2021年5月31日月曜日

仏説阿弥陀経⑩

 (本文)


また舎利弗(しゃりほつ)、


極楽国土には七宝(しっぽう)の池あり。


八功徳水(はっくどくすい)その中に充満せり。


池の底には純(もっぱ)ら


金沙(こんしゃ)をもって


地(じ)に布(し)けり。






(現代語訳)


〈釈尊から舎利弗(しゃりほつ)に向けてのお言葉のつづき〉


「また舎利弗(しゃりほつ)よ、


極楽には七宝(しっぽう)からできた池がある。


その池は、八功徳水(はっくどくすい)で


満たされている。


池の底には金の砂が敷き詰められている」



※七宝(しっぽう)

 七種類の宝玉。すなわち①金(こん)・

 ②銀(ごん)③瑠璃(るり)④頗瓈(はり)(水晶)・

 ⑤硨磲(しゃこ)・⑥赤珠(しゃくしゅ)(赤真珠)・

 ⑦瑪瑙(めのう)の七つの宝のこと。


※八功徳水(はっくどくすい)

 八種のすぐれた功徳を具えた水。

 ①清らかで澄んでいる②臭みがない

 ③軽い④冷たい⑤軟らかい⑥美しい

 ⑦飲みたい時に飲める

 ⑧飲み終わった後に体調を崩すことがない

 という八種の功徳。





(解説)


日本は水が非常に清潔かつ安価ですが、


他国では綺麗な水を手に入れるのが


困難なところも多いといいます。


水がないと生き物は生きていくことができません。


水があっても、それが不潔ですと、


病気にかかりますし、疫病が広がってしまいます。


極楽の池にある水は清潔で冷たく美味しく、


飲んで病気にかかることもないのです。


2021年5月30日日曜日

仏説阿弥陀経⑪

 (本文)


四辺(しへん)に階道(かいどう)あり。


金(こん)・銀(ごん)・瑠璃(るり)・


玻璃(はり)をもって合成(ごうじょう)せり。


上(ほとり)に楼閣(ろうかく)有り。


また金(こん)・銀(ごん)・瑠璃(るり)・


玻璃(はり)・硨磲(しゃこ)・


赤珠(しゃくしゅ)・碼碯(めのう)をもって、


しかもこれを厳飾(ごんじき)せり。






(現代語訳)


〈釈尊から舎利弗(しゃりほつ)に向けてのお言葉のつづき〉


「池の四方には階段があり、


金・銀・瑠璃・水晶からできている。


岸の上には楼閣があり、また金・銀・


瑠璃・水晶・硨磲(しゃこ)・


赤真珠・瑪瑙(めのう)で飾られている」





(解説)


極楽の飾りを「荘厳(しょうごん)」といいます。


荘厳は、阿弥陀仏が仏になるために


修行されていた時代に、


「もし私が仏になったら、こんな浄土をつくりたい!」と


願を建てられて、長く大変なご修行の末に


成し遂げられたものです。


つまり、豪華絢爛な荘厳は、すべて阿弥陀仏の


修行の功徳によってできているものです。


だから永遠不滅なのです。


私たちの世界の邸宅や庭園は、


その持ち主の徳によってできたものではなく、


お金の力でできたものばかりです。


ですからお金によって売り買いされ、


古くなったりお金に困れば壊れてしまうものです。


極楽の荘厳は「功徳の荘厳」ですから、


単なる豪華な建物や庭ではないのです。


2021年5月29日土曜日

仏説阿弥陀経⑫

(本文)


池の中に蓮華あり。


大きさ車輪のごとし。


青色(しょうしき)には


青光(しょうこう)あり。


黄色(おうしき)には


黄光(おうこう)あり。


赤色(しゃくしき)には


赤光(しゃっこう)あり。


白色(びゃくしき)には


白光(びゃっこう)あり。


微妙香潔(みみょうこうけつ)なり。


舎利弗(しゃりほつ)、極楽国土には、


かくの如きの功徳荘厳(くどくしょうごん)を


成就(じょうじゅ)せり。






(現代語訳)


〈釈尊から舎利弗(しゃりほつ)に向けてのお言葉のつづき〉


「池の中には車輪ほどの大きさの蓮華が生えている。


そして青い花から青い光が、


黄色い花からは黄色い光が、


赤い花からは赤い光が、


白い花からは白い光が放たれていて、


美しく香りも清らかである。


舎利弗(しゃりほつ)よ、


極楽はこのようにすぐれた功徳で


飾られているのである」





(解説)


蓮は泥の中から美しい華を咲かせることから、


濁り乱れた世にありながら、


正しき道を求める修行者に譬えられて


たびたび仏典に登場します。


善導大師は煩悩に苛まれつつも、


極楽浄土を目指す念仏者を白蓮華に譬えおられます。


https://hourinji.blogspot.com/2021/03/blog-post_7.html



極楽では白蓮華だけでなく、


青・黄・赤・白の蓮が、


それぞれの色の光を放って美しく咲き誇っています。


このような素晴らしい情景を思い浮かべて、


極楽を求める心を育てていきたいものです。


2021年5月28日金曜日

仏説阿弥陀経⑬

(本文)


また舎利弗(しゃりほつ)、彼の仏の国土には、


常に天楽(てんがく)を作(な)す。


黄金を地(じ)とせり。


昼夜六時(ちゅうやろくじ)に


曼陀羅華(まんだらけ)を雨(ふ)らす。






(現代語訳)


〈釈尊から舎利弗(しゃりほつ)に向けてのお言葉のつづき〉


「また舎利弗(しゃりほつ)よ、


阿弥陀仏の国には、いつも素晴らしい


音楽が流れている。


大地は黄金でできている。


そして六時間毎に、曼荼羅の華が降ってくる」





(解説)


極楽ではいつもよい音楽が流れています。


大地は黄金です。


そこに曼荼羅の華が降ってくるのです。


曼荼羅華は、適意華(てきいけ)、如意華(にょいけ)


とも訳され、その香りをかぎ、その色を見る者は


みんな悦びに包まれるといいます。


2021年5月27日木曜日

仏説阿弥陀経⑭

(本文)


その国の衆生、常に清旦(しょうたん)をもって、


各おの衣裓(えこく)をもってもろもろの


妙華(みょうけ)を盛(い)れて、


他方十万億の仏を供養す。


すなわち食時(じきじ)をもって、


還って本国に到って、飯食(ぼんじき)し


経行(きょうぎょう)す。


舎利弗(しゃりほつ)、


極楽国土にはかくの如きの


功徳荘厳(くどくしょうごん)を


成就(じょうじゅ)せり。






(現代語訳)


〈釈尊から舎利弗(しゃりほつ)に向けてのお言葉のつづき〉


「極楽の人々は、いつも清らかな夜明けには


各々が華籠を持ち、そこにたくさんの美しい華を盛って、


他の国の十万億もの仏さまに供養する。


食事の時間には、すぐに元の国に帰って食事をとり、


その後静かに散歩をするのだ。


舎利弗(しゃりほつ)よ、


極楽はこのようにすぐれた功徳で


飾られているのである」





(解説)


仏教徒にとって、仏さまに直接供養できるというのは


悦び以外の何ものでもありません。


極楽では朝早くから、採れたての華を


阿弥陀さまをはじめ、多くの仏さまへ


供養することができます。


その後帰って食事をとり、


静かに散歩します。


何とものんびりして優雅に思います。


ただ、この散歩は修行の一つです。


僧堂のほとりを心を静めて歩行往復します。


乱雑に歩くのではなく、そぞろ歩きをするのです。


2021年5月26日水曜日

仏説阿弥陀経⑮

(本文)


