2020年7月31日金曜日

無明④(四法印)

無常であるが故に、10年前はもちろんのこと、

一瞬前の私も「今の私」とは異なります。

10年経って突然変わることもありますが、

殆どのものは徐々に徐々に変化しています。

「わたし」「あなた」と言い合い、

お互いを「同じ人」と思っていますが、

実はお互いが変化し続けています。

だから仲良くしたり喧嘩したり

出会ったり別れたりします。

それなのに「自分はこういう者」「あの人はこういう人」

と固定した見方しかできないのが我々でしょう。

その「わたし」も「あなた」も

決して固定したものではなく、移り変わります。

どの人も物もすべて変わらないものはない。

「変わらない我」はないので、

これを「無我」と言います。

ここでいう「」というのは

不変の実体」という意味です。

すべてのものに「不変の実体」はないので

「無我」なのです。

すべてのものは移り変わるのに

「移り変わって欲しくない」と思い通りに

しようとする自分がいます。

身体が老いていくのにそれを認めたくない。

病になった自分を認めたくない。

もちろん「自らの死」を認めたくない。

でもすべては移り変わってゆき、

「老い」も「病」も「死」も

必ずすべての人に訪れます。

その「思い通りにならないこと」が「苦」です

「苦」には「不安」とか、「悩み」とか、

「不快」とか、「喜ばしくないこと」とか、

「辛いこと」など色んな意味が含まれます。

私にとっての「好ましくないあり方」です。

この「無常」「無我」「苦」

「三法印(さんぼういん)」といいます。

仏教の核ともいえる「三つの教え」です。

それと逆が「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」です。

「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」は、

仏教における究極の目的です。

あらゆる苦しみ悩みから抜け出した、

「静かな安楽の境地」です。

「三法印(さんぼういん)」に

「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」を加えて

「四法印(しほういん)」といいます。

「無常」「無我」「苦」のあり方がしっかりとわかり、

「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」に至ることが

できればよいのですが、果たして私たちに

それができるのでしょうか。

「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」の境地に

至るためにはあらゆる「執着(しゅうじゃく)」を

断ち切らねばなりません。

『苦の探求』
蜂屋賢喜代


2020年7月30日木曜日

無明⑤(自分の〇〇)

私たちは「自分のため」だけに生きています。

「そんなことはありません。

私は自分の家族のために生きているのです」

という方もおられるでしょう。

しかしそれは「自分の家族」です。

あくまで「自分」という「枠」の中に

「家族」を取り込んでいるだけです。

私たちは「自分」という枠の中には

まず「自分」を入れます。

そしてこの枠の中の「自分」を思い通りにしようとします。

病気になったら「病気になったのだ」

と思えばいいのですが、そうはいきません。

「何でこんなことになったの?」と

「自分が思う自分」にしようとします。

でもそれは思い通りにならないので苦しみます。

「老いていく自分」は「自分が思う自分」

ではないので、「若くありたい」

とコントロールしようとします。

でもそんなことが思い通りになるはずがありません。

「自分」という枠はどんどん広がります。

「自分の子」を完全に囲い、

他人の子とは明らかに区別します。

そして「自分の子」を自分の思い通りに

コントロールしようとします。

しかもやっかいなことに、「ウチの子のため」だと

思い込んでいます。
 
場合によっては大人になってから

精神的に辛い日々が続き、その原因を探ったら

実は「自分の母親のエゴに苦しめられていた」

ということもかなりあるといいます。

しかし「あの優しかった母親が原因のはずがない」

と本人も思い込んでいますし、

母親も「ウチの子のために」と思っていますから、

自分が原因だとは気づきにくいというのです。
 
子にとって親は「自分の親」です。

他の大人には丁寧に接しても、

「自分の親」は自分の「枠」の中にいますから、

多少暴言を吐いても許されます。

そうやってお互いを傷つけ合うのです。
 
「私は家族も大事ですが、

会社がよくなるようにと思って日々頑張っています」

という方もおられるでしょう。

しかしそれも「自分の会社」です。

勤める会社や母校の評価が自分の

アイデンティティーになります。

母校を馬鹿にされたら、まるで

自分が馬鹿にされたように感じるのは、

学校をも自分の中に取り込んでしまうからです。
 
「外国が日本のことをないがしろにするのは許せない!」

という「愛国心」も同じです。

「自分の国」です。
 
「愛」という言葉は仏教用語では

「執着(しゅうじゃく)」を意味します。

「執着」は「煩悩」です。

我々の苦しみの原因です。
 
「自分の」という「枠」は即ち

「煩悩」なのです。

ですから、あらゆる苦しみ迷いから逃れるためには、

この「枠」たる「煩悩(ぼんのう)」を

取り去ればよいのです。

しかし私たちが「枠」を取り去ることは非常に困難です。

『観無量寿経を語る』
佐藤春夫


2020年7月29日水曜日

無明⑥(凡夫)


すべては移り変わる。

私も家族も永遠ではない。

「無常」です。

無常ゆえにすべての変化を受け入れる。

私自身も常に変化するから「変わらない我」はない。

「無我」です。

無常であり無我であるから、

すべてのものは思い通りになりません。

「苦」です。

このような「真理」を頭ではなんとか理解しても、

本当に理解することがなかなかできないのが私たちです。

「煩悩」が邪魔をするのです。

その煩悩を持ち合わせた私たちのことを

「凡夫(ぼんぶ)」と申します。

仏教には色んな教えがあります。

インドから始まる仏教の多くの教えでは、

煩悩を断ちきって、苦しみから出ようと説きます。

それができる人はその道を行けばよいでしょう。

しかし「誰でも必ず死ぬ」という

そんな単純なことさえも分からない、

煩悩から逃れられない私です。

無常とか、無我という真理は頭の中では理解できます。

「すべてのものは移り変わる」

そんなことは当たり前です。

すべてのものは移り変わるから、

私も私の妻も、私の子供も友人も

知り合いもみんな常に変化している。

だからみんな健康であり続けることは不可能である。

みんなが生き続けることも不可能である。

急に誰かが死ぬかも知れない。

それが自分かも知れないし、最愛の人かも知れない。

そういう可能性は常にある。

そんなことは頭では誰でもがわかりきっていることです。

けれども、「自分が突然死ぬのを認められるか?」

と問われると、どうでしょうか。

いつか死ぬのはわかっていても

今死ぬとは思っていません。

ましてや、自分の息子が今日死ぬなんて、

絶対に認めたくありません。

そんなことを考えたくもありません。

『悪人正機説』
梶村昇


2020年7月28日火曜日

無明⑦(自分に対する執着)

遠い地での災害や、外国の戦争のニュースを観ると

「気の毒に」と思います。

有名人の死を知って、「あの人も亡くなったのだな」と

寂しく思います。

その災害が起こった遠い地に、

戦争が起こっている外国に友人や親戚がいる、

となると突然身近に感じます。

詳しくニュースを調べ、共通の知人に連絡をとり、

そわそわとします。

もし、その地にいる人が「自分の子」であったら、

そわそわするどころではないでしょう。

いてもたってもいられなくなります。

こどもの安否を思うと胸が締め付けられることでしょう。

「自分の子」「自分の家族」という

「自分の○○」のことになると、

私たちは理性を失います。

「自分の子」に災害が降りかかったら

「代わってやりたい!」と思うかもしれません。

自分の子が苦しんでいたら、

「自分が同じ目に遭う方がマシだ」と思うかもしれません。

「自分の」という執着(しゅうじゃく)が

強ければ強いほど、その苦しみは強くなります。

『法然の衝撃』
阿満利麿


2020年7月27日月曜日

無明⑧(無明)

