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2020年12月25日金曜日

安心(あんじん)① 心を安置する

浄土宗は「南無阿弥陀仏」と称えることを旨とする宗派です。

 

だからといって「100円やるから称えてごらん」

 

と言われて称えたらいいのか?というと、

 

そんなはずはありません。

 

「どういう心持ちで念仏をとなえればよいのか?」

 

ということが大切です。

 

その心持ちのことを「安心(あんじん)」と申します。

                   

また安心(あんじん)は念仏信者の

 

「心の据えどころ」だと言われます。

 

心を「安置」するのです。

 

仮置きすることを「安置」とはいいません。

 

「しっかりとこの場所に」固定する。

 

滅多なことでは動かさない。

 

それが「安置」です。

 

「安心(あんじん)」とは心の置き所。

 

心を安置する所です。

 

「あんしん」ではありません。

 

「あんしん」は心が安らぐこと。

 

「安心(あんじん)」は「心を安置する」こと。

 

「あんしん」と安心(あんじん)では随分意味が違うのです。

2020年12月24日木曜日

安心(あんじん)② 総安心(そうあんじん)その一

 安心(あんじん)には総安心(そうあんじん)と

 

別安心(べつあんじん)があります。

 

総安心(そうあんじん)は

 

安心(あんじん)の総まとめであり、

 

「厭離穢土(えんりえど)欣求浄土(ごんぐじょうど)」

 

と表現します。

 

「穢土(えど)」とは、

 

この「娑婆(しゃば)世界」のことです。

 

「穢土(えど)を厭(いと)い離れて

 

浄土を願い求めよ」という意味です。

 

これは、「この世なんて生きてても何の価値もないんだ」

 

という、ただの厭世(えんせ)思想ではありません。

 

そうではなく、この世を正面からまっすぐに見るのです。

 

この世は思い通りにならない

 

「四苦八苦」の人生である。

 

思い通りにならずに、

 

自らを苦しめて日々を過ごしている私である、

 

ということをまず認めた上で浄土を願い求めるのです。

 

武士が戦場で目印として旗につける紋や文字を

 

旗印(はたじるし)といいます。

 

この「厭離穢土(えんりえど)

 

欣求浄土(ごんぐじょうど)」は、

 

徳川家康公の旗印(はたじるし)です。

 

徳川家は代々浄土宗なのです。

 

家康公は浄土宗の教えに基づいて、

 

日々六万遍もお念仏を称えたと伝えられます。

 

その家康公の旗印(はたじるし)が、

 

「厭離穢土(えんりえど)欣求(ごんぐ)浄土」

 

なのです。

2020年12月23日水曜日

安心(あんじん)③ 総安心(そうあんじん)その二

 


 

無量寿経の中に


「有田憂田有宅憂宅(うでんうでんうたくうたく)

 

という言葉があります。

 

「田があれば田を憂い、家があれば家を憂い」

 

田を持っているならそれを喜べばいいけれども、

 

「こんな小さな田んぼなんて」

 

と不満を言い、

 

「耕さないと持っていかれてしまうから

 

耕さないといけない」と不平を言い、

 

「こんだけしか収穫しないのに手間はかかる」

 

とグチを言う。

 

しまいには「手放そうか、人に任そうか、どうしようか」


思い悩む。

 

また、住む家があればそれだけで幸せなことと

 

喜べばいいけれども、そういう人は少ない。

 

「こんな古い家」と文句を言い、

 

「私の趣味と違う」と不平を言い、

 

「この部屋は北向きだから寒い」

 

「すきま風だらけだ」

 

「この家は夏は暑くて冬は寒い」と挙げたらキリがない。

 

これが私たちの日常ではないでしょうか。

 

そんな生き方では絶対に幸せにはなることはできません。

 

ある精神科医の先生が「不平不満を言い、怒ってばかりの人は

 

幸せにはなれないと断言します」と仰っていました。

 

瞋りの煩悩は自分を攻撃します。

 

そして、頭の中が不満だらけで

 

不満を口にしてばかりの人は、

 

ずっと不満だらけですから、

 

当然いつも不幸せです。

2020年12月22日火曜日

安心(あんじん)④ 総安心(そうあんじん)その三

私たちは、不平不満ばかり言って生きています。

 

取るに足りない細かな不満で自ら疲弊してしまいます。

 

時には、どうしても我慢できないような

 

苦しみ、悲しみに遭うこともあります。

 

このように考えると、私たちの人生は

 

ろくなもんじゃないと思えてきます。

 

しかし「お念仏を称えていれば、いつかこの命が尽きた後に本

 

当の幸せの世界に救われる」と受け止められたら、この先の人生

 

にも希望が湧くのではないでしょうか。

 

命尽きた後に希望が持てたら、この世を生きるのにも

 

ハリが出るでしょう。

 

中学生や高校生は夏休みの前に中間試験があります。

 

中間試験は苦しいけれど、

 

「この後に夏休みがある!」と思ったら乗り切れる。

 

夏休みを楽しみにするかのように、

 

極楽への往生を楽しみできたら、

 

この世はどれほど生きやすくなるでしょう。

 

