2026年3月14日土曜日

3月後半のことば「西方極楽 春彼岸」

 3月後半のことば

「西方極楽 春彼岸」


 仏教において彼岸は迷いのない「覚りの世界」を意味し、特に浄土宗では、私たちが目指すべき阿弥陀仏の世界「極楽浄土」と受け止めます。春分の日を中心にしたその前後三日間、合計一週間が春のお彼岸の期間です。

 この時期、太陽は真東から昇り、真西に沈みます。つまり彼岸は、私たちが目指すべき極楽の方角がはっきりと分かる時なのです。西へ沈む夕日を見つめることで、自分が向かう最終的な場所を確認できます。

 私たちは普段、学校の勉強や仕事、家事や介護といった目の前の雑事に追われています。この世の用事にだけ対応していく日々は、心と体を疲弊させます。慌ただしい生活を送る中で、つい自分の命の行き先を忘れてしまいます。

 命が尽きた後には、最高の楽土が存在します。極楽の主である阿弥陀仏は、ただ「南無阿弥陀仏」と称える者を極楽へ迎え取る、とお誓いくださっています。「いつかそこに往きたい」と極楽浄土を目指す願いを持つことが大切です。

 普段は忘れていても、お彼岸の時期には往生への思いを新たに起こすことができます。目標の方角をしっかり見据え、日頃以上に心を込めてお念仏を称えていきましょう。

2026年2月28日土曜日

3月前半のことば 「一人では何も出来ぬ。然し、先ず一人が始めねばならぬ。」(岸田國士)

 3月前半のことば

「一人では何も出来ぬ。然し、先ず一人が始めねばならぬ。」(岸田國士)

 戯曲『チロルの秋』を生んだ劇作家であり、小説家でもある岸田國士氏のことばです。

 世界平和や人類の幸福という大きな目標を前にすると、一人の力はあまりに小さく感じられます。しかし、どのような変化も、常に「私」という一人の行動から始まります。

 例えば、地域の環境を良くしたいなら、まず一人が足元のゴミを拾う。職場の雰囲気を明るくしたいなら、まず一人が笑顔で挨拶をする。「自分一人では意味がない」と諦めるのではなく、まず自分が動く。物事はこの一点からしか動き出しません。

 この道理は、浄土宗の教えにも通じます。

 阿弥陀仏は、すべての者を救うために極楽浄土を建立されました。私たちが人々を救うためには、段階があります。それは、まず自分自身が「南無阿弥陀仏」と称え、浄土へ往生することです。

 浄土へ往(い)き、菩薩となって、他者を救う力を育てていきます。自分の往生を願うことは、決して利己的な行為ではありません。多くの人を幸せにするという理想を実現するための、最も確実な第一歩なのです。

 まず一人の「私」がお念仏を始める。ここからすべてが始まります。           

2026年2月14日土曜日

2月後半のことば「想像力の使い方次第で、人は不安にもなり、希望を持てる」

 2月後半のことば

「想像力の使い方次第で、人は不安にもなり、希望を持てる」

                    

 想像力というものは、時に人を底なしの不安へと突き落とし、時に確かな希望を与える力を持っています。

 もし「死んだらすべてが終わりだ」という断崖絶壁にのみ意識を向けてしまえば、老いや病は、ただ幸福を奪い去るだけの残酷な足音に聞こえるでしょう。先々を案じるほどに心は萎え、今を生きる意味さえも見失いかねません。

 しかし、浄土宗が示す「極楽浄土」は、この想像力のベクトルを鮮やかに転換させます。そこは、この世を覆う苦しみや痛み、絶えぬ悩みから解き放たれ、ただ清らかな安らぎだけを享受できる世界です。差別や暴力に怯えることもなく、煩わしい人間関係に心を削られることもありません。そして何より、先に送り出した大切な人々との再会がかなう「楽土」なのです。