「無常」「無我」「苦」というのは、

認めたいかどうかは別にしても真理です。

考えるのが嫌でも常にすべてのものは変化しています。

分かっているつもりでもそれを本当の意味で

理解できないことを「無明(むみょう)」といいます。

「道理に」「明るく無い」から

「無明(むみょう)」です。

これは煩悩の根本です。

浄土宗のお念仏の教えは

その煩悩をどうすることもできない

「凡夫(ぼんぶ)」のために説かれた教えなのです。

阿弥陀さまが、「生きている限り老いていくのに、

人々は老いたくない老いたくないと苦しんでいる。

生きていれば病にもなるのに

病気になりたくない、なりたくないと

無常を認められず苦しんでいる。

いつか必ず死に、愛する人とも

別れなくてはならないのに、

死にたくない、死んで欲しくない、と苦しんでいる。

真理に逆らって、どうにもならないことを認められず、

苦しんでいる者を救うにはどうしたらよいか?」

と悩まれた末に極楽浄土という世界を作って、

南無阿弥陀仏と唱える者を救うと誓ってくださいました。

他者が苦しむ姿は「他人事(ひとごと)」

ではないのです。

自分の身に降りかかったら、きっと同じように

苦しむことでしょう。

無常・無我を認められず「苦」を背負うことでしょう。

そのような「無明(むみょう)」の私たちに

「我が名を呼ぶ者を救う」と手を差し伸べてくださった、

阿弥陀仏の本願を本当にありがたいと思い、

皆さまにもお念仏をお勧めするのです。

『法然 イエスの面影をしのばせる人』
井上洋治


2020年7月25日土曜日

念仏と出会うということ①(六道輪廻)

「仏教入門」で「仏教の目的は苦からの解脱である」

と申し上げました。

そして

1,この人生におけるあらゆる「思い通りにならないこと」

2,「苦しみを味わう原因は煩悩にあること」

3,「苦しみから逃れる術は煩悩を断つことである」

4,「そのために仏道修行がある」

という四項目についてお伝えしました。

ただ、仏教でいうところの「苦」というのは

「思い通りにならない」という意味で、

このことは「今のこの人生」だけのことではありません。

死を迎えたらまた次の生があり、

また次の生があり、と延々と

「生まれては死に」を繰り返すというのです。

私たちには前世があり、

そして死んだ後も後世(ごせ)がある。

後世(ごせ)とはいわゆる来世のことです。

命の始まりを辿っても始まりはない。

これを文字通り「無始」(むし)といいます。

終わりを辿っても終わりはない。

「無終」(むじゅう)といいます。

始まりはなく終わりはない。

「無始無終」(むしむじゅう)なのです。

そして前世や後世(ごせ)といっても、

決して人間であったとは限らないといいます。

もしかしたら前世は地獄にいたかも知れない。

今の行いが悪ければ、

後世(ごせ)は餓鬼道(がきどう)で苦しむかも知れない。

そういう苦しみ、迷いの世界を

延々経巡ってきた結果、今私たちは

人間に生まれてきたということです。

このように地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天の

六つの世界を生まれ変わり死に変わりくり返す。

このことを「六道輪廻」(ろくどうりんね)と申します。

今私は人間として生まれ、

その真っ最中にいるというのです。

『ぼくを探しに』
シルヴァスタイン

2020年7月24日金曜日

念仏と出会うということ②(地獄・餓鬼・畜生)

「地獄」とは、苦しみしかない世界です。

人間の世界は楽しみもあるでしょう。

しかし地獄は苦しみしかないのです。

「餓鬼」とは、飢えに苦しみ続ける世界です。

絶えずお腹が減って仕方がないのですが、

食べ物を食べようとすると

それが火に変わって、肌を焦がします。

いつも喉が渇いているのですが、

飲み物を飲もうとするとそれが

熱湯に変わってやけどをしてしまうのです。

いつもお腹が減っていて、

目の前に食べ物があるのに食べることが

できない世界が餓鬼の世界です。

我々の目には見えませんが、そのような「餓鬼」が

そこらじゅうにいるというのです。

そのような「餓鬼」に食べ物や飲み物を施し、

彼らの仏縁を結んで供養する法要を「施餓鬼」(せがき)

といいます。

施餓鬼法要ではこの「餓鬼」に施したことによって

得られる功徳をすでに極楽浄土におられる

自分の大切な方のために回向(振り向ける)ために、

「塔婆回向」をしています。

「畜生」は動物の世界です。

野生の動物は一瞬一瞬が死と隣り合わせです。

いつなんどき襲われるかわかりません。

家畜は人に食べられるためだけに生かされ、

小屋に詰め込まれてエサを与えられます。

そして食べ頃になったら殺されます。

ペットは自由を奪われて、

飼い主のコントロール下で一生を過ごします。

この地獄、餓鬼、畜生の三つが、

六道の中でも特に辛い世界なので、

これを「三悪道」といいます。

三悪道は「三途」ともいいます。

「三途の川」というのを聞かれたことはありませんか。

あれは三悪道へ渡る川なのです。

『地獄と極楽』
監修・勝崎裕彦


2020年7月23日木曜日

念仏と出会うということ③(修羅・人・天)

「修羅」というのは殺し合いに明け暮れる世界です。

憎しみ合い、殺し合うことを繰り返す世界です。

「人」の世界はどうでしょうか。

四苦八苦の世界です。

それでも「幸せもあるじゃないか」とも思います。

しかしそもそも幸せって何でしょうか?

 大きな病気をされた方が、治ったら

「生きているだけで幸せです」とおっしゃいます。

でもしばらくすると不満を言い出します。

「家族が健康でさえあれば幸せです」と言う人は

多くおられます。

私もその一人です。

一見ささやかな望みのようですが、

よくよく考えると、

実は絶対に実現しない望みです。

人は生きていたら必ず病気になり、老い、死にます。

自分の家族だけその四苦八苦から逃れられることは

できないと気づかされます。

健康・お金・家族・生きること、

そういったすべていつか必ず失うものを

幸せだと思っていると、必ず不幸になる

というのは言い過ぎでしょうか。

我々が幸せだと思っているものは

すべて相対的な幸せです。

喉が渇いて死にそうな時には

一杯の水を飲むだけでも幸せです。

でも喉の渇きが収まったらもう水は要りません。

ですから水を飲むこと=幸せではありません。

「苦あれば楽あり」というようなものは

本当の楽ではありません。

つかんだと思ったら消える。

「幸せとは何?」の答えは「今が幸せ!」

とその一瞬を幸せと思う以外にないのかもしれません。。

そうは言っても自分自身に

思いがけなく辛いことが起こった時に

本当にそう思えるのか?と自問すると、

決して「はい」と答えることのできない自分があります。

仏教の目的は幸せを追い求めるのではなく、

苦から解脱することです。

我々の苦の原因は我々自身の煩悩にあるのだ、

と仏教では説きます。

煩悩につきましてはまたそのうちお伝えします。

今はまず、煩悩をコントロールできず、

相対的な幸せを求める人は、実は幸せになれない

という厳しい現実に目を向けてみましょう。

そこに目を向けると、「このままでは私たちは

絶対に幸せになれない」というとても怖い現実を

見ていかなくてはなりません。

だから仏教を学び、信じていくのです。

それを少しずつ申し上げていきます。

「天」は快楽の世界です。

快楽とは何でしょうか。

もし「毎日酒を飲み、美味しいものを食べ、

きれいな女性に囲まれて、あるいは美男子に……」

そのような「快楽を求める」という生き方が

本当に幸せなのかどうかも考えてみる

必要があるでしょう。

そして天であっても寿命はあります。

人間とは比べものにならないほどの

長命だそうですが、それでもいつか死を迎えます。

生きている間快楽な分、

「死にたくない」と思う心は

人間がそう思うよりもずっと強く、

大きな苦しみを伴うといいます。

絵本『地獄』
監修・宮次男


2020年7月22日水曜日

念仏と出会うということ④(輪廻するとはどういうことか)

この六つの世界、「六道で」一生を全うしたら、

また次の世界に生まれ変わるというのが

六道輪廻という教えです。

仏教の前提にこの輪廻の思想があります。

人間は死んだらどうなるのか。

死んだらそれで終わりではありません。

もし死んですべて終わりならば、

この世を好き放題に生きて、

無茶苦茶なことをして死んでも

どうってことはないはずです。

でもそうではないでしょう?

