2020年5月31日日曜日

聖光上人のご生涯⑤(康慶の屋敷にて)

ある時、明星寺五重の塔再建の計画が持ち上がり、

衆徒からその勧進に聖光上人をとの声が挙がりました。

かつて明星寺には五重の塔があったのですが、

その当時はすでに廃絶して基礎の石だけが残っていたのだそうです。

「勧進」というのはいわゆる寄付集めですが、

勧進の役には学徳兼備の優れた方が選ばれます。

人望や信用のない人が集めても集まりませんよね。

その点からも聖光上人は、明星寺を代表する

名僧だったということがわかります。

聖光上人の勧進により、3年で五重塔が復興しました。

五重塔は完成しても肝心の仏さまがおられなくては何にもなりません。

そこで聖光上人は京都に出向いて、有名な仏師である

康慶に仏像の造立を依頼します。

康慶は運慶の父親です。

興福寺に祀られる不空羂索観音像や四天王などは康慶の作です。

聖光上人は仏像が出来るまでの数ヶ月を康慶の屋敷の離れで待ちます。

時代の違いですね。

のんびりしているというよりも、当時九州から京都まで出る

というのは大変さを物語ります。

この康慶の屋敷跡には現在聖光上人ゆかりの寺として、

浄土宗の聖光寺というお寺が建っています。

四条寺町を少し下がったとてもにぎやかな場所です。

康慶の屋敷に居りますと、毎日多くの人々が

東山に向かって歩く姿を多く目にします。

何事かと尋ねてみますと、

「今東山の吉水というところで、法然上人がお念仏の教えを説いておられる、

それを聞きに行く人々の群れですよ。」との応えです。

「あの有名な法然上人が来ておられるのか。

法然上人はとても優秀であったと聞く。

それほど優秀な方なのに比叡山を下りて

念仏一筋の教えを説いているというではないか。

なぜ比叡山を下りたのであろうか。

もしや死の恐怖から逃れる術をご存じかも知れない」

という思いもあったのかもしれません。

そして聖光上人ご自身も優等生ですから

「しかし法然上人といえども知識の上では私の方が上であろう」

といういささか高慢な思いを両面に持ちつつ、

法然上人のおられる吉水の庵、今の知恩院の地を訪ねます。

『聖光上人 その生涯と教え』
藤堂俊章


2020年5月30日土曜日

聖光上人のご生涯⑥(法然上人との出会い)

このお二人の出会いがあったからこそ、

今の浄土宗があります。

時に法然上人御歳65歳聖光上人36歳

法然上人はすでに円熟した年齢、聖光上人は男盛りです。

対面するなり法然上人は聖光上人に尋ねます。

「あなたはどんな修行をしているのですか?」

聖光上人は

「今は勧進をして五重の塔の建立に努めています。

普段は念仏を称えています」

と応えます。

法然上人は

念仏には色んな種類がある。

瞑想して浄土を観ようとする観念の念仏。

難しい修行ができない、レベルの低い人が称えるという念仏。

そして善導大師が勧めた念仏。

あなたはどれを学びに来たのか?!

法然上人が浄土宗を建てられたのでは、

三番目の善導大師が説かれたところの、

阿弥陀仏の本願念仏を拠り所としてのことでした。

博学の聖光上人が答えられないこはないでしょうが、

法然上人のオーラに圧倒されて押し黙ってしまわれました。

聖光上人は頭を下げ、法然上人の人格に深く帰依なさいました。

学徳兼備の聖光上人でありますが、

「自分は仏教の修行を積んではいるが、

死の恐怖から逃れる術すら知らない」

と気づかれました。

一流は一流を見抜く力をお持ちだといいます。

自分が求める先をご存じであろう先達、

法然上人という方と出会ったならば、

即座に頭を下げて教えを請われるのです。

法然上人も目を見ればわかります。

求める者にはとことん教えを伝えよう。

聖光上人に善導大師が説かれる

お念仏のみ教えを順々に説かれます。

最初面会されたのが午後2時頃。

それから夜中の12時まで、

10時間もぶっ通しで説かれたんです。

求める聖光上人と、説く法然上人、

一発で信頼し合ったのでしょう。

「この方からもっともっとみ教えを聞きたい。

法然上人とお会いすることがなかったら、

虚しく一生を過ごしたことだろう」

と聖光上人は法然上人の門弟になります。

それ以来今まで培った学問と修行を捨てて念仏の道へ入られます。

これは大変なことです。

今までの蓄積を一切捨てるということですから。

でも本当に救いを求めるにはこういう決断が必要です。

今までの学問と修行を捨てるということは、

自力を捨てるということです。

聖光上人はお母さまとの死別、

三明房さまの出来事などを経験されています。

「いつ死ぬかも分からない」ということを

人一倍強く思っておられたことでしょう。

そして人一倍修行に明け暮れたことでしょう。

しかし修行をすればするほど、学問を重ねれば重ねるほど

ゴールが遠いことがわかってきます。

そんな時に法然上人と出会われたのです。

法然上人が説かれる念仏の教えは、自分を磨いて力をつけて

覚りを開くという自力の教えではありません。

「私は愚かな凡夫である」と自覚して、

阿弥陀さまに救っていただく他力の教えです。

自分の力では覚りには覚束ないということを、

目をそらさずにしっかりと見つめられたからこそ今までしてきた

修行と学問をあっさりと捨て去ることができたのでしょう。

5月から7月までの3ヶ月間毎日法然上人の元で教えを聞きます。

そんな充実した毎日を送っておられた時、

先に康慶に頼んでいた仏像ができたので、一旦九州の明星寺へ戻ります。

そして五重塔に仏像を安置して落慶法要を行います。

福岡県飯塚市の飯塚観光協会ホームページにこのような記載があります。

  「飯塚」という地名がどうしてついたのか、二つの説があります。
   一つは、神功皇后がこの地方を お通りになったとき、
   従軍兵士の論功行賞をなされ、おのおの郷土に帰されたが
   兵士たちはなお皇后の 徳を慕って飯塚まで従い
  「いつか再び玉顔そ拝し奉らん」と深く歎き慕ったといわれ、
   名づけてイヅカ (飯塚)の里と伝えられたといわれます。