また次に舎利弗(しゃりほつ)、


かの国には常に種々奇妙(しゅじゅきみょう)なる


雑色(ざっしき)の鳥あり。


白鵠(びゃっこく)・孔雀(くじゃく)・


鸚鵡(おうむ)・舎利(しゃり)・


迦陵頻伽(かりょうびんが)・


共命(ぐみょう)の鳥なり。


この諸衆(もろもろ)の鳥、


昼夜六時(ちゅうやろくじ)に


和雅(わげ)の音を出(い)だす。


その音(こえ)、五根(ごこん)・


五力(ごりき)・七菩提分(しちぼだいぶん)・


八聖道分(はっしょうどうぶん)、


かくの如き等(ら)の法を


演暢(えんちょう)す。


その土(ど)の衆生、


この音(こえ)を聞きおわって、


皆悉く仏を念じ法を念じ僧を念ず。






(現代語訳)


〈釈尊から舎利弗(しゃりほつ)に向けてのお言葉のつづき〉


「また次に舎利弗(しゃりほつ)よ、


極楽には常に種々の美しく彩られた鳥がいる。


それは白鳥、クジャク、オウム、九官鳥、


迦陵頻伽(かりょうびんが)、


共命(ぐみょう)の鳥である。


これらの鳥は、昼夜六時間毎に、


優雅な鳴き声でさえずるのだ。


その鳴き声は、五根(ごこん)・五力(ごりき)・


七菩提分(しちぼだいぶん)・


八聖道分(はっしょうどうぶん)などの、


仏教の教えを説いている。


極楽の人々は、この鳴き声を聞き終わり、


誰もが仏を念じ、教えを念じ、仏教教団を念じる」


※五根(ごこん)

 覚りを実現するための五つのはたらき。

 ①信じる②努力する③記憶する

 ④精神統一する⑤智慧


※五力(ごりき)

 さとりを実現するための五つの力。

 五根(ごこん)が

 五障(欺く・怠ける・怒る・恨む・憎む)

 を打ち破るための具体的な力となったもの。

 ①信じる力②努める力③記憶する力

 ④精神統一する力⑤智慧の力


※七菩提分(しちぼだいぶん)

 覚りを実現するための七つの要素。

 ①記憶する②教えの真偽を選び分ける

 ③努力する④正しい法を喜ぶ

 ⑤心が軽やかになる⑥心を統一する

 ⑦対象への執着を捨てて心が平等になる


※八聖道分(はっしょうどうぶん)

 仏教の八つの実践法。

 ①正しい見解②正しい思惟③正しい言葉

 ④正しい行い⑤正しい生活⑥正しい努力

 ⑦正しい憶念⑧正しい瞑想





(解説)


『阿弥陀経』に登場する鳥は、


私たちの世界に存在する鳥と、


私たちが見たこともない鳥がいます。


私たちの世界に存在する鳥は、


白鳥・クジャク・オウム・九官鳥。


私たちが見たこともない鳥に


迦陵頻伽(かりょうびんが)と


共命(ぐみょう)の鳥がいます。


迦陵頻伽(かりょうびんが)は頭が人間、


そして体は鳥の姿です。


共命(ぐみょう)の鳥の方は、頭が二つある双頭一身です。


双頭は人面だけではなく、鳥の場合もあるのだそうです。


阿弥陀経では、これらの鳥は、


昼夜六時間毎に、きれいな声で鳴いて


仏の法を伝えていると説かれています。


その鳴き声を聞くと、仏を念じ、教えを念じ、


仏教教団を念じる気持ちが自然に湧いてくるのです。


迦陵頻伽(かりょうびんが)は雅楽の曲にも


登場します。


曲に合わせて羽をつけた四人の童子が


可愛く舞う姿は、極楽を思い起こさせてくれます。


2021年5月25日火曜日

仏説阿弥陀経⑯

(本文)


舎利弗、汝、この鳥は実にこれ


罪報(ざいほう)の所生(しょしょう)なりと


謂(おも)うことなかれ。


所以(ゆえん)は何(いか)ん。


かの仏の国土には


三悪趣(さんなくしゅ)なければなり。


舎利弗(しゃりほつ)、その仏の国土には、


なおし三悪道(さんなくどう)の名もなし。


何に況んや実(じつ)あらんや。


この諸もろの鳥は皆これ阿弥陀仏の


法音(ほうおん)をして


宣流(せんる)せしめんと欲して、


変化(へんげ)して作(な)す所なり。






(現代語訳)


〈釈尊から舎利弗(しゃりほつ)に向けてのお言葉のつづき〉


「舎利弗(しゃりほつ)よ、


あなたはこの鳥が、罪の報いによって


鳥に生まれ変わったのだと考えてはならない。


なぜなら、極楽には三悪道(さんなくどう)、


つまり地獄・餓鬼・畜生という


苦しみ大きい世界がないからである。


舎利弗(しゃりほつ)よ、


極楽には三悪道(さんなくどう)の名前すらない。


ましてや三悪道(さんなくどう)があるはずがない。


これらの様々な鳥は、みな阿弥陀仏の教えを


説き広めようとして、


姿を鳥に変えて現れたのである。





(解説)


仏教の世界観に六道輪廻(ろくどうりんね)があります。


すべての者は地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の


六つの世界を生まれ変わり死に変わることを


繰り返していると説きます。


この六道輪廻は苦しみ迷いの世界です。


特に地獄・餓鬼・畜生は苦しい世界で、


この三つを三悪道(さんなくどう)、


あるいは三悪趣(さんなくしゅ)、


または三塗(さんず)、三途(さんず)といいます。


迷いの世界にいながらも、極楽浄土への往生を


願い、念仏を称える者は、その命尽きる時に


阿弥陀仏がお迎えくださり、極楽浄土へと


往生することができます。


そして二度と六道で迷うことはありません。


すなわち極楽浄土は六道の外にあるのです。


また、極楽浄土の中には地獄、餓鬼、畜生という


苦しい世界はありません。


『阿弥陀経』に登場する鳥たちは、


迷いの世界の存在ではなく、


阿弥陀仏の功徳によって、私たちを導き、


極楽の往生人に法を説くために


仮に姿を現した存在なのです。




六道輪廻については


「念仏と出会うということ」の項をご参照ください。

https://hourinji.blogspot.com/search/label/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E5%AE%97%E3%81%AE%E6%95%99%E3%81%88%E7%AC%AC2%E9%83%A8%E3%80%80%E5%BF%B5%E4%BB%8F%E3%81%A8%E5%87%BA%E4%BC%9A%E3%81%86%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E3%81%93%E3%81%A8


2021年5月24日月曜日

仏説阿弥陀経⑰

(本文)


舎利弗(しゃりほつ)、


かの仏の国土には微風(みふう)吹いて、


諸もろの宝行樹(ほうごうじゅ)


及び宝羅網(ほうらもう)を動かして


微妙(みみょう)の音を出せり。


譬えば百千種(ひゃくせんじゅ)の楽(がく)を


同時に倶(とも)に作(な)すが如し。


この音を聞く者は、皆自然(じねん)に


念仏・念法(ねんぽう)・念僧の心を生ず。


舎利弗(しゃりほつ)、その仏の国土には、


かくの如きの功徳荘厳(くどくしょうごん)を


成就(じょうじゅ)せり。




(現代語訳)


〈釈尊から舎利弗(しゃりほつ)に向けてのお言葉のつづき〉


舎利弗(しゃりほつ)よ、


極楽にはそよ風が吹いていて、


多くの宝の並木や宝の網を


そよ風が吹き動かして、


素晴らしい音を出している。


その音はまるで百千種類もの楽器を


同時に演奏するようなものである。


その音を聞く者は、


誰もが自ずと仏を念じ、仏の教えを念じ、


仏教教団を念じる心が生まれる。


舎利弗(しゃりほつ)よ、


極楽はこのようにすぐれた功徳で


飾られているのである」






(解説)


極楽には常に丁度程よいそよ風が吹いていて、


その音がたくさんの楽器で演奏される


オーケストラのように響き、


身に染みわたってくるのです。


その音が素晴らしいといっても、


それは娯楽ではなく、そんな音すらも


有り難い法に聞こえてくるのです。


ですから、極楽での修行は苦しいものではなく、


とても心地よく進んでいくのです。


2021年5月23日日曜日

仏説阿弥陀経⑱

(本文)


舎利弗(しゃりほつ)、


汝が意(こころ)において云何(いかん)。


かの仏を何が故ぞ阿弥陀と号したてまつる。


舎利弗(しゃりほつ)、


かの仏の光明無量にして、


十方(じっぽう)の国を照らすに


障碍(しょうげ)する所なし。


この故に号して阿弥陀とす。




(現代語訳)


〈釈尊から舎利弗(しゃりほつ)に向けてのお言葉のつづき〉


「舎利弗(しゃりほつ)よ、


あなたは以下のことをどのように思われるか?