体がゴミになって、残された人たちの

心の中で生き続けるなどとも言いますが、

それだけではない、というのが輪廻の考え方です。

人は死んだら生まれ変わるのです。

日本人は「生まれ変わる」というと、楽観的に捉えます。

「生まれ変わったらまた一緒になろうね。」

「生まれ変わったらこんな仕事がしたい。」

しかしインド人がいう「輪廻」はそうではありません。

何度も老い、病になり、死ぬということを恐れるのです。

年老いたくないのに年老いていく、

誰も病気になんてなりたくないのに病気になる。

死にたくないのに死ぬ。

愛する人と別れたくないのに必ず別れる。

嫌いな人と嫌でも会わなくてはならない。

誰もそうなりたくないのになってしまう。

それを生まれ変わり死に変わりして

繰り返すことを恐れるんです。

「もうこんな苦しみを繰り返したくない!」

ということです。

輪廻というのは楽しいものではありません。

苦しみの世界、迷いの世界を経巡ることをいうのです。

繰り返し「仏教の目的は苦からの解脱である」

と申していますが、ただ単に

今の一生の苦しみから逃れることを

言っているのではありません。

一生の苦しみから逃れるだけならば、

死んだらおしまいです。

でもそれですまないというのですから恐ろしいのです。

六道を経巡って苦しみを繰り返し苦しみを味わう輪廻。

そこから逃れ出るのが仏教の目的なのです。

『悲しい本』
マイケル・ローゼン


2020年7月21日火曜日

念仏と出会うということ⑤(人に生まれることは難しい)

⑤人に生まれることは難しい

「お釈迦さまのご生涯」の項で、

お釈迦様の幼少期のお話しをいたしました。

お釈迦様がお生まれになったとき、

「生まれてすぐに七歩歩まれた」という

お話が伝わっています。

これは正に仏教が「六道を出るみ教え」

であることを表しています。

今私たちは輪廻を繰り返し、何とか

三悪道から脱出して人間に生まれてきました。

これは決して当たり前のことではありません。

生物学的にも1億から4億の精子が

たった一つの卵子と結びついて

生を受けたことを思うと、

こうやって生まれてきたことは

とても不思議なことです。

また、自分の両親がどのようにして

出会ったかを考え、またその誕生を考える。

先祖にまで心を向けると、

決して「たまたま」という言葉だけでは片付けられない、

今生まれてきたことの不思議さを思わずにはいられません。

ただ、だからといって、それを感謝しろと言われても、

できない人もいます。

生まれてきた環境や育つ環境が過酷を極めている、という人も

おられるかもしれません。

「この世になんてうまれたくなかった。誰が産んでくれと言った?」と

親を恨む人もおられることでしょう。

生物学的に、社会学的にいくら不思議だと言われても、

それを有り難いと思うかどうかは本人次第です。

仏教で説く輪廻の考え方は、生物学的な遺伝や社会的な関わりに留まりません。

輪廻しずっと経巡り続ける中で、

仏典に説かれる「人として生を受ける不思議さ」

についての譬喩をご紹介しましょう。

天から糸を垂らします。

その糸は風に流されながらゆっくりと海面にたどり着きます。

糸は海水を含んで徐々に沈んでいきます。

沈む間に波や潮に流されることでしょう。

しかしゆっくりゆっくりと沈んでいきます。

海底には一本の針が横たわっています。

沈んでいく糸が海底にたどり着き、

海底に横たわる針の穴を通ることがあるでしょうか。

まずあり得ませんね。

それほどに「人の身を受けることは難しい」というのです。

そのたまたま人間に生まれてきた時に、

仏教とご縁を結び、お念仏との

ご縁ができたならばそれはとても不思議なことです。

『ブッダがせんせい』
宮下真


2020年7月20日月曜日

念仏と出会うということ⑥(遇いがたき教え)

地獄・餓鬼・畜生といった悪道に墜ちる原因は何か?

それは私たちの煩悩です。

煩悩による行いを日々重ねて一生を過ごし、

ほとんどの者が命尽きた後に三悪道に墜ちる。

一度悪道に墜ちると、抜け出すのは至難の業です。

なぜなら自分が苦しい時に、善い行いなんてなかなかできません。

それどころか、人を騙して出し抜いてでも自分が助かろうとするでしょう。

悪い行いばかりを繰り返し、何度も地獄・餓鬼・畜生を経験せざるを得ません。

まるで蟻地獄のように、這い出したくてもズルズルと元の悪道へ戻ってしまうのです。

私たちもかつてはきっと地獄や餓鬼道でもがき苦しんだ過去があるということでしょう。

その中で私たちは今、人として生を受けました。

このことをどう受け止めればよいのでしょうか?

それはきっと、今まで悪道で苦しむ中で、少しではあっても、善い行いを重ねてきた結果なのでしょう。

酷い環境の中で、僅かずつでも善い行いをして、それが重なり、

ようやく人間として生まれてきたといえます。

「誰も産んでくれなんていっていない」と言うけれど、そして記憶にもないけれど、

今、人として生まれてきたのは、過去に、前世に、血の滲むような努力を重ねてきた

結果なのです。

「輪廻なんて信じられない」という人は多いでしょうが、

仮にでも結構ですので「もし輪廻というものがあるならば」と考えてみてください。

「生物学的に不思議」というだけでなく、

「私は今まで自ら努力して、その結果ようやく人として生まれてきたんだ」と

思っていただきたいのです。


『無量寿経』というお経の中に、

このような一節があります。



「善行を修めてこなかった人は

(無量寿仏の救いを説く)この経を

耳にすることはできない

清く正しく戒をたもってきた人こそ

はじめて真理に即した

(この)教えを聞くことができる

かつてみ仏と出会ったことがあれば

こうした(無量寿仏の救い)を

信ずることができる」
             ※『現代語訳浄土三部経』



つまり今こうして人として生まれ、

お念仏のみ教えと出会ったのは、

記憶にはないけれど、前世で相当によいことを

したということです。

覚えていないけれども、善いことを

してきた結果が今のお念仏との出会いなのです。

そして、そのお念仏の教えを信じることが

できる人は前世のいつかどこかで、

仏さまと出会ったことのある人だというのです。

このようにも書いてあります。



「(よいか)この世に生は受け難く

仏(の教え)が世にある時代に

生まれることはさらに難しい

(もし生まれたとしても)仏(の言葉)を信じ

(そしてそれを)正しく理解するのは難しい

もし(仏の言葉を)耳にしたならば

懸命に(仏道を)求めよ

(仏の)教えを聞いたならよく心にとどめ

(仏の姿を)拝したならば恭しく敬え」
                ※『現代語訳浄土三部経』



私は幾度となくこの『無量寿経』を読んできました。

しかし長らくこの箇所に書かれているところをサラッと読み過ごしていたようです。

この内容に気がついたとき、目が覚める思いでした。

「自分が人として生まれ、

お念仏のみ教えと出会ったのは、

前世からのつながりがあったからなのか!

