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2020年5月25日月曜日

法然上人のご生涯①(時代の背景)

浄土宗の開祖、法然上人がお生まれになった場所「誕生寺」は、岡山の北部、美作というところにあります。

もちろん元々お寺があったのではなく、法然上人の「誕生の地」だということで、お弟子の熊谷次郎直実という方が建てたお寺です。

法然上人は武士の子です。
お父さまは押領使(おうりょうし)というお役人です。

まずここで中世の政治システムについて、その一端を申し上げます。

有名な大化の改新の後、すべての土地と人民を国家のものとする「公地公民制」、や戸籍を作って民衆に土地を割り当てて耕させ、死後その土地を返させるという「班田収授法」が打ち出されました。

そして律令と呼ばれる法律が制定され、6歳以上の男女とも土地が与えられて、その収穫の一部を税として地方の役所に納めること、それ以外にも成人男性には重い税や労役・兵役が課せられました。

しかしパソコンもない時代に全国的な戸籍を作って土地の税を管理する、などということには無理があります。

人々は重い負担に耐えきれずに戸籍を偽って男性が女性であると届けたり、逃げ出すなど税逃れをします。

そこで政府は田んぼを開墾した者は三代にわたってその土地の私有を認める、という画期的な法律(三世一身の法)を制定しました。

人々は最初、先を争って開拓しましたが、当然三代目に期限が迫ると土地の耕作を放棄してしまいます。

財政難に陥った政府は、有力農民を指定して土地を耕させて、そこから税をとる、という方法に変えてきました。

そうなると、政府の様々な役所、皇族、貴族がそれぞれ有力農民を指定して田んぼを経営するようになり、班田収授法というものが有名無実化していきます。

そこでいよいよ政府は土地の私有を公認します(墾田永年私財法)。

しかし実際には民衆が土地を所有することは少なく、貴族や有力な寺社が中心となって私有地を増やしていきます。

これが荘園の始まりです。

当初は荘園からの税収が多く入りました。

でもそのうち色々な理由をつけて免税の権利を得る者が増えました。

結果、朝廷の税収が減少するだけでなく、農民が耕すための口分田の土地も減っていきました。

そして土地制度は崩壊していきます。

危機感をもった朝廷は、田地の管理を有力農民に請け負わせて、地方役員の国司が徴税できるようにシステムを変えました。

任国に赴任する国司のトップを、受領といいます。

朝廷から国の支配を丸投げされた受領は利権争いに走ります。

その徴税は相当に厳しく、土地の持ち主は管理権を所持したまま、土地の名義を有力貴族や寺社に寄進することで税金逃れをしました。

有力貴族から保護を受けた農民の力も強まってきて、国司から荘園を守るために武装を始めました。

これが後に武士団となっていきます。

一方、皇族は皇位継承権を失った皇子たちに氏(うじ)を与えて臣下にします。

桓武天皇が皇子たちに「平」の氏を与えたのが「桓武平氏」、清和天皇が皇子たちに「源」の氏を与えたのが「清和源氏」です。

藤原氏などの貴族も同様に分家していき、名前は藤原氏でも高いくらいに就けない者が増えていきます。

そのような没落した貴族が生計を立てるには地方へ下るしかありません。

そうやって地方へ下る時に天皇から「国司」の肩書きをもらうのです。

法然上人のお父さま、漆間時国(うるまのときくに)公の役職「押領使」は盗賊などを鎮圧するお役です。

国司が兼任することもありますが、更に下っ端の貴族が国司に任命されて就いたり、在地勢力が就くこともありました。

時国公は美作国久米南条稲岡荘(みまさかのくに、くめ、なんじょう、いなおかのしょう)というところの押領使でした。
法然上人の伝記には時国公の先祖も皇族の傍系と記されているものもあります。

そのように朝廷の支配が及ばない荘園と、国司の私物と化した公領が両立する土地体系ができあがっていくのです。



まんが『法然さま』
高橋良和・文
小西恒光・画



2020年5月24日日曜日

法然上人のご生涯②(ご生誕)