 こうした光り輝く世界を想い描くことができたなら、今の景色は一変します。老いも病も、決して虚無へ向かう衰退ではなく、希望の岸辺へ至るための大切な道程となるのです。

 日々、南無阿弥陀仏と口にすること。それは、私たちの想像力を不安の闇から救いの光へと繋ぎ止める、ただ一つの方法です。どうせ使うなら、この豊かな能力を、明日をしっかりと踏みしめて生きる力のために使いたいものです。    

2026年1月31日土曜日

2月前半のことば

 2月前半のことば

「絶対ということは 絶対にない」

                    

 私たちは無意識に「絶対」という名の杖を頼りに歩いています。「努力は実る」「日常は続く」「組織に尽くせば安泰だ」といった確信です。しかし、その杖が不意に折れたとき、人は深い落胆という名の「苦」を味わうことになります。

 かつてこの国では「右肩上がりの成長」が信じられていましたが、経済の神話も終身雇用の約束も、時代の波に消えていきました。これは個人の生活も同様です。

 「親なら、自分ならこうあるべきだ」という思い込みが強いほど、現実に裏切られた際、人は自分を責め、他者を呪ってしまいます。移ろう現実を、己の願望という枠に無理やり固定しようとするからこそ、苦しみが生じるのです。

 仏教が説く「諸行無常」は、決して冷たい宣告ではありません。すべては移ろう。だからこそ、一つの価値観に固執しなくていいという「解放」の教えです。

 「絶対はない」と知ることは、未来を恐れることではありません。何が起きても「まあ、そういうこともあるだろう」と受け流せる、しなやかな精神を養うことです。固く握りしめた「絶対」という拳をそっと解けば、世の中の見え方はきっと軽やかに変わるはずです。

2026年1月14日水曜日

1月後半のことば「努力する人は希望を語り、怠ける人は不満を語る」

 1月後半のことば

「努力する人は希望を語り、怠ける人は不満を語る」  井上靖


 皆さんはこの言葉を聞いて、ドキッとしませんか?

 それは、もしかしたら「生きる姿勢」の核心を突かれている気がするからかもしれません。

 ただ、この言葉は、私たちに行動の良し悪しを裁定しているのではありません。むしろ、私たちの振る舞いには必ず「何らかの意図や目的」が隠されていることを教えてくれている、と受け取るべきでしょう。

 「怠ける人」が「不満を語る」のは、彼らは別に性格が歪んでいるからではありません。不満や不足を口にすることで、「私は本当は有能なのだが、外部の環境や他者のせいで能力を発揮できない」という、一種の自己防衛のシナリオを巧妙に構築しているとも言えます。これは、失敗や挫折という「人生の課題」に真正面から立ち向かうことを避け、傷つくことから逃れようとする、「勇気の回避」という目的を持った振る舞い、と考えてみてはいかがでしょうか。不満とは、現状維持を正当化するための、極めて便利な道具として機能してしまうものです。

 一方、「努力する人」が「希望を語る」のは、彼らが単に楽観的な性質を持っているからではないでしょう。彼らは、未来の希望を語り、目標に向かって具体的な行動を選ぶことで、「自分の人生は、外部の条件に左右されることなく、自分で選択し創り上げることができる」という、「主体性」を強く表明しています。希望とは、この「自分で人生を切り開く力」が内側から湧き出てきた結果にほかなりません。

 ですから、もし今、あなたが自分を「怠ける人」だと感じ、不満ばかりが口をついて出るとしたら、それは、あなたの心の奥底が「まだ、自己を変革する一歩を選ぶのを躊躇しているだけ」と考えてみましょう。井上氏の言葉は、決してあなたを断罪しているのではありません。その不満を語るエネルギーを、たった一つの「未来を変えるための行動」への転換を勧めてくれている、と捉えてみることをお勧めします。