こうやって阿弥陀仏の本願を信じることが

できるようになったのは、

前世に仏さまと遇ったことがあったからなのか!」

と感激しました。

『こどもブッダのことば』
監修・齋藤孝


2020年7月19日日曜日

念仏と出会うということ⑦(チャンスを逃してきた私)

『無量寿経』の言葉の意味に気づいた感激は続き、

しみじみと喜びを味わいました。

しかしふと気がつきました。

「過去に仏と遇いながら、

今現在まだ輪廻しているというのはどういうことか?」

そうです。

かつて仏と遇うほどの強い縁に遇いながら、

その時には心が向かなかったのでしょう。

仏がお説きくださることに従わず、それをないがしろにし、

日々の忙しさにかまけて煩悩による行いを続けて、

また悪道で長い時間を過ごしたのでしょう。

仏と出会いながら、そのチャンスを

ものにすることができなかったのです。

それでまた生まれ変わり死に変わり輪廻を繰り返し、

やって人として生まれた。

それからまた輪廻を繰り返し、

このたびもう一度人として生まれ、

仏教に出会い、お念仏のみ教えと出会った。

そしてこのたびはようやく

信じることができたのです。

何度も輪廻を繰り返し、ようやく輪廻から離れ、

西方極楽浄土へと往生するチャンスを

ものにすることができたのです。

『現代語訳 浄土三部経』
浄土宗総合研究所編


2020年7月18日土曜日

念仏と出会うということ⑧(悦びの中の悦び)

私たちは何となく人に生まれ、

何となくお念仏と出会ったので決してないのです。

「お念仏」とか「南無阿弥陀仏」

という言葉を知っている人は

日本全国に多くおられるでしょう。

しかしお念仏の教えを聞き、それを信じ、

南無阿弥陀仏と称える人は

皆さんの周りにたくさんおられますか?

殆どおられないのではありませんか?

南無阿弥陀仏と称える者は、

阿弥陀仏という仏さまが苦しみの世界から

救い出してくださいます。

極楽浄土という、一切苦しみのない

世界へと救い出してくださいます。

お念仏の教えを信じ、南無阿弥陀仏と

称える者だけが、無始無終の永遠の苦しみの

呪縛から逃れることができるのです。


極楽浄土へ往ったならば、

先に往生されたみなさんの大好きな、

縁の深いあの人ともこの人とも再会することができます。

みなさんが往生されましたら、

残した人を導くことができます。

みなさんの慕わしいあの人も

極楽から見守ってくださっています。

お導きくださっています。

どうか極楽浄土へ心を向けてください。

あの人は極楽でどう思って

私を見て下さっているのだろう?

心配して下さっているだろうな。

というように思いを寄せていくのです。

極楽に往生されたあの人は

きっと私が念仏のみ教えに入ろうとしていることを

喜んで下さっていることでしょう。

法然上人はこうおっしゃいます。

「生まれがたい人の世に生を受け、

会いがたい阿弥陀様のみ教え、

お念仏のみ教えと出会い、

その教えを信じる心をお越し、

苦しみの世界から極楽浄土へ

往生させていただくことは

悦びの中の悦びであるぞ」

このたび決して当たり前でない

ご縁を結ばせていただいたのだということを

忘れずにいたいものです。

『輪廻と解脱』
花山勝友


        (「念仏と出会うということ」の項終わる)

2020年7月16日木曜日

浄土三部経①(対機説法)

数あるお釈迦さまのみ教えの中で、

浄土宗が拠り所とする三つのお経、

浄土三部経についてお伝えして参ります。


「仏教入門」でお伝えしましたように、

お釈迦様は「この世は苦である」とおっしゃり、

四苦八苦に代表される苦しみを説いてくださいます。

そしてその苦しみの原因は煩悩である、

と説かれました。

その煩悩を無くす方法を説かれたのが

「お経」であると言えます。

しかし一口に「煩悩をなくす」と言いますが、

人の能力には随分差があります。

お釈迦さまはそれぞれの人柄や能力に合わせて

教えを説かれました。

これを「対機説法」(たいきせっぽう)と申します。

「機」とは「素質」とか「能力」という意味。

ある先輩から「人」と訳すとわかりやすいよ、

と教えていただきました。

つまりその人、その人に合わせて

法を説かれたということです。

それはあたかもお医者さまが患者の病状に合わせて

薬を処方するが如くです。

ですから「応病与薬」(おうびょうよやく)

ともいいます。

「あなたはこういう性格でこういう能力がある。

だからこういう修行をしなさい」

と一人一人に合わせて教えを説いてくださいました。

一人一人の心の中の汚れ、心の動きも全部お見通し。

だから「この人にはこう言えば良い方向にいくだろう」

「この人にはこの修行が合うだろう」と、

思いを寄せて説いて下さったわけです。

『浄土三部経和解』
川合梁定


2020年7月15日水曜日

浄土三部経②(末法)

お釈迦さまの教えも、時が経つと

人の能力に合わなくなってきます。

お釈迦さまご本人がおられる時は問題ありません。

先ほど申し上げたように、

お釈迦さまご自身がまるでお医者さんのように、

一人一人をみて処方して下さったからです。

だから多くの人が覚ることができました。

しかしお釈迦さまがおられなくなると、

教えは尊いけれども、覚る人がいない時代がやってきます。

教えはある。

そして修行する人もある。

でも覚る人がいないのです。

そういう時代が当分続きます。

その後はもっとひどくなります。

教えはあるけれども覚る人はおろか、

修行する人さえもいなくなってしまう。

これを「末法の時代」といいます。

科学は進歩するけれど、それに反比例して

宗教的な能力が衰えていくといいます。

法然上人の時代はすでに末法の時代です。

もちろん今も末法の時代です。

この末法の時代が1万年続いたのち

仏教は滅びるといいます。

教えを伝える人が誰もいなくなってしまうわけです。

これを「法滅」(ほうめつ)の時代といいます。

今はまだ末法の時代です。

何とか教えは残っています。

お念仏の教えは、この末法の時代の人々のために

説かれた教えなのです。

末法の時代の人々というのは、

すなわち私たちのことです。

つまり私たちのために説かれた教えが

念仏の教えです。

お釈迦さまは遠い未来には、

いずれ正しい教えは伝わらなくなる、

末法の人々は能力も、求める心も

低くなってしまうけれども、まだ教えは伝わっている。

その人々を救ってやりたいと考えて下さったのです。

そこでお釈迦さまは、すべての人々を救うと

願って下さっている阿弥陀仏という仏さまの存在を

私たちに教えて下さるのです。

『無量寿経・阿弥陀経』
藤田宏達訳


2020年7月14日火曜日

浄土三部経③(お釈迦さまと阿弥陀さま)

ここでお釈迦さまと阿弥陀さまのご関係について

申し上げておきます。

浄土宗のご本尊は「阿弥陀仏」です。

浄土宗のお寺やお檀家さんのお家のお仏壇には

たいてい真ん中に「阿弥陀仏像」が祀られています。

ではお釈迦さまは関係ないのかというと、

そんなはずはありません。

お釈迦さまが「西方に極楽浄土がある。

そこに阿弥陀仏という仏さまがいらっしゃる。

その仏さまがあなたたちを救ってくださるのですよ」

と説いてくださっているのです。

お釈迦さまがいらっしゃらなかったら、私たちは

阿弥陀さまや極楽浄土、お念仏を知るすべがありません。

お釈迦さまは

「阿弥陀仏という仏さまを信じて、

その教えに従いなさい。必ず救われるから」

とお経の中で阿弥陀さまについて

お説き下さっているのです。

つまりお釈迦さまは「阿弥陀仏に従って行けよ!」と

見守り導いてくださり、

阿弥陀さまは「私を信じて来いよ」

と願い、私たちを極楽浄土へすくい取ってくださるのです。

「行けよ」と「来いよ」という向かい合わせの関係です。

阿弥陀さま、お釈迦さま「二尊の教え」ともいえるでしょう。

多くの浄土宗寺院の裏堂にお釈迦さまが祀られているのは

そのことを表しているのです。

『浄土三部経講座』
坪井俊映


2020年7月13日月曜日

浄土三部経④(国王)