なぜその仏を阿弥陀とお呼びするのであろうか?


舎利弗よ、阿弥陀仏が放たれる光は無量であり、


遮られることなく、十方の国を照らしている。


だから阿弥陀とお呼びするのだ」






(解説)


ここで釈尊は舎利弗尊者(しゃりほつそんじゃ)に


問いを投げかけられます。


「なぜその仏を阿弥陀というのかわかるか?」


という問いです。


その問いに舎利弗尊者が答えられることを待たず、


釈尊はお話しになります。


「阿弥陀」と名づける理由は二つあるとおっしゃいます。


一つ目は、「阿弥陀」は「限りなき光」


という徳を収めた仏さまである、ということです。


阿弥陀仏から放たれる光は


際限なく十方の世界を照らして、


すべての者を救おうと


手を差し伸べてくださっています。


だから「限りない」という意味をもつ


「阿弥陀」と名づけるのだ、とおっしゃるのです。


2021年5月22日土曜日

仏説阿弥陀経⑲

(本文)


また舎利弗(しゃりほつ)、


かの仏の寿命及び其の人民(にんみん)、


無量無辺(むりょうむへん)


阿僧祇劫(あそうぎこう)なり、


故に阿弥陀と名づけたてまつる。







(現代語訳)


「また舎利弗(しゃりほつ)よ、


阿弥陀仏の寿命と、その国に住む人々の


寿命に限りがない。


だから阿弥陀とお呼びするのだ」






(解説)


極楽におられる仏さまを


「阿弥陀」と名づけるもう一つの理由は


寿命が「限りない」からだと説かれます。


それのみならず、極楽浄土に往生した方々も、


みんな寿命に「限りがない」のです。


そんな夢のような功徳を与えうる


仏さまなので、「限りない」という


意味の「阿弥陀」と名づけられるのです。


歴史上、「不老長寿」を目指す人は多くいました。


それは人類の理想でした。


現代、医療が発達したことにより、


不老長寿まではいかずとも、


かなりの高齢化が進んでいます。


しかしいかがでしょうか。


それを「夢のようだ」と喜ぶ人が


どれだけおられましょうか。


それどころか「なぜこんなに長生きしてしまったのか」


「早く死なせてほしい」と嘆く人の


いかに多いことでしょうか。


私たちの世界において、長寿は必ずしも


幸福ではなくなっています。


極楽に往った人は、


「あらゆる苦しみ・悩み・痛みがなく、


楽だけを受ける」のです。


その上で限りない寿命をいただけるというのですから、


こんなにありがたいことはありません。


この世でなし得ない功徳が詰め込まれている


極楽浄土こそ、目指すべき理想郷なのです。


2021年5月21日金曜日

仏説阿弥陀経⑳

(本文)


舎利弗(しゃりほつ)、


阿弥陀仏(あみだぶつ)


成仏より已来(このかた)、


今において十劫(じっこう)なり。






(現代語訳)


〈釈尊から舎利弗(しゃりほつ)に向けてのお言葉のつづき〉


「舎利弗(しゃりほつ)よ、


阿弥陀仏は仏になられてから、


十劫という年月が経っている」






(解説)


「劫(こう)」という時間の単位を


『浄土宗大辞典』には以下のように


説明されています。


①四方一由旬の鉄城に芥子けし粒を満たし、


 100年ごとに一粒取り去ることを繰り返し、


 空になっても劫は終わらない(芥子劫)。


②40里四方の石を100年ごとに細軟の布で払拭し、


 その石が磨滅しても劫は終わらない(磐石劫)。


①にしても②にしても「とてつもなく長い時間」を


表していることがわかります。


阿弥陀仏がまだ仏になられる前、


法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)として


修行されていた時、


「凡夫を救うためにはどうすればよいか」と


悩まれた時間が五劫であったといいます。


その後、師匠の世自在王仏(せじざいおうぶつ)の


御前で、四十八願を建てられてから、


兆載永劫(ちょうさいようごう)の間、


修行をされた末に成仏され、


「阿弥陀仏」となられました。


そして阿弥陀仏として成仏されてから、


今までの時間を「十劫」と説かれるのです。


「五劫」も「兆載永劫」も「十劫」も、


我々の認知できる範囲を遙かに超えた


長い時間概念で阿弥陀仏や極楽浄土は説かれています。


2021年5月20日木曜日

仏説阿弥陀経㉑

(本文)


また舎利弗(しゃりほつ)、


かの仏に無量無辺(むりょうむへん)の


声聞弟子(しょうもんでし)あり。


皆、阿羅漢(あらかん)なり。


これ算数(さんじゅ)の


能(よ)く知る所にあらず。


諸もろの菩薩衆(ぼさっしゅ)も、


またかくの如し。


舎利弗(しゃりほつ)、彼の仏の国土には、


かくの如きの功徳荘厳(くどくしょうごん)を


成就(じょうじゅ)せり。




(現代語訳)


〈釈尊から舎利弗(しゃりほつ)に向けてのお言葉のつづき〉


「 また舎利弗(しゃりほつ)よ、


阿弥陀仏には数え切れないほど多くの


声聞(しょうもん)の弟子がおられる。


彼らはみんな阿羅漢(あらかん)の境地に達している。


その人数は数えきることができない。


そして菩薩たちも、同じく数えきることができない。


舎利弗(しゃりほつ)よ、


極楽はこのようにすぐれた功徳で


飾られているのである」


※声聞(しょうもん)

 仏の教えを聞いて、自らの覚りのみを目指して修行する者。


※阿羅漢(あらかん)

 聖者が到達しうる最高位。





(解説)


「朱に交われば赤くなる」というように、


人は関わる相手や環境によって、


良くも悪くもなります。


極楽へ往くと、覚りに至った阿弥陀仏以外に、


極めて覚りに近づいている修行者がたくさんおられます。


私たちの周りにそのような方が、


現在一人でもおられましょうか。


私たちがこの世にいれば、


出会う人すべてが凡夫です。


それが極楽へ参りますと、


出会うすべての方々が覚りに向かう


素晴らしい方々ばかりです。


そんな環境に身を投じれば、私自身もその影響を受けて、


覚りに近づくスピードが増すことでしょう。


2021年5月19日水曜日

仏説阿弥陀経㉒

 (本文)


また舎利弗(しゃりほつ)、


極楽国土(ごくらっこくど)には、


衆生(しゅじょう)生ずる者は、


皆これ阿鞞跋致(あびばっち)なり。


その中に多く一生補処(いっしょうふしょ)あり。


その数、甚だ多し。


これ算数(さんじゅ)の能(よ)く知る所にあらず。


ただ、無量無辺阿僧祇劫(むりょうむへんあそうぎこう)


