三明房さまが死の淵を彷徨われたお話を思うとき、
私の頭の中を駆け巡る過去の出来事があります。
実は私、京都の仏教大学を卒業してから三年間
一般企業に勤めたことがあります。
その会社に入社したばかりの頃のことでした。
バブル崩壊直後のことで、まだその余韻が残る頃です。
勤めていた会社の専務は大学時代ヨット部で活躍されていたこともあり、
福利厚生の一つとしてヨットを持っていました。
入社して間もなく、新入社員の歓迎会として、
我々もヨットに乗せてもらうことになりました。
大阪の北港のヨットハーバーを出ますと非常に
強い風が吹いていました。
大きめのヨットですが、すごく揺れます。
新入社員4名の他に専務と船舶免許をもっているグループ会社の
先輩が二人乗り、必死にヨットを操って下さいました。
そのお陰で何とか風に乗ることができました。
ようやく落ち着いたとばかりに先輩の一人、
Kさんが「フー」と安堵の溜息をついて、
ヨットの横の部分についているロープに寄りかかりました。
1メートルぐらいの高さのところに横にかけられているロープです。
Kさんが寄りかかったその時に大きな波がきて、
ヨットが大きく揺れました。
その瞬間Kさんは海の中に「ドボーン!」と落ちてしまいました。
私たち新入社員は思わず「アッ!?」と声をあげて驚いたのですが、
専務ともう一人の先輩は
「あーあ、落ちよった」と余裕の表情で言っています。
だから私も
「よくあることなのかも?」と思い落ち着きを取り戻しました。
すぐに残った先輩が手際よく、落ちたKさんに浮き輪を投げました。
でも少しのところで取ることができませんでした。
ヨットは帆に風をあてて進む乗り物ですからすぐに戻ることができません。
先輩と専務が必死にヨットを操作してKさんのところに戻りました。
そして急いで再び浮き輪を投げました。
今度はうまくKさんの届くところに浮き輪を投げ込むことに成功しました。
私たち新入社員は何もできずただ祈るだけです。
「よかった!Kさん!つかまって!」
ところがKさんの顔はこっちを向いているのですが、
浮き輪を目の前にしているのに手が挙がりません。
再度ヨットを操作しようとした時、Kさんは
もう海面に顔をつけて気を失っていました。
慌てて先輩が自分の体にロープを括り付けて飛び込んで助けに向かいます。
先輩がKさんの元まで泳いでゆき、Kさんをしっかと抱き「引張れ!」と叫びます。
私もロープを引っ張り、二人をたぐり寄せます。
しかし引き上げられたKさんはダラーンとして意識をなくしています。
専務と先輩が交代でKさんに心臓マッサージと人工呼吸を繰り返します。
最近救命救急の研修を受けますと人工呼吸はせず、
心臓マッサージを繰り返すように教わりましたが、
30年近く前にはこの二つを繰り返すことが推奨されていたようです。
その時の私は「こうしていれば息を吹き返すよね?!大丈夫なのね?!」
と信じていました。
専務と先輩は何度救命措置を繰り返したでしょうか。
専務がフラフラとへたり込んで「あかん」と力なく言いました。
私は「え?!あかん?どういうこと?!」と焦り、
専務に代わって、やったこともない心臓マッサージと人工呼吸をしました。
しかし全く意識を取り戻してくれません。
泳ぎは達者だそうですが、残念なことにライフジャケットも
着けていませんでしたので、洋服が体にピターンと張り付いて
身動きできなくなってしまったのでしょう。
Kさんは救急車で病院に運ばれましたが、そこから意識を取り戻すことなく、
二日後に亡くなりました。
Kさんはグループ会社の社員ですので、新入社員の私とは初対面でした。
そんな私たちにも気さくに優しい言葉をかけてくださいました。
私たち新入社員ははすぐに家に帰るようにとの指示を受けました。
帰宅すると家人はおらず、一人になりました。
すると涙があふれ出て止まらなくなりました。
怖いのです。
恐ろしいのです。
さっきまで元気でヨットを操作してくれてた人、
笑顔で冗談を言ってた人がほんの少しの時間海に浸かっただけで
息を引き取ってしまう。
もう怖くて怖くて震えながら「ナムアミダブ、ナムアミダブ」
とお念仏を称えている自分がいました。
その時すでに僧侶になるための行も終えてはいました。
企業には就職しましたけれども社会勉強をしていずれおに戻ろうと思ってはいました。
でも、恥ずかしながら本気で阿弥陀さまにおすがりしてお念仏を
お称えしたことがありませんでした。
情けないことでありますけれども、その時が初めてです。
「死」というものを本当に身近に感じました。
自分のこととして感じました。
Kさんが亡くなって悲しいということはもちろんですが、
それ以上に「死」が怖かったのです。
そして「今、このまま死んでしまったら自分に何があるんだろう?
自分は何をやってきてこれから死んだらどうなるんだろう? 」
本当に怖くて怖くて、口に出たのがお念仏でした。
まさに
「阿弥陀さま、お助け下さい。」という思いでした。
振り返りますと人生の転機が幾度かあります。
お念仏のみ教えに入る転機、深まる出来事、何度もありました。
Kさんの死は私にとって大きな転機でありました。
さて、聖光上人のお話に戻ります。
聖光上人は後に法然上人と出会い、お念仏のみ教えと出会われます。
それ以前も常に「死」を意識しつつ生きてこられた聖光上人です。
お念仏と出会ってからも「死」を常に念頭において、
ひたすらお称えになりました。
「出ずる息、入る息を待たず、入る息、出ずる息を待たず、
助け給え阿弥陀ほとけ、南無阿弥陀仏」
といつもおっしゃっていたといいます。
出る息が入る息を待たない、入る息が出る息を待たない、
一息の間に命は尽きるものであるぞ、というのです。
「だから今お念仏なんだ」
「またいずれ称えましょうではだめなんだ」
「今称えねば、もう間に合わないかも知れないんだ!」
「常に死を念ぜよ、そして常に念仏せよ!」
ということです。
「念死念仏」といいます。
この「念死念仏」が聖光上人のみ教えのベースになります。
「死というものは決して他人事ではない。自分のことである」
という強い自覚を持たれたのです。
福岡県久留米市にあります浄土宗の大本山善導寺の境内には
この念死念仏の碑が建っております。
三明房さまの出来事は聖光上人32歳の時のことでありました。
『聖光と良忠』
梶村昇