厚生の一つとしてヨットを持っていました。

入社して間もなく、新入社員の歓迎会として、

我々もヨットに乗せてもらうことになりました。

大阪の北港のヨットハーバーを出ますと非常に

強い風が吹いていました。

大きめのヨットですが、すごく揺れます。

新入社員4名の他に専務と船舶免許をもっているグループ会社の

先輩が二人乗り、必死にヨットを操って下さいました。

そのお陰で何とか風に乗ることができました。

ようやく落ち着いたとばかりに先輩の一人、

Kさんが「フー」と安堵の溜息をついて、

ヨットの横の部分についているロープに寄りかかりました。

1メートルぐらいの高さのところに横にかけられているロープです。

Kさんが寄りかかったその時に大きな波がきて、

ヨットが大きく揺れました。

その瞬間Kさんは海の中に「ドボーン!」と落ちてしまいました。

私たち新入社員は思わず「アッ!?」と声をあげて驚いたのですが、

専務ともう一人の先輩は

「あーあ、落ちよった」と余裕の表情で言っています。

だから私も

「よくあることなのかも?」と思い落ち着きを取り戻しました。

すぐに残った先輩が手際よく、落ちたKさんに浮き輪を投げました。

でも少しのところで取ることができませんでした。

ヨットは帆に風をあてて進む乗り物ですからすぐに戻ることができません。

先輩と専務が必死にヨットを操作してKさんのところに戻りました。

そして急いで再び浮き輪を投げました。

今度はうまくKさんの届くところに浮き輪を投げ込むことに成功しました。

私たち新入社員は何もできずただ祈るだけです。

「よかった!Kさん!つかまって!」

ところがKさんの顔はこっちを向いているのですが、

浮き輪を目の前にしているのに手が挙がりません。

再度ヨットを操作しようとした時、Kさんは

もう海面に顔をつけて気を失っていました。

慌てて先輩が自分の体にロープを括り付けて飛び込んで助けに向かいます。

先輩がKさんの元まで泳いでゆき、Kさんをしっかと抱き「引張れ!」と叫びます。

私もロープを引っ張り、二人をたぐり寄せます。

しかし引き上げられたKさんはダラーンとして意識をなくしています。

専務と先輩が交代でKさんに心臓マッサージと人工呼吸を繰り返します。

最近救命救急の研修を受けますと人工呼吸はせず、

心臓マッサージを繰り返すように教わりましたが、

30年近く前にはこの二つを繰り返すことが推奨されていたようです。

その時の私は「こうしていれば息を吹き返すよね?!大丈夫なのね?!」

と信じていました。

専務と先輩は何度救命措置を繰り返したでしょうか。

専務がフラフラとへたり込んで「あかん」と力なく言いました。

私は「え?!あかん?どういうこと?!」と焦り、

専務に代わって、やったこともない心臓マッサージと人工呼吸をしました。

しかし全く意識を取り戻してくれません。

泳ぎは達者だそうですが、残念なことにライフジャケットも

着けていませんでしたので、洋服が体にピターンと張り付いて

身動きできなくなってしまったのでしょう。

Kさんは救急車で病院に運ばれましたが、そこから意識を取り戻すことなく、

二日後に亡くなりました。

Kさんはグループ会社の社員ですので、新入社員の私とは初対面でした。

そんな私たちにも気さくに優しい言葉をかけてくださいました。

私たち新入社員ははすぐに家に帰るようにとの指示を受けました。

帰宅すると家人はおらず、一人になりました。

すると涙があふれ出て止まらなくなりました。

怖いのです。

恐ろしいのです。

さっきまで元気でヨットを操作してくれてた人、

笑顔で冗談を言ってた人がほんの少しの時間海に浸かっただけで

息を引き取ってしまう。

もう怖くて怖くて震えながら「ナムアミダブ、ナムアミダブ」

とお念仏を称えている自分がいました。

その時すでに僧侶になるための行も終えてはいました。

企業には就職しましたけれども社会勉強をしていずれおに戻ろうと思ってはいました。

でも、恥ずかしながら本気で阿弥陀さまにおすがりしてお念仏を

お称えしたことがありませんでした。

情けないことでありますけれども、その時が初めてです。

「死」というものを本当に身近に感じました。

自分のこととして感じました。

Kさんが亡くなって悲しいということはもちろんですが、

それ以上に「死」が怖かったのです。

そして「今、このまま死んでしまったら自分に何があるんだろう?