法然上人のお母さまは秦氏(はたうじ)というお方です。

古代、中世の女性は一部の上流階級を除いて名前を記録に残しませんでした。

もちろん呼び名はあったでしょうが、記録には残りません。

法然上人のお母さまも「秦」という「氏」の女性だとしかわかりません。

秦氏は渡来系の一族で、機織りものをはじめ、農耕や養蚕、鋳造、木工など多岐にわたる技術をもっていたといいます。

京都の「太秦」他各地に「秦」の名の付く地名が残っています。

京都の広隆寺や松尾大社は秦氏の創建ですし、長岡京や平安京の造営の際には経済基盤を支えたとみられています。

このように秦氏は非常に力を持った一族でありました。

お二人は子供をなかなか授からなかったので、近くの岩間の観音さまと呼ばれるところへお参りして、子授けを祈願されます。

このお寺は本山寺といいまして、今もしっかりと残っています。

現在その伽藍は山の中腹にあります。

元々はもっと奥にあったようですが、1100年に今の場所へ移築されたのだそうです。

1100年ということは法然上人がお生まれになる(1133年)少し前です。

法然上人当時はその辺りでは一番の大寺だったようです。

今は古いお寺ですが、当時はできたばかりの立派な建物だったことでしょう。

900年近く経った今も法然上人の親御さまが祈願された、その同じお堂の同じ観音さまを拝むことができるのです。

実際に足を運びますと、かなり距離もありますし、山の中の険しい場所であることがわかります。

とても現代人が頻繁に通えるような位置関係にないのです。

どのぐらいの頻度でお参りなさったのかは定かではありません。

しかし一度登るのには半日はかかるでしょう。

それを思いますときに法然上人は本当に願って願って願われてこの世に生を受けられたのだということに思い至ります。

さてそんなある日、秦氏さまはカミソリを呑む夢をご覧になりました。

このようにして神仏に祈願をして見た夢を霊夢と申します。

「尊い印だ」とご夫婦喜ばれ、そして秦氏さまはご懐妊されます。

大事に大事にお腹の中で育まれた法然上人は長承2年(1133年)4月7日にお生まれになります。

お釈迦さまがお生まれになったのは4月8日でしたね。

法然上人はその一日前、4月7日です(旧暦です)。

先にもお伝えしましたように、当時の社会は決して平和といえる状況ではありませんでした。

皇族・貴族、そして国司などの役人の私欲のために、人々は随分苦しめられました。

我々も今経験しておりますように疫病が流行したり天災飢饉に見舞われることも多くあったことでしょう。

そういう時代にお生まれになったということで、1133年は「ひとびとさんざん」と覚えよ、と恩師に教わりました。

お生まれになった当日にはどこからともなく二流れの幡が舞い降りてきて、屋敷にあった椋の木に掛かったと伝えられます。

その場所に今、誕生寺が建っているのです。

それはそれはご両親、時国公のご家臣も喜ばれたことでございましょう。

お生まれになった赤ん坊は勢至丸と名付けられ、大事に大事に育てられます。

智慧の菩薩と言われる勢至菩薩さまからお名前をいただかれたわけです。

非常に聡明で信心深い子供であったと伝えられています。



まんが『選択の人 法然上人』
阿川文正・監修
横山まさみち・漫画


2020年5月23日土曜日

法然上人のご生涯③(父 時国公の死)

勢至丸さまのお父さま、漆間時国公は「押領使」というお役目の武士だと申しました。

押領使」とは、地方の治安を維持するお役目であります。

武士といいますと、身分が高かったのですねと言われる方がおられますが、そうでもないようです。

武士を江戸時代の、身分制度が確立してその頂点に君臨していることを多くイメージされていませんか?

中世のの武士はそうではありません。

天皇や貴族の警護をしたり、地方を武力でもって治める、どちらかというと乱暴者のようなイメージでみられていた部分もあるようです。

漆間時国公も武士ですから、そのような面もあったのかも知れません。

法然上人のご生涯①でお伝えしましたように、稲岡荘は貴族や寺社が土地を所有していて、そこから徴税するという荘園です。

この荘園の管理者を預所といいます。

稲岡荘の預所は明石源内武者定明といいます。

時国公はその土地の治安を守る押領使であり、同じ土地に立場や利害の違う武士がいるのです。

そしてこの時代は支配関係がすっかり崩れていました。

伝記にも時国公は預所の明石定明を見下し、命令に従わないばかりか面会しても敬意を表すこともなかったといいます。

このように時国公と明石定明の間には人間関係のもつれがありました。

勢至丸さまが数え年9歳のある夜、突然定明が大勢で時国公の屋敷を攻めてきました

時国公は深手を負い、それが致命傷となって亡くなります。

ご自分の死を覚悟した時国公は、枕元に一人形見である勢至丸さまを呼び、非常に尊い遺言を残されます。
勢至丸さまは武士の子ですから、当然「必ず仇を討ちます!」と考えたことでしょう。