厭離穢土(えんりえど)欣求浄土(ごんぐじょうど)。

 

この世への執着を捨てて、極楽浄土を求めるのです。

 

これが念仏信仰者の「心の置き所」である

 

「安心(あんじん)」の

 

総まとめ、「総安心(そうあんじん)」です。

2020年12月21日月曜日

安心(あんじん) ⑤至誠心(しじょうしん)その一

念仏信仰者の心の置き所を「安心(あんじん)」といい、

 

その「安心(あんじん)」の総まとめである

 

「総安心(そうあんじん)」は、

 

「厭離穢土(えんりえど)欣求浄土(ごんぐじょうど)」

 

とお伝えしました。

 

この「安心(あんじん)」を詳しく分析して、

 

三つに分けることができます。

 

念仏する者がどういう心持ちでいるべきなのかを

 

具体的にしたものです。

 

これを「三心(さんじん)」と申します。

 

「三心(さんじん)」はまた、

 

「総安心(そうあんじん)」に対して

 

「別安心(べつあんじん)」ともいいます。

 

「三心(さんじん)」は、

 

「至誠心(しじょうしん)・深心(じんしん)・

 

廻向発願心(えこうほつがんしん)の三つです。

 

唐の時代の中国で、浄土宗の教えを完成された

 

「善導大師(ぜんどうだいし)」は、

 

「至誠心(しじょうしん)は真実心(しんじつしん)」

 

と説いてくださいました。

 

「真実の心」つまり、「誠の心」です。

 

裏表のない素直な心。

 

「本気の心」です。

2020年12月20日日曜日

安心(あんじん) ⑥至誠心(しじょうしん)その二

法然上人のお念仏の教えは、

 

広い範囲に及びました。

 

身分の高さで言いますと、

 

上は天皇から、なんと下は泥棒までいるのです。

 

泥棒、強盗です。

 

河内の国に天野四郎(あまのしろう)という男がおりました。

 

人を殺して金を奪うことを生業にしている、

 

という極悪人です。

 

ある時、法然上人のところに忍び込んだ時、

 

潜んだ先から聞き耳を立てて、

 

どんな者でも救われるお念仏のみ教えが耳に入り、

 

感激して出家したのです。

 

天野四郎(あまのしろう)は、

 

教阿弥陀仏(きょうあみだぶつ)と

 

自らの名前を変えて、今までの罪を悔い、

 

お念仏一筋の人となりました。

 

教阿弥陀仏(きょうあみだぶつ)さまは、

 

法然上人のそばで教えに触れて至福の時を過ごしていました。

 

或る夜、ふと夜中に目が覚めると、何やら声が聞こえます。

 

耳を澄まして聞いてみると、

 

法然上人がお念仏を称えておられる声だと気づきます。

 

教阿弥陀仏(きょうあみだぶつ)さまは、

 

声を出してはいけないと我慢をしておりましたが、

 

我慢仕切れずに咳払いをしてしまいます。

 

すると法然上人のお念仏の声がはたと止み、

 

法然上人は床につかれたご様子でした。

 

それから数日が過ぎ、教阿弥陀仏(きょうあみだぶつ)さまは、


お念仏のみ教えについて、色々とお聞きしている時に、

 

法然上人から「そなたは、私が先日、夜中にお念仏を


人知れず称えていたのを知っておるか?」

 

と尋ねられました。

 

教阿弥陀仏(きょうあみだぶつ)さまは、

 

「はい、夜中に目が覚めたら

 

お声が聞こえてきました。

 

ありがたく思っておりましたが、

 

我慢しきれず咳払いをしましたら

 

法然さまのお声が止まったので、

 

残念に思っておりました」とお答えになりました。

 

法然上人は、

 

「そうか、そうか。

 

あの時の私のお念仏こそ真実の心でのお念仏であるぞ」

 

とおっしゃいました。

 

人は、とかく人の目を気にして、

 

同じ念仏を称えるにも、善人に見られようとか、

 

精進しているように見せようとか、

 

時には我が子に仏を拝む姿を見せてやろうとしてしまうものです。

 

しかし、それは真実の心ではありませんね

 

この時の法然上人は夜中に一人、

 

往生を願ってお念仏を称えておられました。

 

教阿弥陀仏(きょうあみだぶつ)さまに

 

聞かせようとして称えたわけではありません。

 

「阿弥陀さま!」と本気で思いを寄せてお念仏を称えるのです。

 

一目を飾ることなく、内も外も阿弥陀さまへ、

 

極楽浄土へ思いを寄せるのです。

 

至誠心(しじょうしん)。

 

素直な心、本気の心が大切です。

 

本気で何をするのかは、

 

三心(さんじん)の中、後の二つに掛かってきます。

8月前半のことば 「亡き親の しきりに恋し 蝉の声」

 8月前半のことば 「亡き親の しきりに恋し 蝉の声」   若い頃、親の言葉を素直に聞けず、反発ばかりしていた日々はありませんでしたか。進路のことで衝突したり、ささいな注意に声を荒らげたり。  しかし自分が親となり、泣きやまぬ我が子を抱いて途方に暮れる時、かつて自分を包んでいた親...