をもって説くべし。






(現代語訳)


〈釈尊から舎利弗(しゃりほつ)に向けてのお言葉のつづき〉


「また舎利弗よ、極楽に生まれる人々は、


みんな阿鞞跋致(あびばっち)の境地に至る。


その中にはは多く一生補処(いっしょうふしょ)の


菩薩がいる。


その人数はとても多く、数えきることができない。


限りない時間をかけねば説くことはできない。


※阿鞞跋致(あびばっち)

  不退転の境地。菩薩が仏になることが決定して、二度と退転しない位。


※一生補処(いっしょうふしょ)

  菩薩の最高位。次の生では必ず仏の位を得ることができる。






(解説)


政治家や力士が


「不退転の決意で精進します」と


おっしゃるのを聞くことがあります。


「不退転」は仏教用語で、


「仏道修行が進むばかりで退くことがない」


という意味です。


私たちの世界には数々の障害があって、


修行をするにも全く進みません。


私たちの中には、欲や腹立ちの心、自己中心的な心、


怠け心、疑い心など多くの煩悩が詰まっています。


また、外部からも様々な誘惑があります。


内からも外からも修行が妨害される環境の中で


私たちは暮らしています。


極楽へ往けば、私たちの心が調い、また周りの方々も


尊い方ばかりで、修行が退転することがないのです。


ある仏教学者の先生は「極楽は修行が極めてラクだから


極楽というのです」とおっしゃっていました。


自分も凡夫、周りもみんな凡夫という世界に住む者にとっては、


「そんな清い人ばかりの世界は窮屈だ」と


思ってしまうかもしれません。


しかしそうではありません。


「修行がラク」であり、「あらゆる苦しみ・悩み・痛み


がなく、ラクだけを受ける世界」だから極楽というのです。


窮屈な世界を極楽と名づけることはないでしょう。


煩悩だらけの私たちの想像を超えた


「究極のラク」の世界だと受け止めればよいでしょう。

2021年5月18日火曜日

仏説阿弥陀経㉓

(本文)


舎利弗(しゃりほつ)、


衆生(しゅじょう)聞かん者は、


まさに発願(ほつがん)して、


かの国に生ぜんと願ずべし。


所以(ゆえん)は何(いか)ん。


かくの如きの諸もろの


上善人(じょうぜんにん)と倶(とも)に


一処(いっしょ)に会することを得(う)ればなり。






(現代語訳)


〈釈尊から舎利弗(しゃりほつ)に向けてのお言葉のつづき〉


舎利弗(しゃりほつ)よ、


これらのことを聞いた人々は


極楽に生まれたいと願うべきである。


なぜなら、このような善い人たちと、


一緒に同じ場所にて会うことができるからである。





(解説)


極楽は死んだ後に、嫌々往く所ではありません。


「本当に素晴らしいところだから、


極楽を目指せ」と釈尊がお勧めくださっているのです。


極楽へ往くためには、「極楽へ往きたいと願い、


南無阿弥陀仏と称える」のみです。


そのように念仏を称える人が極楽へ


往きそびれることはありません。


一人も漏れることなく、100%往生は叶います。


お念仏を称えることなしに亡くなった人には


信仰を持つ者が、その方の極楽往生を願い、


「阿弥陀さま、どうかこの方をお救いください」と


念仏を称えましょう。


もしあなたが先に極楽浄土へ往き、


この世に残してきた人の先行きが心配なら、


極楽から導いてあげればよいのです。


極楽へ往けば、この世では知り合うこともなかった


素晴らしい方と出会うことができます。


また、この世で縁があった方ともお互いが


お念仏で導き合い、極楽浄土で再会することもできます。


このように「極楽」という「定まった場所」で


逢えることを「倶会一処(くえいっしょ)」と申します。


極楽浄土への往生を目指して、お念仏を称えていたら、


必ず愛する人との再会は叶います。


釈尊がちゃんと『阿弥陀経』で説いて


くださっているのですから、間違いありません。



「所求・所帰・去行」の項より


「倶会一処」

https://hourinji.blogspot.com/2020/08/blog-post_21.html


「回向」

https://hourinji.blogspot.com/2020/08/blog-post_22.html


「一蓮托生」

https://hourinji.blogspot.com/2020/08/blog-post_23.html

 


2021年5月17日月曜日

仏説阿弥陀経㉔

(本文)


舎利弗(しゃりほつ)、


少善根(しょうぜんごん)福徳(ふくとく)の


因縁をもって、かの国に


生ずることを得(う)べからず。






(現代語訳)


〈釈尊から舎利弗(しゃりほつ)に向けてのお言葉のつづき〉


舎利弗(しゃりほつ)よ、


少しばかりの功徳では、


極楽に生まれることはできない。






(解説)


何事をなすにも「目的」と「手段」の


二つが揃わなくてはなし得ません。


目的だけで手段が伴わなければ、


目的を達することはできません。


手段だけで目的がなければ、意味がありません。


それと同様、「極楽へ往生する」という目的のためには、


それに合った手段が必要です。


その手段が、私たちのわずかばかりの「善」や「福徳」


では「極楽へ往生する」という目的を達成することは


できない、と説かれているのです。


2021年5月16日日曜日

仏説阿弥陀経㉕

(本文)


舎利弗(しゃりほつ)、


もし善男子(ぜんなんし)・


善女人(ぜんにょにん)あって、


阿弥陀仏を説くを聞きて、


名号(みょうごう)を執持(しゅうじ)すること、


もしは一日・もしは二日・もしは三日・


もしは四日・もしは五日・もしは六日・


もしは七日、一心不乱なれば、


その人、命終(みょうじゅう)の時に臨んで、


阿弥陀仏、諸もろの聖衆(しょうじゅ)とともに、


その前に在す。


この人終わる時、


心(こころ)顛倒(てんどう)せず、


すなわち阿弥陀仏の極楽国土に


往生することを得(う)。






(現代語訳)


〈釈尊から舎利弗(しゃりほつ)に向けてのお言葉のつづき〉


「舎利弗(しゃりほつ)よ、


もし善良な男性や女性が、


阿弥陀仏の名前(念仏)の教えを聞いて、


念仏を称えること


もしくは一日、二日、三日、四日、五日、六日、


七日間、心を一つにして乱れなければ、


その人が臨終の時に、


阿弥陀仏がたくさんの菩薩を引き連れて、


その人の目の前に姿を現す。


この人の命が尽きる時には、


心惑わず、すぐに阿弥陀仏の極楽へ往生することができる」






(解説)


「善男子(ぜんなんし)」「善女人(ぜんにょにん)」


とは「すべての人」という意味です。


「すべての人」の中には悪人もおりますが、


どんな悪人も、自らの罪を自覚して、


極楽往生を願う時には、その志はすでに


善の方へ向かっています。


その「善男子」と「善女人」が阿弥陀仏の


本願を知り、念仏を称えるのです。


「名号を執持(しゅうじ)する」とは


「南無阿弥陀仏」と念仏を称えることです。


その念仏が例えば一日、例えば二日、


七日であってもいいのです。


あるいはその称える回数が一遍、十遍、


または千遍、万遍であってもいいのです。


時間の長短、数の多少にかかわらず、


一心不乱に称えれば、その人の命終わる時に


阿弥陀仏が多くの菩薩を引き連れてお迎えくださり、


それによって心が定まって極楽へ往生することが


できると説かれます。


「一心不乱」といっても、それは心を一つに集中するとか、


妄念雑念を消し去る、という意味ではありません。


「ただ一心に極楽往生を願って、阿弥陀さまを


疑うことなく念仏を称える心」をいうのです。


この念仏こそが「多善根(たぜんごん)」であり、


極楽往きのために阿弥陀仏が指定してくださった


「選択本願念仏(せんちゃくほんがんねんぶつ)」


なのです。


2021年5月15日土曜日

仏説阿弥陀経㉖

(本文)