しかし時国公はそれをお許しになりませんでした。

何と「仇を討つな」とおっしゃったのです。

仇を討つな。お前が私の仇を討ったならば、敵の子や家来がまたお前の命を狙うであろう。
恨み憎しみというものは尽きることがないのだよ。
恨み、憎しみはお前のところで断ち切るべきだ。
お前は出家をして私の菩提を弔ってくれ。
そしてお前自身が覚る為の道をしっかりと突き進んでくれよ。」とお示しになったのです。

これは現代でいう平和主義というものとは大きく次元を異にします。

当時は敵討ちは美徳でありました。

ましてや夜討ちという卑怯な手でやられていますから、敵討ちをしない方がおかしいのです。

卑怯者と言われるのです。

その時代に、しかも自分が普段から憎む相手に襲われた。

そんな時に「仇を討つな」と仰ったということはとてつもなくすごいことなのです。

ただ、遺言は尊いですが、それを言われる勢至丸さまにとりましてはさぞおつらかったことでしょう。

「この恨みを忘れまい!臥薪嘗胆。いずれ大きくなったら必ず私の仇を討ってくれよ」と言われる方がよっぽど気が楽だったと思います。

しかし時国公はそのまま亡くなりますから、その遺言を守らなくてはなりません。

まだ数えで9歳、今でいう小学校2年生という幼さです。

親を目の前で殺される、そのむごたらしい場面はいつまでも脳裏から離れることはありませんでした。


『マンガ 法然上人伝』
阿川文正・監修
佐山哲郎・脚本
川本コオ・漫画


2020年5月22日金曜日

法然上人のご生涯④(母との別れ)

漆間家には「時国公が残した一人息子を敵が狙うかもしれない」そんな恐れもあったでしょう。

お母さまからすれば「我が子を守るためにはまずは身を隠させなくてはいけない」。

勢至丸さまはお母さまの弟、天台宗の僧侶である観覚さまの元へと送られます。

お父さまのご遺言を胸に仏道修行へと入ることになったのです。

同じ岡山の那岐山にある菩提寺という山寺です。

誕生寺のある場所とは随分離れています。

しかも険しい山の中です。

幼い子供がとてもすぐに行って帰ってこれるようなところではありません。

わずか小学校2年生ほどの幼い子が親と離されて連れて来られたのかと想像しますと、胸が痛くなります。

勢至丸さまは一を聞いて十を知る、非常に頭の良いお方でした。

観覚さまは「こんな田舎の山寺にいつまでも置いておくにはもったいない」と勢至丸さまを比叡山に送られます。

勢至丸さま数え年15歳(13歳説もあり)のことでした。

このときにお母さまとは生き別れです。

二度と会われることはありませんでした(伝記によっては再会する話もあります)。

もちろん今のように交通は発達していませんし、比叡山に登るということは「二度と家族と会わない」という覚悟をしなくてはならないことでした。

毎日お母さま、秦氏さまは比叡山にいる勢至丸さまのことを思い、その方角に向かって合掌されたといいます。

その場所が誕生寺にほど近くに残されています。

仰叡の灯」と呼ばれる場所です。


そこから比叡山の方角を向くとすぐそこに山に遮られてしまいます。

かすかに見えることもない遙か彼方に向かって毎日勢至丸さまのご無事を祈られたことでしょう。

かたみとて はかなきおやの とどめてし このわかれさへ またいかにせん」(死別した夫の忘れ形見として残してくれた子と、このような別れに、どうしたらよいのか 山本博子氏訳)と別れを惜しまれたと伝えられます。



『法然上人絵伝講座』
玉山成元・宇高良哲



2020年5月21日木曜日

法然上人のご生涯⑥(南都遊学)