自分は何をやってきてこれから死んだらどうなるんだろう?  」

本当に怖くて怖くて、口に出たのがお念仏でした。

まさに

「阿弥陀さま、お助け下さい。」という思いでした。

振り返りますと人生の転機が幾度かあります。

お念仏のみ教えに入る転機、深まる出来事、何度もありました。

Kさんの死は私にとって大きな転機でありました。


さて、聖光上人のお話に戻ります。

聖光上人は後に法然上人と出会い、お念仏のみ教えと出会われます。

それ以前も常に「死」を意識しつつ生きてこられた聖光上人です。

お念仏と出会ってからも「死」を常に念頭において、

ひたすらお称えになりました。

出ずる息、入る息を待たず、入る息、出ずる息を待たず、

助け給え阿弥陀ほとけ、南無阿弥陀仏

といつもおっしゃっていたといいます。

出る息が入る息を待たない、入る息が出る息を待たない、

一息の間に命は尽きるものであるぞ、というのです。

「だから今お念仏なんだ」

「またいずれ称えましょうではだめなんだ」

「今称えねば、もう間に合わないかも知れないんだ!」

「常に死を念ぜよ、そして常に念仏せよ!」

ということです。

念死念仏」といいます。

この「念死念仏」が聖光上人のみ教えのベースになります。

死というものは決して他人事ではない。自分のことである

という強い自覚を持たれたのです。

福岡県久留米市にあります浄土宗の大本山善導寺の境内には

この念死念仏の碑が建っております。

三明房さまの出来事は聖光上人32歳の時のことでありました。

『聖光と良忠』
梶村昇

2020年5月31日日曜日

聖光上人のご生涯⑤(康慶の屋敷にて)

