仏教は「戒、定、慧」の三つに尽きるといいます。
この三つを「三学」といいます。
「戒」というのは「仏教徒としての善い習慣」です。
私たちは善い行いをしようと思っても煩悩によって、なかなか善い行いができません。
それに何が善い行いなのかすらわかりません。
私たちがする行いは殆どが自分本位の行いです。
そこでお釈迦さまが「これをやらないように、こんな善い行いをせよ、人のために尽くせ」と教えて下さっているのです。
それが「戒」です。
例えば代表的な戒に「生き物を殺さない」という戒があります。
「生き物を殺すことが習慣として身についています」という人は決してよい人生を歩めません。
「生き物を殺さない習慣を身につけよ」というのです。
これを厳密に守るのは非常に難しいですよね。
小さな虫なども知らない内にたくさん殺しているでしょう。
法然上人はご自分自身の心を見つめると、きっとお父さまを殺されたことに対する憎しみや恨みを拭いきれなかったことだと思います。
いくら憎むまい、憎むまいと思ってもその心を押さえることさえできない自分を自覚しておられたのでないでしょうか。
他の人も同様の迷いは払拭できなかったことでしょう。
それを「この程度でいいだろう」と思われていたのかもしれません。
でも法然上人は、本気で悟りを求めておられます。
自分が救われるために。
お父さまが救われるために。
すべての人を救うためにどころではないはずです。
自分がまず救われなくてはなりません。
そういう法然上人にとって、上辺だけ戒を守っていても何にも意味はありません。
他人から見れば、完璧に戒を守っていると言われた法然上人ですが、ご本人は
「一つの戒も守ることができない」とおっしゃいます。
これは謙遜ではありません。
本気で修行をし、本気でご自分を見つめられた結果のことです。
「戒」を守ってこそ初めて「定」という修行ができるといいます。
「定」とは、散り乱れる心を鎮めて瞑想することです。
瞑想によって、仏さまのお姿や極楽浄土を思い描き、目を開けていても閉じていても目の前に映し出す。
その境地を「三昧」といいます。
現在では「読書三昧」「贅沢三昧」とか「かに三昧」などと、「一心不乱にする」ことから「むやみやたらにする」ことまで広く使われています。
しかし原意は「瞑想によって散り乱れる心を抑えたやすらかな状態」をいいます。
「瞑想の境地」です。
これも外から見たら完璧な法然上人ですが、ご自分自身は真剣勝負です。
その立場での告白には、
「散乱して動じやすく、一心鎮まり難し」
つまり、「心乱れてどうしようもない」
とおっしゃるのです。
まるで自分の心は、猿が木から木へと飛び移るかのように、あっちに行ったりこっちに行ったり、一つ処に止めることさえできない、と嘆かれました。
その間、お伝記には
「嘆き嘆き経蔵に入り、悲しみ悲しみ聖教に向かいて」
と記されています。
嘆きながらお経の蔵に入り「お釈迦さまが説かれたみ教えの中にこの私が救われる教えがないのか」と必死になって探される。
悲しみながらお経を一枚一枚めくってめくって「必ずやどこかにあるはずだ、ないはずがない」と蔵に籠もり続けられたのであります。
普通一生涯かかってもすべて読み尽くすことができないと言われる一切経、五千巻余りある膨大な量のお経を五度も読まれました。
更にその中から善導大師が観無量寿経を解説された『観経の疏』という書物を見つけられて、それをまた三度読まれたといいます。
そしてその『観経疏』にあるお言葉
「一心専念 弥陀名号 行住坐臥 不問時節久近 念々不捨者 是名正定之業 順彼仏願故」という一文に目が止まります。
「一心に専ら弥陀の名号を念じ、行住坐臥に時節の久近を問わず念々に捨てざる、これを正定の業と名付く。彼の仏の願に順ずるが故に。」
「ただ一心に南無阿弥陀仏とお唱えして、歩いている時も立ち止まっている時も座っているときも寝転がっている時も、教えに出会った時期が遅かろうが早かろうが、ずっとお念仏を続けていく。
それが極楽へ往生する道であるぞ。
なぜならそれは阿弥陀さまの本願だからである。」
「阿弥陀さまの本願」とは、阿弥陀様ご自身が「わが名を称える者を救うぞ」とお誓い下さいました。
それを本願と申します。
「わが名を称えよ」と言われるから私たちは「南無阿弥陀仏」と阿弥陀さまのお名前を称えるのです。
「これだ、これだ、これなら私は救われる、父も救われる、あった、あった!!!」と涙を流して喜ばれます。
お伝記には「落涙千行なりき」と書かれています。
男泣きに泣かれたのです。
この「一心専念の文」を「浄土宗開宗の文」と申します。
この一文を見つけて法然上人は浄土宗を開かれたのです。
『絵で見る法然上人伝』