死にもの狂いで教えを求められた法然上人は、24歳の時に一度比叡山を下りて、嵐山の
釈迦堂にお参りになります。

清涼寺というお寺で現在は浄土宗に所属します。

釈迦堂におまつりされているお釈迦さまのお像は、昭和29年の調査で、胎内に布で五臓六腑まで作られて収められていることがわかりました。

そのお像は法然上人当時から、生身(しょうしん)のお釈迦さま、本物のお釈迦さまとして多くの人々から崇められていました。

法然上人は必死になって、「お釈迦さま、お釈迦さまが説かれたみ教えにこの私が救われる教えがきっとあるはずです。
どうか私にそれをお示し下さい。」と願われたことでしょう。

法然上人は七日間毎日すがるような思いで釈迦堂にお参りされて祈願されます。

ご自分自身が救われる教えを求めて参籠なさっていましたが、ふと周りを見ると、他にも悲壮な面持ちで拝む人々が目に入ります。

釈迦堂には貧しい者、お金持ち、男、女、身分や地位に関係なくたくさんの人が法然上人と同じように救いを求めてお参りしていました。

「みんな救いを求めている」

法然上人はそれを見て大いに刺激されたことでしょう。

それから奈良や京都の偉いお坊さんを順番に訪ねて行かれます。

比叡山は天台宗ですが、奈良には南都の宗派があります。

華厳宗や法相宗など、南都の偉いお坊さんに会い、教えを請われます。

頭脳明晰で知識も豊富な法然上人はすぐに教え自体は理解されます。

教えて下さった偉いお坊さん以上に理解を深められる法然上人ですが、しかし「そのような教えでは私は救われない」とがっかりとして去って行かれます。

多くのお坊さんに教えを受けたけれども、本当に私が救われる教えはないと失意の内に比叡山の黒谷へと戻って行かれます。

比叡山に戻った法然上人は今まで以上に修行に打ち込まれます。



『法然』中里介山著

法然上人のご生涯⑤(比叡山へ)

観覚さまは比叡山北谷におられる、旧知の持宝房源光(じほうぼうげんこう)さまの元に勢至丸さまを送り出しました。

その紹介状には「文殊菩薩を一体お届けします」と書かれていたといいます。

文殊菩薩は勢至菩薩と同じく智慧の菩薩です。

師匠にそう言わしめるほど勢至丸さまは聡明だったのでしょう。

源光さまは優秀な勢至丸さまを、東塔功徳院の皇円阿闍梨(こうえんあじゃり)に託されました。

比叡山に登ってから勢至丸さまはがむしゃらに学び、修行に励まれます。

ストイックに修行を続けた勢至丸さまは徐々に有名になってきます。

お師匠さまには「お前は頭が良い。いずれは天台の棟梁になるべき器だ」などと言われます。

しかし勢至丸さまは、そんな出世や名声には全く興味がありません。

勢至丸さまの目的はただ一つ、お父様のご遺言の通りに覚りに至ることです。

「このままいたら出世競争に巻き込まれてしまう」と数え年18歳、今の高校2年生という若さで隠遁(いんとん)してしまわれます。

比叡山の中でも特に奥深い黒谷という土地に青竜寺(せいりゅうじ)というお寺があります。

青龍寺には叡空上人(えいくうしょうにん)がおられ、その元に勢至丸さまと同じく隠遁してひたすら学問と修行をする人が集まっていました。

勢至丸さまがそれまで「勢至丸」というお名前でおられたのか、別のお名前があったのかはわかりませんが、黒谷青龍寺に入った後、叡空上人から法然というお名前を授かりました。

法然房源空(ほうねんぼうげんくう)というのが正式なお名前です。

法然」とはお釈迦さまの教え、「法のままに」という意味です。

「源空」は、法然上人が比叡山に入って最初のお師匠さまであります源光上人の「源」と、叡空上人の「空」をとってつけられたといいます。

法然上人はそれ以来、この黒谷青龍寺で二十五年間も過ごされます。

京都市左京区にあります浄土宗の大本山金戒光明寺も「黒谷」といいますが、こちらの黒谷は「谷」ではなく「丘」です。

比叡山の「黒谷」に長くおられた法然上人はいつしか「黒谷上人」と呼ばれるようになったので、そこから「黒谷上人がおられるところ」ということで、京都の丘にある金戒光明寺も「黒谷」と呼ばれるようになりました。

