極楽往生を妨げる四つの障りが
「疑心(ぎしん)」「懈怠(けだい)」
「自力」「高慢」で、
これを「四障(ししょう)」という、と申しました。
それに対して「こんな人が極楽へ往ける」という
四種の人柄を「四機(しき)」と申します。
「疑心(ぎしん)」に対しては「信心」。
「懈怠(けだい」に対しては「精進(しょうじん)」。
「自力」に対しては「他力」
「高慢」に対しては「卑下(謙虚)」です。
「疑心」が強い人は念仏なんて称える気が
起こりませんから、怠けます(「懈怠(けだい)」)。
そうすると阿弥陀さまに頼ることは
ありませんから「自力」になる。
「自力」の人は「あらゆることを自分の力で!」
と「高慢」になります。
そして逆に「私は罪多き凡夫です」と「卑下(謙虚)」
することができる人は、
阿弥陀さまの力「他力」を頼りにします。
そういう人は阿弥陀さまを信じて
お念仏を称えますから、「精進」します。
そして往生を願って「信心」を深めるようになっていきます。
へりくだって腰は低いけども、
それを「私は人に偉そうにしたことないんです!」
と誇ることは卑下慢(ひげまん)と言って、
やはり戒められます。
自分が「自力」ではとても往生なんておぼつかないと、
自分の力、機をしっかりと正面から見て
わかっている人のことを「卑下」と言っているのです。
そんな私であれば、阿弥陀さまの本願の力に
頼らざるを得ない。
「他力」です。
決して他人任せではありません。
阿弥陀さまの本願の力を限定して「他力」というんです。
この私たちは不思議なご縁でお念仏のみ教えと出会いました。
自分の力は覚束ない私であります。
自分の力を頼っていたら、何度生まれ変わっても
解脱などできない私です。
解脱どころか煩悩だらけの自分を
見つめれば見つめるほど、
この命尽きたら地獄に堕ちざるを得ないような
心の持ち主ではないか、と気づかされます。
その私を救わんがために、阿弥陀さまは
「我が名を呼べば救うぞ」と誓ってくださっているのです。
これが「本願他力」です。
自分の力を頼りになど到底できないことを
知らされます。
他力にすがるしかないと気づいたならば、
お念仏を精進する。
そして「私が往生させていただくためにはこのお念仏しかない!」
「助け給え阿弥陀仏」と「信心」が培われていくのです。