阿弥陀さま・極楽浄土・お念仏について

説かれたお経が三つあります。

それが『浄土三部経』です。

『浄土三部経』というネーミングは法然上人の命名です。

その内の一つ目が『無量寿経』というお経です。

浄土宗で最もよく読まれるお経『四誓偈』

この『無量寿経』の一部分です。

非常に長いお経です。

ここに「法蔵菩薩」(ほうぞうぼさつ)という方が登場します。

「法蔵菩薩」は浄土宗のご本尊、阿弥陀さまが

仏になる前のお名前です。

キリスト教やイスラム教、ユダヤ教の神さまは、

最初から神さまです。

天地創造の神です。

神さまがこの世を創られたといいます。

でも仏教の仏さまはそうではありません。

修行して悟りを開いて仏になられるのです。

仏になるために修行する方を「菩薩」といいます。

観音菩薩さま、地蔵菩薩さまなど、

菩薩さまはたくさんおられますが、

皆、仏になる前の修行段階の位におられるのです。

阿弥陀さまの修行中のお名前が法蔵菩薩さま。

ですから同じ方です。

悟りを開く前と後で名前が変わるわけです。

法蔵菩薩さまは元々ある国の国王であったといいます。

その国王は、自分の国の者達を幸せにしてやりたいと

色々な政策を立てます。

貧しい者を救ってやりたい、病の者を救ってやりたい。

悩み多き人々を救ってやりたい。

すべての者を救ってやりたいと思うけれども、

国王の力ではすべての者を救うことはできませんでした。


『和訳浄土三部経』
村瀬秀雄訳


2020年7月12日日曜日

浄土三部経⑤(世自在王仏と法蔵菩薩)

国王は世俗の方法で人々を救うことに限界を感じ、

悩んだ末、出家に救いを求めます。

国王は「世自在王如仏」(せじざいおうぶつ)

という仏さまの元に行き、

教えを請われました。

「世俗の力」つまり現代でいう「福祉」だけでは

すべての者を救うことはできない。

すべての者を救いたい、とおっしゃり、

弟子入りされます。

国王は出家して「法蔵菩薩」となられます。

すべての者を救いたいという法蔵菩薩に、

世自在王仏は、色んな浄土を見せて下さいます。

浄土というのは極楽浄土だけではありません。

仏さまお一方につき、一つの浄土があります。

阿弥陀さまの浄土は「西方極楽浄土」

薬師如来(やくしにょらい)には「

東方瑠璃光浄土(とうほうるりこうじょうど)」

お釈迦さまは「無勝荘厳浄土(むしょうしょうごんじょうど)」

という風に、仏さまによってそれぞれの浄土があるのです。

世自在王仏(せじざいおうぶつ)は神通力を使って、

法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)に

多くの仏さまの浄土をお見せになりました。

そのすべての仏さまの浄土のよいところをとって、

最も素晴らしい浄土を創ろう、

そこにすべての者を迎えとりたいと、

法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)は考

えるようになってゆかれました。

『浄土三部経概説』
坪井俊映


2020年7月11日土曜日

浄土三部経⑥(五劫思惟)

どうしたらそれが実現できるだろう。

五劫(ごこう)とも言われる長い時間をかけ、悩みに悩まれます。

「劫(こう)」というのは時間の単位です。

『浄土宗大辞典』にはこのように説明されています。


①四方一由旬(いちゆじゅん)の鉄城に

芥子(けし)粒を満たし、

百年ごとに一粒取り去ることを繰り返し、

空になっても劫は終わらない。


②四十里四方の石を百年ごとに

細軟の布で払拭し、その石が磨滅しても

劫は終わらない。


①の説を芥子劫(けしこう)といい、

②の説を盤石劫(ばんじゃくこう)といいます。

いずれの説にしても、とてつもなく長い時間を

指すことは明らかです。

五劫もの長い時間が経てば、

法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)さまの髪の毛も

さぞ長く伸びてしまうことでしょう。

このお姿を表したお像が各地にあります。

奈良市の東大寺勧進所(かんじんしょ)や五劫院(ごこういん)の

「五劫思惟像(ごこうしゆいぞう)」は重要文化財に指定されています。

また浄土宗の大本山金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)、

百万遍知恩寺(ひゃくまんべんちおんじ)には

石像の「五劫思惟像(ごこうしゆいぞう)」が祀られています。


五劫思惟像(浄土宗大本山金戒光明寺)



まるで「アフロヘアー」のようなユニークなお姿を

拝みたいと多くの方がお参りされます。


2020年7月10日金曜日

浄土三部経⑦(なぜ五劫も悩まれたのか)




                                         浄土宗大本山 百萬遍知恩寺の
              五劫思惟像




私たちは身と口と心で数々の悪い業(ごう)を重ねていきます。

「業(ごう)」というのは「行い」のことです。

「身体での行い」「言葉での行い」「心での行い」です。

その一々に、嫌でも「エゴ」がつきまとってしまう私です。

そんなことをしていたら、苦しみ迷いの世界から逃れることは不可能です。

それを法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)さまは本当に心配して下さったのです。

仏教の基本的な教えに「因果(いんが)の道理」があります。

「因果の道理」とは「原因があって結果がある」ということです。

善い行いをすれば結果として楽がもたらされます。

悪い行いをすれば苦しみがもたらされます。

それも「自業自得(じごうじとく)」といって、

自分の行いの結果は必ず自分に返ってくるというのです。

私が算数の勉強をして、ウチの息子の学力が上がればいいですが、

そうではないですね。

私が勉強すれば私の学力が上がります。

自業自得というのはそういうことです。

ですから「親の因果が子に報い」というような、

不可解な考えは仏教にはありません。

自分の行いの責任は自分が負います。

ただし、親の影響を子どもが受けることはあります。

親から虐待を受けた場合と

大事に育てられた場合とが異なることは明らかです。

しかしそれは「業」の問題ではないので、

親の業を子どもが背負うことはありません。

また、もちろん私たちの「業」は

悪い業だけではありません。

「人のために」善い業を積むことができれば、

それは自分の「善業(ぜんごう)」が積まれていくことになります。

その結果として、未来が切り開かれていきます。

ただ残念ながら、私たちは強い「エゴ」を持っていて、

善業(ぜんごう)を積むことに比べて

悪業(あくごう)を積むことの多さは比較になりません。

そのように幸せを追い求めているのに、

結果が伴わない人々をどのようにしたら救うことができるか。

法蔵菩薩さまは悩みに悩まれます。

「すべての者を救いたいけれども、

どう見ても殆どの人たちは

善い行いなどできないではないか、

悪い行いばかりしているではないか」

と考え込んでしまわれます。

因果の道理からすると、悪い行いばかりする者は

善い果報を受けることはできません。

どうしたら良いかと五劫の間悩み続け、

意を決して世自在王仏(せじざいおうぶつ)の前で

四十八の誓いを建てられます。

2020年7月9日木曜日

浄土三部経⑧(念仏往生の願)


                                 法輪寺本尊阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩






四十八の誓いを「阿弥陀仏の四十八願(しじゅうはちがん)」

と呼びます。

その誓いの中身は大きく三つの意思が反映されています。

「もし私が仏になったならば、

このような素晴らしい浄土をつくりたい。」

「もし私が仏になったならば、

このような立派な仏になりたい。」

「もし私が仏になったならば、

このような人々を救いたい。」

そしてその一々に

「それができないならば、私は仏になりません。」

という言葉が添えられています。

このような誓いを48建てられた。

その四十八願の第十八番目に、

「もし私が仏になったならば、

私を信じ、私の国に生まれたいと願って、

私の名前を呼ぶ者を救いとろう。

もしそれができなければ、

私は仏になりません。」

と誓われたのです。

これを「念仏往生の願(ねんぶつおうじょうのがん)」といいます。

2020年7月8日水曜日

浄土三部経⑨(本願成就)