区別するために比叡山の黒谷を「元黒谷」、京都の黒谷を「新黒谷」と呼ぶこともあります。

黒谷青龍寺に入られてからの法然上人は今までにも増して学び、厳しい修行をなさいます。

しかし学べば学ぶほど、修行すればするほどに、教えの尊さと自分の器の間の距離を実感されるのです。


続日本の絵巻『法然上人絵伝 上中下』


2020年5月20日水曜日

法然上人のご生涯⑦(立教開宗)

仏教は「戒、定、慧」の三つに尽きるといいます。

この三つを「三学」といいます。

「戒」というのは「仏教徒としての善い習慣」です。

私たちは善い行いをしようと思っても煩悩によって、なかなか善い行いができません。

それに何が善い行いなのかすらわかりません。

私たちがする行いは殆どが自分本位の行いです。

そこでお釈迦さまが「これをやらないように、こんな善い行いをせよ、人のために尽くせ」と教えて下さっているのです。

それが「」です。

例えば代表的な戒に「生き物を殺さない」という戒があります。

「生き物を殺すことが習慣として身についています」という人は決してよい人生を歩めません。

「生き物を殺さない習慣を身につけよ」というのです。

これを厳密に守るのは非常に難しいですよね。

小さな虫なども知らない内にたくさん殺しているでしょう。

法然上人はご自分自身の心を見つめると、きっとお父さまを殺されたことに対する憎しみや恨みを拭いきれなかったことだと思います。

いくら憎むまい、憎むまいと思ってもその心を押さえることさえできない自分を自覚しておられたのでないでしょうか。

他の人も同様の迷いは払拭できなかったことでしょう。

それを「この程度でいいだろう」と思われていたのかもしれません。

でも法然上人は、本気で悟りを求めておられます。

自分が救われるために。

お父さまが救われるために。

すべての人を救うためにどころではないはずです。

自分がまず救われなくてはなりません。

そういう法然上人にとって、上辺だけ戒を守っていても何にも意味はありません。

他人から見れば、完璧に戒を守っていると言われた法然上人ですが、ご本人は
「一つの戒も守ることができない」とおっしゃいます。

これは謙遜ではありません。

本気で修行をし、本気でご自分を見つめられた結果のことです。

」を守ってこそ初めて「」という修行ができるといいます。

」とは、散り乱れる心を鎮めて瞑想することです。

瞑想によって、仏さまのお姿や極楽浄土を思い描き、目を開けていても閉じていても目の前に映し出す。

その境地を「三昧」といいます。

現在では「読書三昧」「贅沢三昧」とか「かに三昧」などと、「一心不乱にする」ことから「むやみやたらにする」ことまで広く使われています。

しかし原意は「瞑想によって散り乱れる心を抑えたやすらかな状態」をいいます。

「瞑想の境地」です。

これも外から見たら完璧な法然上人ですが、ご自分自身は真剣勝負です。

その立場での告白には、
散乱して動じやすく、一心鎮まり難し
つまり、「心乱れてどうしようもない」
とおっしゃるのです。

まるで自分の心は、猿が木から木へと飛び移るかのように、あっちに行ったりこっちに行ったり、一つ処に止めることさえできない、と嘆かれました。

その間、お伝記には
嘆き嘆き経蔵に入り、悲しみ悲しみ聖教に向かいて
と記されています。

嘆きながらお経の蔵に入り「お釈迦さまが説かれたみ教えの中にこの私が救われる教えがないのか」と必死になって探される。

悲しみながらお経を一枚一枚めくってめくって「必ずやどこかにあるはずだ、ないはずがない」と蔵に籠もり続けられたのであります。

普通一生涯かかってもすべて読み尽くすことができないと言われる一切経、五千巻余りある膨大な量のお経を五度も読まれました。

更にその中から善導大師が観無量寿経を解説された『観経の疏』という書物を見つけられて、それをまた三度読まれたといいます。

そしてその『観経疏』にあるお言葉
一心専念 弥陀名号 行住坐臥 不問時節久近 念々不捨者 是名正定之業 順彼仏願故」という一文に目が止まります。

一心に専ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥に時節の久近を問わず念々に捨てざる、これを正定の業と名付く。彼の仏の願に順ずるが故に。

「ただ一心に南無阿弥陀仏とお唱えして、歩いている時も立ち止まっている時も座っているときも寝転がっている時も、教えに出会った時期が遅かろうが早かろうが、ずっとお念仏を続けていく。
それが極楽へ往生する道であるぞ。
なぜならそれは阿弥陀さまの本願だからである。」

