2025年6月30日月曜日

7月前半のことば

 7月前半のことば

「煩悩があるままに南無阿弥陀仏」

 

 私たちは皆、怒ったり、欲しがったり、迷ったり、不安になったりしながら生きています。「もっと立派な人間にならなくては」と思っても、心はなかなか言うことを聞いてくれません。欲を捨てようとしても、怒りがこみあげてくる。思い通りにいかない現実に、また心が乱れる。そのたびに、自分のことが嫌になってしまいます。「こんな自分では、仏さまに見放されるのではないか」と、ふと胸がふさがることもあるでしょう。

 けれども、阿弥陀さまは、そんな私たちをこそ救いたいと願われた仏さまです。「煩悩があるからこそ救わねばならない」と、はるかな昔にお誓いくださり、「ただ南無阿弥陀仏と称えよ、必ず救う」と約束してくださいました。

 ですから、「立派になってから」ではなく、「煩悩のままに」南無阿弥陀仏とお称えするのです。清らかな自分を差し出すのではなく、どうしようもないこの身のままで仏さまにすがるのです。

 阿弥陀さまの慈しみは、善い人にも、悪い人にも、すべてに等しく注がれています。この一声一声ごとのお念仏が、そのまま仏さまのお耳に届き、極楽へと導かれるのです。どうぞ安心して、今このままで、「南無阿弥陀仏」と声に出してみてください。阿弥陀さまは、すでにあなたのすぐそばにおられます。

2025年6月14日土曜日

6月後半のことば

 6月後半のことば

「極楽を求める教え 世間では非常識な教え」


 世間の常識というものは、えてして移ろいやすいものです。健康であればよい、若ければなおよい、人間関係が円満ならすべてうまくいく、死んだらおしまい…そうした価値観が、まるで疑いようのない真理のように語られます。しかしながら、それらはどれも手のひらにすくった水のように、気がつけば指の間からこぼれ落ちているのです。「無常」とは、まさにこの現実のことを指すのでしょう。

 八百五十年前、法然上人は「南無阿弥陀仏」と称える念仏の道を説かれました。命尽きた後に阿弥陀仏の極楽浄土に生まれることを願うという、現代の感覚からすれば非現実的とも思える教えです。 しかしこの念仏は、世間のしがらみから逃げるのではなく、そこにとどまりながらもなお、救いを託すという態度に支えられています。

 極楽の存在など信じられない、と笑う人もいるでしょう。けれど、健康も若さも、親しい人も、いつかは去っていくものです。そのとき、何を心の支えにすればよいのでしょうか。私はむしろ、この「非常識」に心を動かされるのです。

 常識という名の風が吹き抜けたあとに、時に、本当に大切なものが残されていることもあるのです。

7月前半のことば

 7月前半のことば 「煩悩があるままに南無阿弥陀仏」    私たちは皆、怒ったり、欲しがったり、迷ったり、不安になったりしながら生きています。「もっと立派な人間にならなくては」と思っても、心はなかなか言うことを聞いてくれません。欲を捨てようとしても、怒りがこみあげてくる。思い通り...