山越の阿弥陀如来像
大本山黒谷金戒光明寺所蔵
                                         



法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)は、我々のために永遠ともいえる

永い間修行をし、気が遠くなるほどの長い間

苦行を積んで、すべての行、すべての善の功徳を

成就させて、仏になられました。

その仏の名を「阿弥陀仏(あみだぶつ)」といいます。

具わった功徳すべてを一切漏らすことなく、

ご自分のお名前に込めてくださいました。

このことを「すべての功徳が収まっている」ので

「万徳所帰(まんどくしょき)」といいます。

そして「私の名前を呼ぶ」という

「善」を行うことによって、

「極楽浄土へ往生する」という「果」を

もたらしてくださいました。

それが「南無阿弥陀仏」のお念仏です。

阿弥陀仏の名前に一切の功徳が

収め込まれているからすごいのです。

そして、「難しい修行はできないかも知れないが、

私の名前を称えるぐらいならできるであろう。

この名前に功徳すべてを収め込んだから、

頼む、称えてくれ。

お願いだから称えておくれ。」

と言って下さっているのです。

この四十八の誓いを、

「阿弥陀様が元、法蔵菩薩であった時の誓い」

という意味で、本願(ほんがん)といいます。

元の願という意味です。

その中の念仏往生の願、第十八願を、

本願中の本願という意味で、

「王本願」などとも申します。

普通本願といいますと、

多く「念仏往生の願」を指します。

2020年7月7日火曜日

浄土三部経⑩(我が名を呼べ)

「私の名前を呼ぶ者をすべて私の国へ迎えとろう!

それができなかったら仏にはならない!」

と誓われた後、ちゃんと仏になっておられるのです。



法輪寺一蓮堂阿弥陀如来像





ですから、阿弥陀さまの名前を呼ぶ者は

すべて極楽へ往生することができるのであります。

阿弥陀さまが「我が名を呼べ」

おっしゃるのですから、私達はその願いに応えて

「南無阿弥陀仏」と称えるのであります。

「南無」は「助け給え」、

「お救い下さい」、「おまかせします」

そういう意味すべてがこもっています。

「南無阿弥陀仏」ですから、

「阿弥陀さま、助け給え」「阿弥陀さま、お救い下さい」

「阿弥陀さま、おまかせします」

と称えているのであります。

阿弥陀さまはそのご修行の功徳をすべて、

「南無阿弥陀仏」のたった六文字に収め込んで下さった。

だからこそ私達は「南無阿弥陀仏」

と称えるだけで極楽へ往生することができるのであります。

2020年7月6日月曜日

浄土三部経⑪(平等の慈悲)

極楽へ往生したいならば、

ただ阿弥陀さまの本願を信じて

声に出してお念仏をお称えするだけです。

決して難しいことではありません。

誰もができる行なのです。

誰もができる行でありながら、

極楽行き最も勝れた行なのです。



京都伏見光照寺住職 
池上良賢上人筆
『仏説無量寿経』




極楽の主である阿弥陀さまが

「念仏称える者を救う」と約束されたわけですから。

すべてのご修行の功徳が収まっているのですから。

誰もができる行をご用意下さったのは、

阿弥陀様のお慈悲によるものです。

平等のお慈悲です。

すべての者を救ってやりたいと

お慈悲を注いで下さっているのです。

私達を救うために法蔵菩薩さまは

髪の毛が伸びきってしまうほど悩んで下さいました。

それを裏返せば、そのぐらい私達は

救われがたい存在であるということです。

その救われがたい私達を救ってやろうと、

一切の差別なしにお慈悲を

注いで下さっているのです。

2020年7月5日日曜日

写経のススメ①(お名号)

お経やご法語、お名号の書写をお勧めしています。


浄土宗の教えは極楽浄土への往生を願って

なむあみだぶつ」と称えるにつきます。

その「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」の六文字を

お名号」といいます。

「阿弥陀仏」という仏さまのお名前だからそう呼ぶのです。

法輪寺にて習字のご指導をお願いしております、

京都伏見光照寺ご住職、池上良賢上人にお手本を書いていただきました。

お名号の字体を変えて、四種書いてくださっています。

①一番右のお名号「先に極楽浄土へ往生された大切な人のために」

両脇には善導大師(ぜんどうだいし)

『往生礼讃』(おうじょうらいさん)のお言葉 

「弥陀世尊(みだせそん)、

本(もと)深重(じんじゅう)の誓願(せいがん)を発(おこ)して、

光明名号(こうみょうみょうごう)をもって

十方(じっぽう)を摂化(せっけ)したまう」から

「光明名号(號) 摂化十方」(こうみょうみょうごう せっけじっぽう)

と書かれています。

「阿弥陀仏の救いの光はあらゆるところに届いています」という意味です。

お名号の下に書かれています

「来迎引接(らいこういんじょう)摂取(せっしゅ)哀愍護念(あいみんごねん)」

という文言は

「阿弥陀さま、どうかお救いとりください、お護りください」

という意味です。

「願往生」とは「極楽浄土へ往生したいと願う」ということ。

この「願往生」の下に、大切な方のお戒名(法名、あるいは俗名でも結構です)

を書いてください。

そして「願主(がんしゅ)」の下にあなたのお名前を書きましょう。

②右から二番目のお名号「先に極楽浄土へ往生された大切な人のために」

①と同じです。

池上上人が字体を変えてくださっています。

行書・楷書どちらでもお好きな字体でお書きください。


③右から三番目のお名号「自分自身を励まして」

お名号の両脇の「光明徧照(こうみょうへんじょう)

十方世界(じっぽうせかい)念仏衆生(ねんぶつしゅじょう)

摂取不捨(せっしゅふしゃ)」というお言葉は、

浄土三部経のうち「観無量寿経」の中阿弥陀仏の特徴が説かれている

「真身観文」の一節です。

「阿弥陀仏の救いの光はあらゆるところを照らしてくださり、

念仏称える人々を必ずすくい取ってくださいます」という意味です。

お名号の下には「生死事大(じょうじじだい)無常迅速(むじょうじんそく)

各宜醒覚(おのおのよろしくせいかくすべし)

慎勿放逸(つつしんでほういつなることなかれ)」と記されています。

この文言は「生死は一大事であり時は移り変わりすぐに過ぎ去っていく。

各人はこのことに目覚めて、無駄に過ごしてはならない」

という厳しい内容です。

ついつい惰性で過ごしてしまいますが、

今この時を大切にして、日々お念仏を称え、

いつ何時この命が尽きようとも、西方極楽浄土へ

迎え取っていただけるのだと信じて過ごしましょう。

自分自身に言い聞かせるようにして書きましょう。

「願主(がんしゅ)」の下にはあなたのお名前をお書きください。


④一番左のお名号「みんなが悦ぶことを願って」

お名号の両脇には「無量寿経」の中、

阿弥陀仏が仏になられる前に誓われた「四誓偈」の一節、

「神力演大光(じんりきえんだいこう)普照無際土(ふしょうむさいど)

消除三垢冥(しょうじょさんくみょう)廣済衆厄難(こうさいしゅうやくなん)」

と書かれています。

「仏は大いなる力をもって救いの光を放ち、

すべての世界を照らして煩悩の闇をやぶり、

多くの災厄にあうものを救いとってくださいます」という意味です。

お名号の下には

「一切災障(いっさいざいしょう)自然消散(じねんしょうさん)