阿弥陀さまの本願」とは、阿弥陀様ご自身が「わが名を称える者を救うぞ」とお誓い下さいました。

それを本願と申します。

「わが名を称えよ」と言われるから私たちは「南無阿弥陀仏」と阿弥陀さまのお名前を称えるのです。

「これだ、これだ、これなら私は救われる、父も救われる、あった、あった!!!」と涙を流して喜ばれます。

お伝記には「落涙千行なりき」と書かれています。

男泣きに泣かれたのです。

この「一心専念の文」を「浄土宗開宗の文」と申します。

この一文を見つけて法然上人は浄土宗を開かれたのです。




『絵で見る法然上人伝』


2020年5月19日火曜日

法然上人のご生涯⑧(専修念仏)

基本的に仏教では苦しみ迷いの世界から抜け出すために、覚りを目指して修行をしていきます。

そのプロセスは「戒を守り瞑想修行をして覚りに至る」という「戒・定・慧(かい・じょう・え)」という言葉で表現されます。

しかし法然上人のように、真剣に修行をし自らの中身を見つめたときに、「煩悩を兼ね備えた自分は本当の意味での修行が覚束ない者である」と自覚せざるを得ないのです。

一方一般民衆はどうでしょうか。

そのような難しい修行ができるでしょうか?

煩悩を断ちきることができるでしょうか?

多くの民衆が
「私のような者は到底覚りになど至ることはできない」
「私は救いから見放されている」
と考えていました。

そういう人々に法然上人は
「自分を磨いて覚りに至ることはできないかもしれない。
でも南無阿弥陀仏と仏の名を称えれば、阿弥陀仏が救いに来てくださるのですよ。
自分の力では一歩も覚りに近づくことはできないけれど、阿弥陀仏の力でどんな者も極楽浄土へ救われるのですよ。」
と説かれました。

法然上人は、老いも若きも男も女も金持ちも貧しい人も、どんな立場の人にも区別なくお念仏のみ教えを説いていかれます。

お念仏の教えは「こんな私では救われない」と思って、救われることを諦めていた多くの民衆にあっという間に広がります。

法然上人が説かれる「ただ極楽浄土への往生を願い、阿弥陀仏にすがり、南無阿弥陀仏と念仏を称える」という「専修念仏」の教えは、社会的地位や学問の有無を一切問いません。

ですから天皇、貴族、武士、一般庶民、漁師、陰陽師、遊女、盗人まで、法然上人の信者の層は非常に厚いのです。

そのようにしてお念仏は燎原の火の如く広がっていきました。



『法然上人のお言葉』
元祖大師御法語
総本山知恩院布教師会刊



2020年5月18日月曜日

法然上人のご生涯⑨(法難)

教えが広まりますと、旧来の宗派は危機感を持ち、浄土宗を批判します。

また、法然上人のお弟子の中でも本当のお念仏の教えを理解せず、
「念仏さえ称えたらどんな悪いことをしても平気なんだ」
などと吹聴する者も現れてまいります。

そのような不穏な空気漂うときに事件が起こります。

最高権力者である後鳥羽上皇が熊野詣で留守の間に、上皇が寵愛する女官、松虫・鈴虫の姉妹が法然上人の弟子、住蓮と安楽の元で出家してしまいます。

姉妹は今、上皇に可愛がられているとはいえ、いつ見限られるかもわからない籠の中の鳥、儚い身です。

世間から漏れ聞こえるところによると、巷では法然上人が説かれる専修念仏の教えは、
「どんな者でも救われる」というではないか。

「私たちも救われるのでしょうか?
一度話を聞いてみたい」

そのような思いもつのっていたことでしょう。

きっと宮廷を抜け出る機会を図っていたことでしょう。

上皇の熊野詣でという、またとないチャンスを逃すわけにはいきません。

二人は手と手を取り合って、宮廷を抜け出し、京都東山鹿ヶ谷へ向かいます。
鹿ヶ谷には、法然上人の直弟子、住蓮さまと安楽さまのお二人が日々「善導大師」の
『往生礼讃』に節をつけ、美しい声で唱えておられるという情報を聞きます。