舎利弗(しゃりほつ)、


我(われ)この利を見るが故に


この言(ごん)を説く。


もし衆生あって、この説を聞かん者は、


まさに発願(ほつがん)して、


かの国土に生(しょう)ずべし。






(現代語訳)


〈釈尊から舎利弗(しゃりほつ)に向けてのお言葉のつづき〉


「舎利弗(しゃりほつ)よ、


私はこのようなご利益(りやく)を見て知っているから、


このことを説くのである。


この教えを聞く者は、極楽に生まれたいという


願いを起こして、往生すべきである」






(解説)


「極楽という最高の世界があるよ」とか


「阿弥陀仏が私たちを見まもり導いてくれる」とか


「南無阿弥陀仏と称えれば必ず極楽へ往ける」と


聞いても、実際に極楽へ往くまではその確信が持てず、


ギリギリまで疑いの心を拭い去ることができません。


だから釈尊はここで、「私は極楽があり、阿弥陀仏がおられ、


念仏を称えれば極楽へ往けることを知っている」と


はっきりとおっしゃって、安心させてくださるのです。


「あなたたちは見たことがないから信じられないだろうが、


私はちゃんと見て知っているから、安心しなさい。


どうかこの教えを聞く者は極楽往生を願いなさい」と


極楽や阿弥陀仏を見る力もない私たちの


不安と疑念を拭い去ってくださるのです。


2021年5月14日金曜日

仏説阿弥陀経㉗

(本文)


舎利弗(しゃりほつ)、


我(われ)今(いま)阿弥陀仏の


不可思議功徳を讃歎(さんだん)するがごとく、


東方(とうぼう)にまた、


阿閦鞞仏(あしゅくびぶつ)、


須弥相仏(しゅみそうぶつ)、


大須弥仏(だいしゅみぶつ)、


須弥光仏(しゅみこうぶつ)、


妙音仏(みょうおんぶつ)有(ましま)す。


かくの如き等(ら)の


恒河沙数(ごうがしゃしゅ)の諸仏、


各おのその国において、


広長(こうじょう)の舌相(ぜっそう)を


出(いだ)して遍(あまね)く


三千大千世界(さんぜんだいせんせかい)に


覆(おお)いて、誠実(じょうじつ)の


言(ことば)を説きたまう。


汝等(なんじら)衆生(しゅじょう)、


まさにこの称讃(しょうさん)


不可思議功徳(ふかしぎくどく)


一切諸仏(いっさいしょぶつ)


所護念経(しょごねんぎょう)を信ずべし。







(現代語訳)


〈釈尊から舎利弗(しゃりほつ)に向けてのお言葉のつづき〉


「舎利弗(しゃりほつ)よ、


私が今、阿弥陀仏の計り知れない功徳を


誉め称えているように、


東方の世界にもまた、


阿閦鞞仏(あしゅくびぶつ)、


須弥相仏(しゅみそうぶつ)、


大須弥仏(だいしゅみぶつ)、


須弥光仏(しゅみこうぶつ)、


妙音仏(みょうおんぶつ)がおられる。


それらのガンジス川の砂の数ほどの、


数え切れないほど多くの仏さまが、


各々の国において、大きな舌を出して、


三千大千世界を覆って、


次のような真実の言葉を説くのである。


あなたがたは、まさにこの阿弥陀仏の


計り知れない功徳を讃え、


すべての仏によって護られることを説く


経典を信じなさいと」




三千大千世界についてはこちらをご参照ください

     ↓

https://hourinji.blogspot.com/2021/04/blog-post_17.html

 






(解説)


ここから先は今までとガラッと様相が変わります。


東・南・西・北・下・上におられる


仏さま方(六方の諸仏)と釈尊が、


阿弥陀仏の徳を讃え、


「念仏を称える者が必ず極楽浄土へ


往生できる」という教えが真実であると


証明してくださいます。


更に「念仏を称える者は諸仏にお護りいただける」


というご利益(りやく)が


あることが説かれるくだりです。


『阿弥陀経』のこの箇所は


六方の諸仏が登場するので


「六方段(ろっぽうだん」と呼ばれます。


また諸仏に護っていただけるので


「護念経」とお呼びすることもあります。


2021年5月13日木曜日

仏説阿弥陀経㉘

舎利弗(しゃりほつ)、


南方世界(なんぼうせかい)にも


日月燈仏(にちがっとうぶつ)、


名聞光仏(みょうもんこうぶつ)、


大焔肩仏(だいえんけんぶつ)、


須弥燈仏(しゅみとうぶつ)、


無量精進仏(むりょうしょうじんぶつ)


有(ましま)す。


かくの如き等(ら)の


恒河沙数(ごうがしゃしゅ)の諸仏、


各おのその国において、


広長(こうじょう)の舌相(ぜっそう)を


出(い)だして、遍く三千大千世界に覆いて、


誠実(じょうじつの)の言(ことば)を説きたまう。


汝等(なんじら)衆生(しゅじょう)、


まさにこの称讃(しょうさん)


不可思議功徳(ふかしぎくどく)


一切諸仏(いっさいしょぶつ)


所護念経(しょごねんぎょう)を信ずべし。






(現代語訳)


〈釈尊から舎利弗(しゃりほつ)に向けてのお言葉のつづき〉


「舎利弗(しゃりほつ)よ、


南方世界(なんぼうせかい)にも


日月燈仏(にちがっとうぶつ)、


名聞光仏(みょうもんこうぶつ)、


大焔肩仏(だいえんけんぶつ)、


須弥燈仏(しゅみとうぶつ)、


無量精進仏(むりょうしょうじんぶつ)がおられる。


それらのガンジス川の砂の数ほどの、


数え切れないほど多くの仏さまが、


各々の国において、大きな舌を出して、


三千大千世界を覆って、


次のような真実の言葉を説くのである。


あなたがたは、まさにこの阿弥陀仏の


計り知れない功徳を讃え、


すべての仏によって護られることを説く


経典を信じなさいと」






(解説)


諸仏が讃える「阿弥陀仏の不可思議功徳」とは、


極楽浄土の素晴らしさ、阿弥陀仏のお慈悲、


「すべての人々が念仏を称えることで救われる」


こと等、仏の知見をもってしても計ることが


できない功徳です。


「凡夫(ぼんぶ)が、ただ南無阿弥陀仏と称えるだけで


救われる」ということは、


困難中の困難であるはずです。


しかし阿弥陀仏の不可思議なる功徳を以てすると、


いとも容易く達成され、


しかも一人も漏れることがないというのです。


当たり前のことではない、


実に不可思議な功徳なのです。


2021年5月12日水曜日

仏説阿弥陀経㉙

(本文)


舎利弗(しゃりほつ)、


西方(さいほう)世界にも


無量寿仏(むりょうじゅぶつ)、


無量相仏(むりょうそうぶつ)、


無量幢仏(むりょうどうぶつ)、


大光仏(だいこうぶつ)、


大明仏(だいみょうぶつ)、


宝相仏(ほうそうぶつ)、


浄光仏(じょうこうぶつ)有(ましま)す。


かくの如き等(ら)の


恒河沙数(ごうがしゃしゅ)の諸仏、


各おのその国において、


広長(こうじょう)の舌相(ぜっそう)を


出(い)だして遍く三千大千世界に覆いて、


誠実(じょうじつ)の言(ことば)を説きたまう。


汝等(なんじら)衆生(しゅじょう)、


まさにこの称讃(しょうさん)


不可思議功徳(ふかしぎくどく)