所願如意(しょがんにょい)皆得吉祥(かいとくきっしょう)」

と記されています。

この文言は「あらゆる厄災が自ずと消え去り、

願いが成就して皆が悦びを得ることができますように」

という願いがこもっています。

みんな幸せを願って生きているのに、

人生においては思わぬ厄難に遭ってしまうことも多くあります。

「どうか世界中のみんなが悦んでこの世を生ききることができますように」

と願って書きましょう。

「願主(がんしゅ)」の下にはあなたのお名前をお書きください。


お手本をダウンロードしてはじめましょう。

       ↓

https://drive.google.com/file/d/19hdytWma6Ng1OVbAVLw32cQ5Z4VvCC8q/view?usp=sharing


浄土三部経⑫(お念仏のススメ)

あらゆる「苦」から逃れ「仏になる」ことを

目指して修行をしよう!というと、

「私には無理です」と思ってしまうかもしれません。

でも、「阿弥陀さまは私のことを

思って下さっているのだ。

その願いに応えよう」

と心を運ぶことはできるでしょう。



阿弥陀さまとのご縁をつなぎましょう





法蔵菩薩さまの話を現代人は理解することが

難しいとおっしゃる方もいます。

しかしお経にある話は、

お釈迦さまが「我々を救う」ために説かれたものです。

国王が「国を捨てて王位を捨てて世俗の力を放棄して出家する」

ことには意味があることでしょう。

今の私たちが追い求めている「豊かさ」「幸せ」などが

本当に私たちに心の平安をもたらすのでしょうか。

求めれば求めるほどに自らを苦しめていることにはならないでしょうか。

私たちが追い求めているものが私たち自身を良い方に導いているのか、

考え直してみるのもいいでしょう。

この法蔵菩薩のお話は、今までの自分の経験ではわかりにくいですが、

いつか「そういうことか」と腑に落ちる日がくるかもしれません。

今信じられない方もまずは

「お釈迦さまが説かれたお経に説かれていることだから、

ちゃんと意味があるのだろうな」

「今はわからないけど、そういうものなのかもしれない」と判断を留保して、

阿弥陀仏が「我が名を称えよ」

と言われた「お念仏」を実践していくことをお勧めします。

2020年7月4日土曜日

写経のススメ②(一枚起請文)

法輪寺では法然上人のご命日法要であります「御忌法要(ぎょきほうよう)」の

際に『一枚起請文(いちまいきしょうもん)』の写経をお勧めしています。

浄土宗の「宗祖」でありお念仏の「元祖」である法然上人は

何人かのお弟子に「浄土宗の肝要をまとめた書状」を授けておられました。

法然上人最晩年、ご臨終の二日前には、側近のお弟子である

勢観房源智上人の請いを受け、病床から身を起こして書き記されました。

それが今浄土宗で読まれる『一枚起請文(いちまいきしょうもん)』です。

このことにつきましては「聖光上人のご生涯」で触れましたので下に

リンクを貼っておきます。




この源智上人に授けられた『一枚起請文(いちまいきしょうもん)』原本と

伝えられるものは浄土宗大本山「金戒光明寺」に収められています。

年に一度、毎年四月に行われる御忌法要(ぎょきほうよう)中、

四月二十三日の日中法要(にっちゅうほうよう)にて

開示されます。(令和2年は参拝中止)

このたび、法輪寺にて習字のご指南をお願いしております

京都伏見光照寺ご住職池上良賢上人にお手本を書いていただきました。

皆さんが入手しやすい「半紙」のサイズです。

どうか『一枚起請文』を書写いただき、お念仏のみ教えに触れて

いただきますよう、お勧めいたします。


お手本はここからダウンロードして
ください。
(B4でプリントアウトしてくだい)    
      ↓


浄土三部経⑬(阿闍世太子)

浄土三部経の二番目、

『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』には、

お釈迦さまがおられた頃、

マガダ国という国の王舎城(おうしゃじょう)という都市で

実際に起こった悲劇が取り上げられています。



當麻寺山内「奥院」より出版の
「當麻曼荼羅(たいままんだら)」絵説き本




マガダ国の王様はビンバシャラ王という王様で、

お妃様を韋提希(いだいけ)さまといいました。

二人の一人息子を阿闍世(あじゃせ)といいました。

阿闍世太子(あじゃせたいし)は、

悪友の提婆達多(だいばだった)にそそのかされて、

父親であるビンバシャラ王を幽閉してしまいます。

ビンバシャラ王の妃、

阿闍世太子(あじゃせたいし)のお母さんである

韋提希夫人(いだけぶにん)は、

ビンバシャラ王が飢えないように、

体に蜜を塗って、冠の下に葡萄ジュースを入れて、

毎日密かに牢屋へ通い、

ビンバシャラ王に与えました。

阿闍世太子(あじゃせたいし)は、いつまで経っても

ビンバシャラ王が飢え死にしないことを

不審に思い、調べます。

そうすると、どうやら母親の

韋提希夫人(いだいけぶにん)が毎日牢屋へ

通っているということを聞きます。

怒り狂った阿闍世太子(あじゃせたいし)は、

韋提希夫人(いだいけぶにん)までも

捕まえて殺してしまおうとします。

その時に、聡明な大臣二人、

月光(がっこう)とギバが

阿闍世太子(あじゃせたいし)を諫(いさ)めます。

今まで歴史上には、王である父親を殺した

という事件は何度もあった。

しかし母親までも殺したということは

聞いたことがない。

もし阿闍世太子(あじゃせたいし)が

韋提希夫人(いだいけぶにん)を殺めたとしたら、

王族として恥ずべきことで、

世間も許さないであろうと言うのです。

さすがの阿闍世太子(あじゃせたいし)も怯んで、

韋提希夫人(いだいけぶにん)を

殺すことを断念しました。

しかしそのまま放っておくと

またビンバシャラ王の元へ通うであろうと、

牢屋へ閉じこめてしまいます。

2020年7月3日金曜日

写経のススメ③(四誓偈)

先に「浄土三部経」をご紹介しました。

その第一番目に『無量寿経』についてお伝えしました。

阿弥陀仏がまだ仏になられる前、

「法蔵菩薩」であった時に、「世自在王仏」の御前で

四十八の誓いを建てられました。

これを「本願」と申します。

その第十八番目の願を「念仏往生の願」といいます。

我が名を呼ぶ者を救う」というお誓いです。

法蔵菩薩は長い修行の末、四十八の誓いすべてを成就して

阿弥陀仏」となられました。

その阿弥陀仏が「我が名を呼べ」とおっしゃっているのですから、

私たちは「南無阿弥陀仏」と阿弥陀仏の名を呼べばよいのです。

この「阿弥陀仏の名を呼ぶ」ことが「念仏」です。


『無量寿経』中、「四十八願」の直後に登場するのが

今回の写経テーマ「四誓偈」です。

法蔵菩薩が「四十八願」の決意を改めて表明されたところです。

「四誓偈」という名前が示す通り「四つの誓い」が挙げられます。

この四つとは、浄土宗第二祖聖光上人は、

最初の三行と最後の「斯願若剋果 大千應感動 虚空諸天人 當雨珍妙華」

と解説されています。

内容につきまして詳しくはまたいずれブログに上げたいと考えています。

「四誓偈」は最もよく唱えるお経の一つです。

法輪寺でも月参りや棚経、年間法要の多くの場面で

「四誓偈」をお唱えします。

そんな親しみ深い「四誓偈」を写してみましょう。


今回も京都伏見光照寺ご住職の

池上良賢上人にお手本を書いていただきました。





お手本はこちら(ダウンロードしてください)
         ↓






浄土三部経⑭(韋提希夫人の嘆き)