二人そろってその法会に参加し、極楽浄土の情景を思い浮かべ、魅了されます。

「もう宮廷には戻りたくない。
どうか私たちを出家させてください」
と住蓮さまと安楽さまに懇願します。

住蓮さまと安楽さまはその願いを快く受け取り、姉妹の髪を剃り落とすのです。

それを聞いた後鳥羽上皇は激怒します。

安楽さまは六条河原で、住蓮さまは近江の馬淵で処刑されます。

当時としても、いくら権力者であっても出家者を処刑にすることはまずなかったといいます。

後鳥羽上皇の怒りがいかに大きかったのかを物語ります。

そのように多くの要因が重なって、法然上人はいわばお弟子の不始末の責任をとらされることになりました。

四国の讃岐へ流罪ということになりました。

法然上人御年75歳の時であります。

お弟子の一人は
「お師匠様、今は批判が多いですから、お念仏の教えを広めることはひとまず止めておきましょう。」
と法然上人に提案なさいました。

法然上人は、いつになく厳しい口調で
「何を申すか!私は喩え死刑に処せられてもお念仏のみ教えを伝えるのに口を噤むことはしない!」
とおっしゃいました。

それを聞いて一同涙したと伝えられています。

讃岐への道中、讃岐へ行ってからもも多くの人にお念仏のみ教えを説かれました。

讃岐におられたのはわずか9ヶ月で、ひとまずお許しが出ます。

しかし京都に入ることは許されず、今の箕面の勝尾寺で4年間過ごされます。

洛内に入ることを許された法然上人はすでに御年79歳になっておられました。

今の知恩院の勢至堂というお堂がある所、吉水という土地に入られます。


『図解雑学 法然』
伊藤唯真・監修
山本博子・著

2020年5月17日日曜日

法然上人のご生涯⑩(ご往生)

年明けて正月2日から法然上人は、かねがね体調が悪く食が進まなかったところ、更にひどくなって床につかれることが多くなりました。

そんなあるとき、法然上人の一番弟子とも言われる信空上人が法然上人に尋ねられます。

もう法然上人の先が長くないことは誰の目にも明らかです。

「昔から偉いお坊さんには遺跡(ゆいせき)があります。

伝教大師には比叡山がありますし、弘法大師には高野山があります。

しかしお師匠さまは未だ一つのお寺もお建てになっていません。

法然上人ご入滅の後、どこを遺跡とすればよろしいでしょうか?」

教団を守る弟子をまとめて行かねばならない信空上人のお立場で、そのような質問をなさいました。

それにお答えされた法然上人のご返事が素晴らしいのです。

遺跡を一カ所に決めてしまえば、教えは広まらない。

私の遺跡はあちこちにある。

なぜならば、念仏を広めることが私の生涯の役割であった。

だから念仏の声する所はどんなところであってもみんな私の遺跡と心得よ。」

念仏の声するところすべて法然上人のご遺跡なのです

大勢がそろってお念仏を唱えることが叶わないときを私たちは経験しています。

しかしあなたがお家で称えられたら、皆さんのお家が法然上人のご遺跡になるのです。

尊いことではありませんか。

同じ月、建暦2年(1212)1月25日法然上人はその80年のご生涯を終え、極楽浄土へと往生されました。

「人々さんざん」(1133年)にお生まれになり、どんな者でも救われるお念仏のみ教えを説かれ、「いちに、いちに」(1212)と極楽浄土へ往生されたと覚えてください。

今その地は知恩院の中、御廟という建物が建ち、法然上人のご遺骨が収められております。

しかしそこだけが法然上人のご遺跡ではありません。

念仏の声するところ、どこもかしこも法然上人のご遺跡だとお示し下さったのです。

皆さんが行くところ行くところでお念仏をお称えになれば、それが法然上人のご遺跡になるのです。

そのような思いで、お念仏をお続け下さいましたら、法然上人の本意に叶うことでしょう。




『法然上人の御影』
総本山知恩院刊

          
                       (法然上人のご生涯の項をおわります)

8月前半のことば 「亡き親の しきりに恋し 蝉の声」

 8月前半のことば 「亡き親の しきりに恋し 蝉の声」   若い頃、親の言葉を素直に聞けず、反発ばかりしていた日々はありませんでしたか。進路のことで衝突したり、ささいな注意に声を荒らげたり。  しかし自分が親となり、泣きやまぬ我が子を抱いて途方に暮れる時、かつて自分を包んでいた親...