一切諸仏(いっさいしょぶつ)


所護念経(しょごねんぎょう)を信ずべし。






(現代語訳)


〈釈尊から舎利弗(しゃりほつ)に向けてのお言葉のつづき〉


「舎利弗(しゃりほつ)よ、


西方世界にも


無量寿仏(むりょうじゅぶつ)、


無量相仏(むりょうそうぶつ)、


無量幢仏(むりょうどうぶつ)、


大光仏(だいこうぶつ)、


大明仏(だいみょうぶつ)、


宝相仏(ほうそうぶつ)、


浄光仏(じょうこうぶつ)がおられる。


それらのガンジス川の砂の数ほどの、


数え切れないほど多くの仏さまが、


各々の国において、大きな舌を出して、


三千大千世界を覆って、


次のような真実の言葉を説くのである。


あなたがたは、まさにこの阿弥陀仏の


計り知れない功徳を讃え、


すべての仏によって護られることを説く


経典を信じなさいと」






(解説)


この西方世界に登場する


「無量寿仏(むりょうじゅぶつ)」は


阿弥陀仏ですから、「ご自分自身を誉め讃えるのは


おかしい」として、同名の他仏である、


という説があります。


確かに煩悩を断ちきった仏が、


自惚れたり自慢して喜ぶはずはありません。


ですからここでの自讃は、当然利己心から


ご自身を誉め讃えられたのではありません。


「すべての人が救われること」をお喜びになり、


「念仏を称えれば必ず救う」ことをご自分自身からも


証明なさっている、と受け取るべきでしょう。


2021年5月11日火曜日

仏説阿弥陀経㉚

(本文)


舎利弗(しゃりほつ)、


北方(ほっぽう)世界にも


焔肩仏(えんけんぶつ)、


最勝音仏(さいしょうおんぶつ)、


難沮仏(なんそぶつ)、


日生仏(にっしょうぶつ)、


網明仏(もうみょうぶつ)有(ましま)す。


かくの如き等(ら)の


恒河沙数(ごうがしゃしゅ)の諸仏、


各おのその国において、


広長(こうじょう)の舌相(ぜっそう)を


出(い)だして遍く三千大千世界に覆いて、


誠実(じょうじつ)の言(ことば)を説きたまう。


汝等(なんじら)衆生(しゅじょう)、


まさにこの称讃(しょうさん)


不可思議功徳(ふかしぎくどく)


一切諸仏(いっさいしょぶつ)


所護念経(しょごねんぎょう)を信ずべし。






(現代語訳)


〈釈尊から舎利弗(しゃりほつ)に向けてのお言葉のつづき〉


「舎利弗(しゃりほつ)よ、


北方(ほっぽう)世界にも


焔肩仏(えんけんぶつ)、


最勝音仏(さいしょうおんぶつ)、


難沮仏(なんそぶつ)、


日生仏(にっしょうぶつ)、


網明仏(もうみょうぶつ)がおられる。


それらのガンジス川の砂の数ほどの、


数え切れないほど多くの仏さまが、


各々の国において、大きな舌を出して、


三千大千世界を覆って、


次のような真実の言葉を説くのである。


あなたがたは、まさにこの阿弥陀仏の


計り知れない功徳を讃え、


すべての仏によって護られることを説く


経典を信じなさいと」






(解説)


諸仏の多さを表す


「恒河沙(ごうがしゃ)」は「ガンジス川の砂」


という意味です。


お経の中には、とてつもなく多い、大きい、長い


ものを色んな言葉で表現されています。


数字の単位にも仏教用語が多く使われています。


一・十・百・千・万・億・兆・京(けい)・垓(がい)・


抒(じょ)・穣(じょう)・溝(こう)・澗(かん)・


正(せい)・載(さい)・極(ごく)・


恒河沙(こうがしゃ)・阿僧祇(あそうぎ)・


那由他(なゆた)・不可思議(ふかしぎ)・


無量大数(むりょうたいすう)


これらはすべて数字の単位です。


一般に使われるのは京(けい)ぐらいまででしょうが、


それより大きい単位がこんなにたくさんあります。


『阿弥陀経』にも出る「恒河沙(こうがしゃ)」以上は


すべて仏典に出てまいります。


「数え切れないほど多く」の仏さまが、


阿弥陀仏を賞賛し、念仏の教えが間違いないことを


証明してくださっているのです。


2021年5月10日月曜日

仏説阿弥陀経㉛

(本文)


舎利弗(しゃりほつ)、


下方(げほう)世界にも師子仏(ししぶつ)、


名聞仏(みょうもんぶつ)、


名光仏(みょうこうぶつ)、


達摩仏(だつまぶつ)、法幢仏(ほうどうぶつ)、


持法仏(じほうぶつ)有(ましま)す。


かくの如き等(ら)の


恒河沙数(ごうがしゃしゅ)の諸仏、


各おのその国において、広長(こうじょう)の


舌相(ぜっそう)を出(い)だして


遍く三千大千世界に覆いて、


誠実(じょうじつ)の言(ことば)を説きたまう。


汝等(なんじら)衆生(しゅじょう)、


まさにこの称讃(しょうさん)


不可思議功徳(ふかしぎくどく)


一切諸仏(いっさいしょぶつ)


所護念経(しょうごねんぎょう)を信ずべし。






(現代語訳)


〈釈尊から舎利弗(しゃりほつ)に向けてのお言葉のつづき〉


「舎利弗(しゃりほつ)よ、


下方(げほう)世界にも師子仏(ししぶつ)、


名聞仏(みょうもんぶつ)、


名光仏(みょうこうぶつ)、


達摩仏(だつまぶつ)、法幢仏(ほうどうぶつ)、


持法仏(じほうぶつ)がおられる。


それらのガンジス川の砂の数ほどの、


数え切れないほど多くの仏さまが、


各々の国において、大きな舌を出して、


三千大千世界を覆って、


次のような真実の言葉を説くのである。


あなたがたは、まさにこの阿弥陀仏の


計り知れない功徳を讃え、


すべての仏によって護られることを説く


経典を信じなさいと」






(解説)


諸仏は「この教えが間違いない」ということを


「大きな舌を出して、三千大千世界を覆う」


という変わった行動で示されます。


「嘘をついたら閻魔さんに舌を抜かれるよ」と


子供の頃親から言われたものです。


舌は「真実」の象徴なのです。


善導大師(ぜんどうだいし)は、


諸仏が舌を出して誠を証明されるという行為を


「もし念仏を称えて極楽往生ができなければ、


諸仏は舌を出して二度と口に戻すことがない。


そうすれば舌はそのうち腐って爛れ落ちて


しまうであろう」という表現である、


とおっしゃっています。


諸仏は真実を表す「舌」に誓って


念仏を称えれば極楽へ往生できることが


間違いない、とおっしゃっているのです。


2021年5月9日日曜日

仏説阿弥陀経㉜

(本文)


舎利弗(しゃりほつ)、


上方(じょうほう)世界にも


梵音仏(ぼんのんぶつ)、


宿王仏(しゅくおうぶつ)、


香上仏(こうじょうぶつ)、


香光仏(こうこうぶつ)、


大焔肩仏(だいえんけんぶつ)、


雑色宝華厳身仏(ざっしきほうけごんしんぶつ)、


娑羅樹王仏(しゃらじゅおうぶつ)、


宝華徳仏(ほうけとくぶつ)、


見一切義仏(けんいっさいぎぶつ)、


如須弥山仏(にょしゅみせんぶつ)有(ましま)す。


かくの如き等(ら)の


恒河沙数(ごうがしゃしゅ)の諸仏、


各おのその国において、広長(こうじょう)の


舌相(ぜっそう)を出(い)だして


遍く三千大千世界に覆いて、


誠実(じょうじつ)の言(ことば)を説きたまう。


汝等(なんじら)衆生(しゅじょう)、


まさにこの称讃(しょうさん)