ある時、明星寺五重の塔再建の計画が持ち上がり、

衆徒からその勧進に聖光上人をとの声が挙がりました。

かつて明星寺には五重の塔があったのですが、

その当時はすでに廃絶して基礎の石だけが残っていたのだそうです。

「勧進」というのはいわゆる寄付集めですが、

勧進の役には学徳兼備の優れた方が選ばれます。

人望や信用のない人が集めても集まりませんよね。

その点からも聖光上人は、明星寺を代表する

名僧だったということがわかります。

聖光上人の勧進により、3年で五重塔が復興しました。

五重塔は完成しても肝心の仏さまがおられなくては何にもなりません。

そこで聖光上人は京都に出向いて、有名な仏師である

康慶に仏像の造立を依頼します。

康慶は運慶の父親です。

興福寺に祀られる不空羂索観音像や四天王などは康慶の作です。

聖光上人は仏像が出来るまでの数ヶ月を康慶の屋敷の離れで待ちます。

時代の違いですね。

のんびりしているというよりも、当時九州から京都まで出る

というのは大変さを物語ります。

この康慶の屋敷跡には現在聖光上人ゆかりの寺として、

浄土宗の聖光寺というお寺が建っています。

四条寺町を少し下がったとてもにぎやかな場所です。

康慶の屋敷に居りますと、毎日多くの人々が

東山に向かって歩く姿を多く目にします。

何事かと尋ねてみますと、

「今東山の吉水というところで、法然上人がお念仏の教えを説いておられる、

それを聞きに行く人々の群れですよ。」との応えです。

「あの有名な法然上人が来ておられるのか。

法然上人はとても優秀であったと聞く。

それほど優秀な方なのに比叡山を下りて

念仏一筋の教えを説いているというではないか。

なぜ比叡山を下りたのであろうか。

もしや死の恐怖から逃れる術をご存じかも知れない」

という思いもあったのかもしれません。

そして聖光上人ご自身も優等生ですから

「しかし法然上人といえども知識の上では私の方が上であろう」

といういささか高慢な思いを両面に持ちつつ、

法然上人のおられる吉水の庵、今の知恩院の地を訪ねます。

『聖光上人 その生涯と教え』
藤堂俊章


2020年5月30日土曜日

聖光上人のご生涯⑥(法然上人との出会い)

このお二人の出会いがあったからこそ、

今の浄土宗があります。

時に法然上人御歳65歳聖光上人36歳

法然上人はすでに円熟した年齢、聖光上人は男盛りです。

対面するなり法然上人は聖光上人に尋ねます。

「あなたはどんな修行をしているのですか?」

聖光上人は

「今は勧進をして五重の塔の建立に努めています。

普段は念仏を称えています」

と応えます。

法然上人は

念仏には色んな種類がある。

瞑想して浄土を観ようとする観念の念仏。

難しい修行ができない、レベルの低い人が称えるという念仏。

そして善導大師が勧めた念仏。

あなたはどれを学びに来たのか?!