2025年12月31日水曜日

1月前半のことば「今年も南無阿弥陀仏」

 1月前半のことば

「今年も南無阿弥陀仏」


 明けましておめでとうございます。

 皆さまにとってこの一年が、平穏で、そして何よりも素晴らしい年となりますように。

 さて、誰もが素晴らしい一年を願うわけですが、これがなかなか難しい。人の願いといえば、たいてい欲望を充足することでしょう。あれが欲しい、これがしたい、今の不満を解消したい。そう願って努力し、目標を達成すれば、その瞬間は満たされる。ですが、どうにも長続きしません。一つ不満を解消すれば、またすぐに別の不足が顔を出す。頑張れば幸せになれるはずなのに、我々は不思議なことに、いつまで経っても本当の意味での満足や幸せにたどり着くことができないのです。

 なぜか。それは、我々の目標設定が、この「満たされない心の渇き」を生み出し続けているからです。仏教は、この「生きていくことのどうしようもなさ」を二千五百年前から深く見抜いていました。

そして、このどうしようもない「欲望のループ」からの脱出こそ、仏の願いでした。

 阿弥陀仏は、私たちが現世の小さな充足に振り回される必要がないよう、極楽浄土という「完全に満たされた世界」を築き、人生の最終目標として用意してくださったのです。

 この世の尽きない欲望ではなく、極楽浄土への往生を確かな目標として、この現世を生きるようにと阿弥陀仏は願われます。しかも、その手立ては極めて簡単です。阿弥陀仏は「ただ我が名を呼べよ。南無阿弥陀仏と称えよ。必ず救う」と約束してくださっています。

 今年も、きっと様々な出来事が起こり、喜びもあれば、予期せぬ困難もあるでしょう。しかし、欲望を満たすためだけに汲々とするのではなく、阿弥陀仏の極楽浄土という大いなる目標を持ち、「南無阿弥陀仏」と声に出して、その大いなる願いに身を任せて過ごしてまいりましょう。

 この「南無阿弥陀仏」こそが、私たちにとっての真の羅針盤なのです。

2025年12月14日日曜日

12月後半のことば 自分の罪に気づいたら…

 12月後半のことば

「雪のうちに 仏の御名を称うれば 積もれる罪ぞ やがて消えぬる」     法然上人                

 しんしんと降る雪は、一粒はか弱くても、積もれば景色を一変させ、道さえ塞いでしまいます。私たちの心に積もる「罪」も、これに似ています。

 悪気はなくとも自分と他人を傷つける、妬みや見栄といった「煩悩の行い」を私たちは日常で繰り返します。まるで音もなく降る雪のように、一つ一つは些細でも、知らないうちに心の奥底に罪が積もり、やがて重い荷物となってしまうのです。

 法然上人は、煩悩をなくせない凡夫であると自覚され、自らの救いを求め続けて、お念仏のみ教えと出会われたのです。

 このご道詠の真意は、降り積もった雪が太陽で溶けるように、私たちが積んでしまった罪も、ただひたすらに「南無阿弥陀仏」とお念仏を称えることによって、たちどころに消え失せるという教えです。

 阿弥陀仏は、煩悩を捨てられない私たち凡夫を、お念仏一つで救うという誓願を立てられました。ですから、嫌でも積もる罪を恐れる必要はありません。自分の罪の重さを知ったならば、阿弥陀仏のお慈悲を信じて、お念仏を称えるのみです。ただこの身を阿弥陀仏にお任せしてお念仏を称え、この世をしっかりと生き抜いていくのです。

 この雪の季節、静かにお念仏とともに、心の雪を溶かしていきましょう。

3月後半のことば「西方極楽 春彼岸」

 3月後半のことば 「西方極楽 春彼岸」   仏教において彼岸は迷いのない「覚りの世界」を意味し、特に浄土宗では、私たちが目指すべき阿弥陀仏の世界「極楽浄土」と受け止めます。春分の日を中心にしたその前後三日間、合計一週間が春のお彼岸の期間です。  この時期、太陽は真東から昇り、真...