不可思議功徳(ふかしぎくどく)


一切諸仏(いっさいしょぶつ)


所護念経(しょごねんぎょう)を信ずべし。






(現代語訳)


〈釈尊から舎利弗(しゃりほつ)に向けてのお言葉のつづき〉


「舎利弗(しゃりほつ)よ、


上方(じょうほう)世界にも


梵音仏(ぼんのんぶつ)、


宿王仏(しゅくおうぶつ)、


香上仏(こうじょうぶつ)、


香光仏(こうこうぶつ)、


大焔肩仏(だいえんけんぶつ)、


雑色宝華厳身仏(ざっしきほうけごんしんぶつ)、


娑羅樹王仏(しゃらじゅおうぶつ)、


宝華徳仏(ほうけとくぶつ)、


見一切義仏(けんいっさいぎぶつ)、


如須弥山仏(にょしゅみせんぶつ)がおられる。


それらのガンジス川の砂の数ほどの、


数え切れないほど多くの仏さまが、


各々の国において、大きな舌を出して、


三千大千世界を覆って、


次のような真実の言葉を説くのである。


あなたがたは、まさにこの阿弥陀仏の


計り知れない功徳を讃え、


すべての仏によって護られることを説く


経典を信じなさいと」






(解説)


諸仏がこれほどまでして


「念仏を称えれば極楽往生間違いなし」と


証明するのは、「疑う人」がたくさんいるからだ、


と法然上人はおっしゃっています。


その「疑い」には二種類あります。


一つには「極楽浄土の存在」、


もう一つは「凡夫(ぼんぶ)の往生」です。


また、諸仏が証明なさる根拠は


「阿弥陀仏の本願であるから」


だとおっしゃっています。


阿弥陀仏が自ら「称えれば救う」とおっしゃり、


釈尊と諸仏が「間違いない」とおっしゃっているのです。


「弥陀・釈迦・諸仏」が念仏による極楽往生を


勧めてくださっているのですから、


どうかそれを信じてお念仏を称えましょう。


2021年5月8日土曜日

仏説阿弥陀経㉝

(本文)


舎利弗(しゃりほつ)、


汝が意(こころ)において云何(いかん)。


何が故ぞ名づけて一切諸仏(いっさいしょぶつ)


所護念経(しょごねんぎょう)とする。






(現代語訳)


〈釈尊から舎利弗(しゃりほつ)に向けてのお言葉のつづき〉


「舎利弗(しゃりほつ)よ、


あなたはこのことをどう思うか?


なぜこの経典を、〈すべての仏に護られる経〉と


名づけるのか。






(解説)


念仏を称える目的は「極楽浄土へ往生すること」です。


この世は苦しみ悩み多き娑婆世界です。


念仏を称えて、「この世界での寿命が尽きたら、


極楽浄土へ往生しよう」と目指すのです。


しかし、この世での様々なトラブルに対しては


不安があります。


そのような私たちが念仏を称えていたら、


阿弥陀仏が光を放って我々を照らし、


お護りくださるのみならず、


諸仏も護ってくださるというのです。


念仏を称える者は、現世において諸仏に護られ、


臨終の時には阿弥陀仏がお迎えくださいます。


これが念仏者の「現世利益(げんぜりやく)」です。


ここで注意が必要なのは、


「念仏者の目的」です。


目的は「極楽往生」だとしっかりと思い定めて、


「念仏を称えれば諸仏が護ってくださり、


いずれ命尽きれば極楽浄土へ往生できる」


と思い定めて、この世をしっかりと生き抜くのです。


そのような「心の安定」こそが「現世利益」だとも


言えるでしょう。


2021年5月7日金曜日

仏説阿弥陀経㉞

(本文)


舎利弗(しゃりほつ)、


もし善男子(ぜんなんし)・


善女人(ぜんにょにん)あって、


この諸仏所説(しょぶつしょせつ)の名(みな)


及び経の名(な)を聞かん者は、


この諸もろの善男子(ぜんなんし)・


善女人(ぜんにょにん)、


皆(みな)一切諸仏(いっさいしょぶつ)に


共に護念せられて、


皆(みな)阿耨多羅(あのくたら)


三藐三菩提(さんみゃくさんぼだい)を


退転せざることを得(う)。


この故に、舎利弗(しゃりほつ)、


汝等皆、まさに我が語、


及び諸仏の所説をを信受すべし。






(現代語訳)


〈釈尊から舎利弗(しゃりほつ)に向けてのお言葉のつづき〉


「舎利弗(しゃりほつ)よ、


もし善良な男性・女性が、


この諸仏が説かれる阿弥陀仏のお名前、


およびお経の名を聞いたら、


この善良な男性・女性たちは、


みんなすべての仏に一緒に護られて、


みんなこの上なく正しい覚りから、


退転しない境地に達するのである。


そうであるから舎利弗よ、


あなたたちはみんな、私の言葉と


すべての仏が説かれる教えを


素直に信じ受け入れるべきである」






(解説)


釈尊が舎利弗尊者(しゃりほつそんじゃ)に


「舎利弗及び汝らみな」とおっしゃったのは、


舎利弗尊者とその場に連なる仏弟子たちのみならず、


後の世の私たちもその対象に


入れてくださっているからです。


「念仏を称える者は現世はこのように諸仏から


護られ、来世は必ず極楽浄土へ往生する」ことを


「舎利弗及び汝らみな」に対して


「信受(しんじゅ)すべし」とおっしゃているのです。


「信受」とは「素直に信じて受け入れる」ことです。


我々はかくも疑い多き者ですから、


これほどまでに手厚くフォローしてくださっているのです。


2021年5月6日木曜日

仏説阿弥陀経㉟

(本文)


舎利弗(しゃりほつ)、


もし人あって、すでに発願(ほつがん)し、


今発願し、まさに発願して


阿弥陀仏国に生ぜんと欲っせん者は、


この諸人等、皆(みな)


阿耨多羅(あのくたら)


三藐三菩提(さんみゃくさんぼだい)を


退転せざることを得て、かの国土において、


もしはすでに生じ、もしは今生じ、


もしはまさに生ぜん。


この故に舎利弗(しゃりほつ)、


諸もろの善男子(ぜんなんし)・


善女人(ぜんにょにん)、


もし信ずることあらん者は、


まさに発願(ほつがん)して、


かの国土に生ずべし。






(現代語訳)


〈釈尊から舎利弗(しゃりほつ)に向けてのお言葉のつづき〉


「舎利弗(しゃりほつ)よ、


もし人々が、かつてすでに極楽に生まれたいと願い、


あるいは今極楽に生まれたいと願い、


あるいは未来になってから極楽に生まれたいと


願ったなら、そういう人々はみんな、


この上なく正しい覚りから退転しない境地に達して、


あるいは過去に、あるいは今、あるいは未来に


極楽に生まれることであろう。


そうであるから舎利弗よ、


多くの善良な男性・女性が信じるならば、


極楽に生まれたいと願いを起こし、


往生することができるであろう。






(解説)