法然上人が浄土宗を建てられたのでは、

三番目の善導大師が説かれたところの、

阿弥陀仏の本願念仏を拠り所としてのことでした。

博学の聖光上人が答えられないこはないでしょうが、

法然上人のオーラに圧倒されて押し黙ってしまわれました。

聖光上人は頭を下げ、法然上人の人格に深く帰依なさいました。

学徳兼備の聖光上人でありますが、

「自分は仏教の修行を積んではいるが、

死の恐怖から逃れる術すら知らない」

と気づかれました。

一流は一流を見抜く力をお持ちだといいます。

自分が求める先をご存じであろう先達、

法然上人という方と出会ったならば、

即座に頭を下げて教えを請われるのです。

法然上人も目を見ればわかります。

求める者にはとことん教えを伝えよう。

聖光上人に善導大師が説かれる

お念仏のみ教えを順々に説かれます。

最初面会されたのが午後2時頃。

それから夜中の12時まで、

10時間もぶっ通しで説かれたんです。

求める聖光上人と、説く法然上人、

一発で信頼し合ったのでしょう。

「この方からもっともっとみ教えを聞きたい。

法然上人とお会いすることがなかったら、

虚しく一生を過ごしたことだろう」

と聖光上人は法然上人の門弟になります。

それ以来今まで培った学問と修行を捨てて念仏の道へ入られます。

これは大変なことです。

今までの蓄積を一切捨てるということですから。

でも本当に救いを求めるにはこういう決断が必要です。

今までの学問と修行を捨てるということは、

自力を捨てるということです。

聖光上人はお母さまとの死別、

三明房さまの出来事などを経験されています。

「いつ死ぬかも分からない」ということを

人一倍強く思っておられたことでしょう。

そして人一倍修行に明け暮れたことでしょう。

しかし修行をすればするほど、学問を重ねれば重ねるほど

ゴールが遠いことがわかってきます。

そんな時に法然上人と出会われたのです。

法然上人が説かれる念仏の教えは、自分を磨いて力をつけて

覚りを開くという自力の教えではありません。

「私は愚かな凡夫である」と自覚して、

阿弥陀さまに救っていただく他力の教えです。

自分の力では覚りには覚束ないということを、

目をそらさずにしっかりと見つめられたからこそ今までしてきた

修行と学問をあっさりと捨て去ることができたのでしょう。

5月から7月までの3ヶ月間毎日法然上人の元で教えを聞きます。

そんな充実した毎日を送っておられた時、

先に康慶に頼んでいた仏像ができたので、一旦九州の明星寺へ戻ります。

そして五重塔に仏像を安置して落慶法要を行います。

福岡県飯塚市の飯塚観光協会ホームページにこのような記載があります。

  「飯塚」という地名がどうしてついたのか、二つの説があります。
   一つは、神功皇后がこの地方を お通りになったとき、
   従軍兵士の論功行賞をなされ、おのおの郷土に帰されたが
   兵士たちはなお皇后の 徳を慕って飯塚まで従い
  「いつか再び玉顔そ拝し奉らん」と深く歎き慕ったといわれ、
   名づけてイヅカ (飯塚)の里と伝えられたといわれます。

   また、一つには聖光上人が、当市太養院において
   旧鎮西村明星寺虚空蔵の再興と三重の塔建立のため、
   民を集めて良材を運ばせたときに炊いたご飯があまって
   小山をつくり、 それがあたかも塚のようであったので
   「メシノツカ」すなわち飯塚と呼ばれるようになった
   とも伝えられています。
  (飯塚市観光ポータル http://www.kankou-iizuka.jp/history/  )

二つ目の説に聖光上人のお話が出ています。

ここでは三重塔と記されていますが、聖光上人の伝記と符合します。

このように明星寺としては聖光上人は大切な人です。

しかし聖光上人は一刻も早く法然上人の元へ戻りたい。

人生決断の時です。

聖光上人は明星寺にて一応のお役を果たした後、

京都へと向かうことになります。

浄土仏教の思想『弁長 隆寬』
梶村昇・福原隆善


2020年5月29日金曜日

聖光上人のご生涯⑦(法然門下としての日々)

法然上人の元へ戻られた聖光上人、毎日毎日法然上人の元へ通い、

念仏のみ教えを求められました。

聖光上人の熱意に応えて法然上人も毎日

長時間に渡って教えを説かれます。

法然上人の古くからの門弟、真観房感西上人が心配して、

「聖光上人、あなたの熱意は分かるけれども法然上人もご高齢の身。

せめて二日に一度になさいませよ。」

と仰った。

聖光上人も

「そうか、気づかなかった。法然上人もお疲れであろう。

申し訳ないことをした。」

と反省なさり、一日法然上人の元を訪ねるのを控えました。

ところがなんと、法然上人から使いが来て、

「法然上人がお待ちですよ。聖光房は病気か?と

心配なさっていますよ。」とのお言葉です。

こんな嬉しいことがありましょうか。

感激した聖光上人は、以後一層念仏に励みます。

その後法然上人から、

「あなたは教えを伝承するのに相応しい僧侶である。」

と認められ、法然上人のお念仏のみ教えがまとめられた

法然上人の著書、『選択本願念仏集』を書き写すことを許されます。

『選択本願念仏集』は略して『選択集』ともいい、

関白九条兼実公からの請いにより建久九年に撰述されました。

『選択集』は、浄土宗の教えが理路整然と説かれた

法然浄土教の集大成ともいえる書物です。

現在は岩波文庫からも発刊されていますが、

法然上人は一読した後、壁底に埋めよと本書の末尾に記しておられます。

「極楽へ往生するには念仏をおいて他にない」ということが

力強く説かれていますので、仏教全体に理解がない者に見せると

念仏以外の教えを誹謗する可能性があると危惧されたのだと思われます。

ですからしっかりと教えを受け取った弟子にのみ、

その書写を許されたのです。

また聖光上人は、「一枚起請文」も法然上人から授けられています。

いわゆる「一枚起請文」は、法然上人が往生される二日前、

いつも身の回りの世話をする側近の弟子である勢観房源智上人

法然上人に「最後に浄土宗の教えの要を一筆お示し下さい。」

と頼まれ、その願いに応えて書かれたものとして知られています。

しかし、これはご臨終間際に考えて書かれたものではなく、

生前から「この人に」という人が現れたら授けておられたようです。

聖光上人は源智上人と共に、法然上人から

厚い信頼を受けた弟子のお一人なのです。

「二祖鎮西上人讃仰御和讃」
作詞・藤堂俊章
作曲・松濤 基


2020年5月28日木曜日

聖光上人のご生涯⑧(往生院での別時念仏・そしてご往生)