韋提希夫人(いだいけぶにん)は、嘆き悲しみ

牢屋の中からお釈迦さまがおられる

霊鷲山(りょうじゅせん)に向かって拝みました。




西山浄土宗東部第一宗務支所より発行の
『絵で読む観無量寿経』




するとお釈迦さまが神通力(じんつうりき)を

使って韋提希夫人(いだいけぶにん)の元に現れます。

韋提希夫人(いだいけぶにん)は、

「私がなぜこんな目に遭わなくてはいけないのでしょうか。

どうかお釈迦さま、私にこんな辛い世界ではなく、

清らかな浄土を見せて下さい」と頼まれます。

お釈迦さまは韋提希夫人(いだいけぶにん)の願いに応えて、

たくさんの浄土を見せましたが、

韋提希夫人はその中で、

阿弥陀仏の極楽浄土をもっと見せて欲しいと

お釈迦さまにお願いします。

お釈迦さまは極楽浄土を自分の力で観るための

瞑想の方法を順番に説かれます。

その後、未来の「末法(まっぽう)の世」の人々が

極楽浄土へ往生することができるように、

お念仏の教えを説かれます。

色んな教えを説いたけれども

南無阿弥陀仏のお念仏こそが

一番大切なのだとおっしゃるのです。

これを聞いて韋提希夫人(いだいけぶにん)は念仏の人になります。

2020年7月2日木曜日

写経のススメ④(発願文)

浄土宗のお仏壇は多く正面に阿弥陀仏、

向かって右に善導大師(ぜんどうだいし)、

向かって左に法然上人をお祀りします。

そして善導大師(ぜんどうだいし)を高祖(こうそ)、

法然上人を元祖(がんそ)として敬います。

善導大師(613-681)は中国唐の時代に浄土宗のお念仏の教えを

完成された方です。


善導大師の著作は「五部九巻(ごぶくかん)」と呼ばれ、

『観経疏(かんぎょうしょ)』四巻、

『観念法門(かんねんほうもん)』一巻、

『往生礼讃(おうじょうらいさん)』一巻、

『法事讃(ほうじさん)』二巻、『般舟讃(はんじゅさん)』一巻

がそれに当たります。

その中『往生礼讃(おうじょうらいさん)』に今回の写経テーマである

「発願文(ほつがんもん)」が含まれます。

「発願文(ほつがんもん)」というだけあって、

内容は善導大師の「二つの発願(ほつがん)」です。

一つは「命尽きたらすぐに極楽浄土へ往きたい!」

という発願(ほつがん)です。

もう一つは「極楽浄土へ往ったら、

すぐにこの娑婆世界(しゃばせかい)に戻ってきて、

苦しむ人たちを救いたい!」という発願(ほつがん)です。

ここに出る「六神通(ろくじんづう)」につきましては、

後日「所求・所帰・去行(しょぐ・しょき・こぎょう)」という

シリーズでお伝えします。


さて、今回もお手本は法輪寺で毎月習字をご指南くださる

京都伏見光照寺ご住職、池上良賢上人に揮毫いただきました。

「習字を習いたい」という方は法輪寺までお問い合わせください。


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浄土三部経⑮(出世の本懐)

韋提希夫人(いだいけぶにん)へ教えを説き終えた

お釈迦さまはお弟子の阿難尊者に、

お念仏のみ教えをずっと後まで伝えてくれよ、

そうしないと後の人々は救われないぞと説かれます。

このことを「念仏付属(ねんぶつふぞく)」といいます。






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お釈迦さまは「色んな人」がいる、

そのそれぞれに合わせて多くの教えを説かれました。

このように人の能力に合わせて教えを説くことを

浄土三部経①にも書きましたが


「対機説法(たいきせっぽう)」といいます。

しかしそれでも漏れる人がいます。

能力が高い人だけを対象にしていると、

救われない人が大勢でてきます。

念仏は「すべての人」が対象です。

「すべての人々を救ってやりたい」と願われて

お念仏のみ教えを説かれました。

「すべての人々を救いたい」という

お釈迦さまの思いを実現できるのは

「南無阿弥陀仏」のお念仏のみ教えだけだったのです。

そういう意味から、お念仏は

お釈迦さまがこの世に現れた一番の目的だと言われます。

お釈迦さまがこの世に現れた

「本懐(ほんがい)」だと言われます。

「出世の本懐(しゅっせのほんがい)」です。

2020年7月1日水曜日

写経のススメ⑤(般若心経)

 今回は『般若心経(はんにゃしんぎょう)』です。


正式には


『仏説摩訶般若波羅蜜多心経(ぶっせつまかはんにゃはらみったしんぎょう』


といいます。


この有名なお経は、中国唐の時代、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)が


漢訳したものです。


国の法を破ってまで、お釈迦さまの教えを求め、


インドへ渡って入手した膨大なお経を自ら訳された、


その中の一つです。


玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)は、『西遊記』の「三蔵法師」の


モデルになった方でもあります。


浄土宗の高祖(こうそ)善導大師(ぜんどうだいし)と


同時代に同じ長安の都で多数の経典を


訳経(やっきょう)されていました。


この『般若心経(はんにゃしんぎょう)』は、


浄土宗ではあまり読む機会がありませんが、


法輪寺では毎年1月28日の「初不動(はつふどう)法要」で、


不動尊前においてお読みいたします。


その「初不動(はつふどう)法要」の際、


信者さんが写経した『般若心経(はんにゃしんぎょう)』を


不動尊に納経(のうきょう)します。


『般若心経(はんにゃしんぎょう)』には、


仏教の「空(くう)思想」が説かれています。


すべての事象は不変の実体をもつものではないので、


あらゆるものごとに執着(しゅうじゃく)してはならない。


執着(しゅうじゃく)を離れて苦しみ悩みから解き放たれる道が


説かれています。


さて、今回もお手本は法輪寺で毎月習字をご指南くださる



京都伏見光照寺ご住職、池上良賢上人に揮毫いただきました。



「習字を習いたい」という方は法輪寺までお問い合わせください。


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浄土三部経⑯(一蓮托生)

次は『阿弥陀経(あみだきょう)』です。

よく法事などで読まれますので

なじみ深いのではないでしょうか。




奈良市興善寺の蓮




『阿弥陀経』には、実際にここから

西へ十万億土(じゅうまんのくど)という

遙か遠く離れたところに極楽浄土という

素晴らしい国があり、

そこに阿弥陀仏という仏さまが今現在もおられて、

そこで説法しておられると説かれています。

そして極楽の美しい様子が次々に描写されます。

その極楽浄土へ往生するためには、

自分の力では往生できないと説かれます。

自分の力でいくら善業(ぜんごう)を積んでも、

たかが知れている。

阿弥陀さまにお任せして、

お念仏を称えることこそ、

極楽浄土へ往生する最善のみちである

ということが説かれます。

迷うことなく極楽へ往生したら、

そこには阿弥陀さまをはじめ、

観音菩薩さま、勢至菩薩さまがおられて、

また先に往生されたみなさんの大切な人にも

会うことができるのです。

それが本当に叶うのがお念仏のみ教えです。

このように「同じ極楽浄土で会う」み教えを

「倶会一処(くえいっしょ)」とか、

「一蓮托生(いちれんたくしょう)」といいます。

「一蓮托生(いちれんたくしょう)」といいますと、

「悪い意味で運命を共にすること」と

一般には理解されていますがそうではありません。

お念仏のみ教えを信じ、お念仏を称える者同士が、

「必ず極楽浄土で会おうね」と本気で約束できる、

「念仏者同士の合い言葉」です。

11月後半のことば

 11月後半のことば 「危ないのは逆境の時より順境の時」 逆境の時には、我々は注意深く努力し、成長と学びを得ます。 しかし、順境の時、油断の罠が待ち構えています。 仕事が順調な時、自分は失敗しないと安心し、準備を怠ることがあります。 例えば、プロジェクトが順調に進んでいる時に限っ...