「念仏を称える者が極楽浄土へ往生することは


間違いない」ということを繰り返し説かれました。


ですから過去に極楽浄土に往生を願った者は


過去にすでに極楽浄土へ往生しています。


今願う者は、今の人生を終えた後、


極楽浄土へ往生します。


未来に極楽往生を願う人は、


その人生を終えた後、極楽浄土へ往生します。


世には若くして亡くなる人もあり、


長寿の人もあります。


それはわかっていても、


愛する人の死は受け入れがたいものです。


「なぜこの人がこんなに早く


亡くならなくてはならないのだ!」


と打ち震えるしかありません。


ただ言えることは、


お念仏を称えてその方に回向し、


自身も極楽往生を願って念仏を称えるならば、


極楽へ往く時期は異なっても、


必ず同じ極楽に往き、そこで逢えるということです。


その極楽浄土は「あらゆる苦しみ・悩み・痛み」がなく、


「もろもろの楽だけを受ける」世界です。


だから、辛くても悲しくても


「極楽往生を願い、念仏を称える」ことを


お勧めするのです。



「回向」について

https://hourinji.blogspot.com/2020/08/blog-post_22.html


2021年5月5日水曜日

仏説阿弥陀経㊱

(本文)


舎利弗(しゃりほつ)、


我今、諸仏の不可思議功徳を称讃するがごとく、


かの諸仏等も、また我が不可思議功徳を称説して、


この言(ことば)を作(な)したまわく。






(現代語訳)


〈釈尊から舎利弗(しゃりほつ)に向けてのお言葉のつづき〉


「舎利弗(しゃりほつ)よ、


私が今、諸仏の計り知れない功徳を


誉め讃えるように、その諸仏たちもまた


私の計り知れない功徳を誉め讃えて


このように言うのだ」






(解説)


釈尊は先に「素直に信じて受け入れること」を説き、


次に「極楽往生を願う」ことをお勧めくださいました。


その結びとして、釈尊は諸仏が「念仏による極楽往生を


賞賛されたこと」「念仏者を護ること」を賞賛されます。


また、諸仏は釈尊が


「この世において、この信じがたい教えを説くこと」を


賞賛されるのです。


仏さま同士はお互いがお互いを認め合い、


賞賛し合い、様々な角度から


我々を導いてくださるのです。


2021年5月4日火曜日

仏説阿弥陀経㊲

 (本文)


釈迦牟尼仏、


能(よ)く甚難希有(じんなんけう)の事をなして、


能(よ)く娑婆(しゃば)国土、


五濁悪世(ごじょくあくせ)、


劫濁(こうじょく)・見濁(けんじょく)・


煩悩濁(ぼんのうじょく)・


衆生濁(しゅじょうじょく)・


命濁(みょうじょく)の中において、


阿耨多羅(あのくたら)


三藐三菩提(さんみゃくさんぼだい)を得て、


諸もろの衆生のために、


この一切世間難信(なんしん)の法を説くと。






(現代語訳)


〈釈尊から舎利弗(しゃりほつ)に向けてのお言葉のつづき〉


「釈迦牟尼仏は、非常に難しいことを成し遂げられた。


そしてこの現実の世界の


濁りきった悪い世の、


時代が乱れ、思想が乱れ、煩悩が盛んになり、


人々の資質が低下して仏教の教えを理解できず、


人の寿命が短くなる、というひどい状態の中、


この上なく正しい覚りを得て、


多くの人々のために、


世間が信じがたい教えを説かれるのだ、と」






(解説)


「念仏による極楽往生を疑う人」にも


二種類あるといいます。


一方は「無智の者」で、もう一方は「有智の者」です。


「無智の者」はこの世での快楽を追い求め、


「元気な間に美味しいものを食べ、


仲の良い人と旅行に行くことが幸せ。


死んだらしまい」と言います。


そのような価値観の人は、老い衰え、病になると


「不幸せ」になるのです。


誰だって生き続けることや元気であり続けることは


できません。


でも極楽往生を願う者は、命が尽きた後に


「あらゆる苦しみ・悩み・痛みなく、


楽だけを受ける世界」があることを知っています。


だから念仏を称えてしっかりと最後まで


生き切ることができるのです。


また、「有智の者」は「仏に頼らず自分の力で」と


自力に執着します。


自分の力で苦しみから逃れ出ることができれば


それでいいのですが、仏はそれが極めて難しいことを


ご存じですから、お念仏を勧めてくださるのです。


「信じて称えるだけ」という極めて易しい教えですが、


その「信じる」ことは意外に難しいのです。


ですから繰り返し繰り返し「信ぜよ」と


お勧めくださるのです。


2021年5月3日月曜日

仏説阿弥陀経㊳

(本文)


舎利弗(しゃりほつ)、まさに知るべし。


我(われ)五濁悪世(ごじょくあくせ)において、


この難事(なんじ)を行じて、


阿耨多羅(あのくたら)


三藐三菩提(さんみゃくさんぼだい)を得て、


一切世間の為に、この難信(なんしん)の法を説く。


これを甚難(じんなん)とす。






(現代語訳)


〈釈尊から舎利弗(しゃりほつ)に向けてのお言葉のつづき〉


「舎利弗(しゃりほつ)よ、よく知りなさい。


私は濁りきった悪い世において、


この非常に難しいことを成し遂げ、


この上なく正しい覚りを得て、


世界中の人々のために、


この信じがたい教えを説くのだ。


これは非常に困難なことである」


〈釈尊から舎利弗に向けてのお言葉はここまで〉






(解説)


『阿弥陀経』には自らの教えを「難信の法」と


説かれています。


先に「極楽浄土の存在のへの疑い」と


「凡夫(ぼんぶ)が往生できることへの疑い」の


二つがあると申しました。


また疑う人に「無智の者」と「有智の者」があると


申し上げました。


私の恩師はこの「難信の法」は


「信じがたいほど有り難い法だと受け止めよ」と


おっしゃっていました。


「そんな素晴らしい極楽浄土なんてあるはずがない」


というのは裏を返せば、「そんな素晴らしい世界が


あるならば行きたい」ということでしょう。


「凡夫が往生できるはずがない」というのは、


逆に言えば「凡夫が極楽へ行けるなんて、


そんな有り難いことはない」ということでしょう。


世間の常識では計り知れないのが仏の慈悲です。


弥陀・釈迦・諸仏が口を揃えてお勧めくださる、


「信じがたいほど有り難い法」を


素直に信じて受け入れたいものです。


2021年5月2日日曜日

仏説阿弥陀経㊴

(本文)


仏、この経を説きおわりたもうに、


舎利弗(しゃりほつ)及び諸もろの比丘(びく)、


一切世間、天(てん)・人(にん)・


阿修羅等(あしゅらとう)、


仏の所説を聞きて。


歓喜(かんぎ)し信受(しんじゅ)して、


礼(らい)を作(な)して去りき。


仏説阿弥陀経 (ぶっせつあみだきょう)






(現代語訳)


釈尊がこの経典を説き終わられると、


舎利弗(しゃりほつ)および多くの僧侶たち、


そしてあらゆる世界の


天人・人・阿修羅などが、


釈尊が説かれる教えを聞いて、


大変喜び、そんお教えを素直に受け取り、


釈尊に礼拝して去って行かれた。


釈尊が説かれた『阿弥陀経』




(解説)


この『阿弥陀経』は釈尊が誰かからの


質問を受けて説き出されたのではありません。


自ら「この法を説いてやりたい」とのご意志から


説いてくださったお経です。


内容の殆どが釈尊が


舎利弗尊者(しゃりほつそんじゃ)に


聴衆を代表させて、「舎利弗よ」と


繰り返し呼びかけながら説かれました。


この前段までがそのようにして説かれた教えです。


最後の段は結びです。


教えを聴いた仏弟子、天人、阿修羅、菩薩にいたるまで


「なんと有り難い教えだ」と悦びに満たされます。


そして「弥陀・釈迦・諸仏がお勧めくださる教え」を


素直に信じ受け入れて、釈尊に礼拝(らいはい)して


この座を去ってゆく場面を描いて締めくくられるのです。


私たちもこのみ教えに出会えたことを悦び、


極楽往生を願って念仏を称え、この世での


寿命尽きる時までしっかりと生き切りましょう。


(『阿弥陀経』の項終わる)

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