8年に渡って法然上人の元で過ごされた聖光上人は、

43歳にして九州へ帰郷されます。

法然上人から「私が知っていることはすべて伝えた」と認められ、

九州での布教を志されたのです。

九州へ帰られた聖光上人は、いくつものお寺を建て、

念仏の布教に努められます。

その内の一つが久留米の善導寺です。

浄土宗の大本山の一つです。

浄土宗は総本山が知恩院、その下に大本山が全国に七ヵ寺あります。

東から東京芝の増上寺鎌倉光明寺、長野の善光寺大本願

黒谷金戒光明寺百萬遍知恩寺清浄華院、そして久留米の善導寺です。

聖光上人は善導寺の他、吉祥寺、博多善導寺、正定寺、光明寺、

本誓寺、極楽寺、安養寺、天福寺、無量寿院、等多くの寺院を開かれました。

その数は四十八ヵ寺に及ぶといわれています。

安貞2年(1228)聖光上人67歳、法然上人の十七回忌の年のことです。

九州へ帰って今日の都の現状を聞き伝えるによると、

どうも法然上人の教えと違った教えが跋扈しているようだ。

これではダメだと熊本県白川河の畔、往生院にて、

20数名の弟子や信者達と共に48日間の別時念仏を行います。

往生院は熊本地震(2016)で大きな被害があり、

その翌年私は仲間と共に災害見舞いに参りました。

本堂も傷み、境内の墓石の多くが倒壊し、揺れの大きさを物語ります。

往生院は聖光上人の時代は白川河の畔にありましたが、

江戸時代に現在の地へ移転されました。

元の地は「旧往生院」として碑が建てられています。

別時とは普段の念仏と違い、

「時と場所を定めて集中的にお念仏を称える」ことです。

聖光上人は往生院に於いて、48日間毎日、

ずっとお念仏をお称えになりました。

その最後の3日間で法然上人から口伝えにて聞いた教えを弟子達に伝えられます。

そして末代、つまり後々の人々に正しい教えが伝わるように、

末代念仏授手印』を書いて、その最後には

自らの両手の手印を押して証しとされます。

「この書物の内容が嘘偽りであるならば、

私は両手が爛れても構いません!!」

との決意を表明されたのが『末代念仏授手印』です。

「末代念仏授手印」とは

「末代の者を救う念仏の教えを間違いなく伝えるぞ」

という意味です。

昔、師匠から弟子に教えを伝える時に、

師匠の左手と弟子の右手をしっかりと合わせて、

「正しく伝えたぞ」と確認しました。

これを「授手印」と申します。

聖光上人も八女天福寺にて弟子の良忠上人に授手印でもって、

しっかと教えを伝えられました。

そして良忠上人は浄土宗の第三祖となられます。

聖光上人は浄土宗の第二祖として、

念仏のみ教えを広げられた先達です。

法然上人との出会いから一生涯、

欠かさず念仏を称えられた行の人が聖光上人です。

日々六万辺の念仏を行じ、良忠上人という後継者に

しっかりと教えを伝授して安心なさったのでしょう。

良忠上人が故郷へ戻られた翌年、嘉禎四年(1238)閏2月29日

77歳にてご往生なさいました。


『鎮西上人讃仰』
望月信享
椎尾辨匡

参考文献
『聖光上人傳』了慧道光
『浄土仏教の思想 弁長 隆寬』梶村昇・福原隆善
『聖光と良忠』梶村昇
『聖光上人-その生涯と教え-』藤堂俊章

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