   また、一つには聖光上人が、当市太養院において
   旧鎮西村明星寺虚空蔵の再興と三重の塔建立のため、
   民を集めて良材を運ばせたときに炊いたご飯があまって
   小山をつくり、 それがあたかも塚のようであったので
   「メシノツカ」すなわち飯塚と呼ばれるようになった
   とも伝えられています。
  (飯塚市観光ポータル http://www.kankou-iizuka.jp/history/  )

二つ目の説に聖光上人のお話が出ています。

ここでは三重塔と記されていますが、聖光上人の伝記と符合します。

このように明星寺としては聖光上人は大切な人です。

しかし聖光上人は一刻も早く法然上人の元へ戻りたい。

人生決断の時です。

聖光上人は明星寺にて一応のお役を果たした後、

京都へと向かうことになります。

浄土仏教の思想『弁長 隆寬』
梶村昇・福原隆善


2020年5月29日金曜日

聖光上人のご生涯⑦(法然門下としての日々)

法然上人の元へ戻られた聖光上人、毎日毎日法然上人の元へ通い、

念仏のみ教えを求められました。

聖光上人の熱意に応えて法然上人も毎日

長時間に渡って教えを説かれます。

法然上人の古くからの門弟、真観房感西上人が心配して、

「聖光上人、あなたの熱意は分かるけれども法然上人もご高齢の身。

せめて二日に一度になさいませよ。」

と仰った。

聖光上人も

「そうか、気づかなかった。法然上人もお疲れであろう。

申し訳ないことをした。」

と反省なさり、一日法然上人の元を訪ねるのを控えました。

ところがなんと、法然上人から使いが来て、

「法然上人がお待ちですよ。聖光房は病気か?と

心配なさっていますよ。」とのお言葉です。

こんな嬉しいことがありましょうか。

感激した聖光上人は、以後一層念仏に励みます。

その後法然上人から、

「あなたは教えを伝承するのに相応しい僧侶である。」

と認められ、法然上人のお念仏のみ教えがまとめられた

法然上人の著書、『選択本願念仏集』を書き写すことを許されます。

『選択本願念仏集』は略して『選択集』ともいい、

関白九条兼実公からの請いにより建久九年に撰述されました。

『選択集』は、浄土宗の教えが理路整然と説かれた

法然浄土教の集大成ともいえる書物です。

現在は岩波文庫からも発刊されていますが、

法然上人は一読した後、壁底に埋めよと本書の末尾に記しておられます。

「極楽へ往生するには念仏をおいて他にない」ということが

力強く説かれていますので、仏教全体に理解がない者に見せると

念仏以外の教えを誹謗する可能性があると危惧されたのだと思われます。

ですからしっかりと教えを受け取った弟子にのみ、

その書写を許されたのです。

また聖光上人は、「一枚起請文」も法然上人から授けられています。

いわゆる「一枚起請文」は、法然上人が往生される二日前、

いつも身の回りの世話をする側近の弟子である勢観房源智上人

法然上人に「最後に浄土宗の教えの要を一筆お示し下さい。」

と頼まれ、その願いに応えて書かれたものとして知られています。

しかし、これはご臨終間際に考えて書かれたものではなく、

生前から「この人に」という人が現れたら授けておられたようです。

聖光上人は源智上人と共に、法然上人から

厚い信頼を受けた弟子のお一人なのです。

「二祖鎮西上人讃仰御和讃」
作詞・藤堂俊章
作曲・松濤 基


2020年5月28日木曜日

聖光上人のご生涯⑧(往生院での別時念仏・そしてご往生)

8年に渡って法然上人の元で過ごされた聖光上人は、

43歳にして九州へ帰郷されます。

法然上人から「私が知っていることはすべて伝えた」と認められ、

九州での布教を志されたのです。

九州へ帰られた聖光上人は、いくつものお寺を建て、

念仏の布教に努められます。

その内の一つが久留米の善導寺です。

浄土宗の大本山の一つです。

浄土宗は総本山が知恩院、その下に大本山が全国に七ヵ寺あります。

東から東京芝の増上寺鎌倉光明寺、長野の善光寺大本願

黒谷金戒光明寺百萬遍知恩寺清浄華院、そして久留米の善導寺です。

聖光上人は善導寺の他、吉祥寺、博多善導寺、正定寺、光明寺、

本誓寺、極楽寺、安養寺、天福寺、無量寿院、等多くの寺院を開かれました。

その数は四十八ヵ寺に及ぶといわれています。

安貞2年(1228)聖光上人67歳、法然上人の十七回忌の年のことです。

九州へ帰って今日の都の現状を聞き伝えるによると、

どうも法然上人の教えと違った教えが跋扈しているようだ。

これではダメだと熊本県白川河の畔、往生院にて、

20数名の弟子や信者達と共に48日間の別時念仏を行います。

往生院は熊本地震(2016)で大きな被害があり、

その翌年私は仲間と共に災害見舞いに参りました。

本堂も傷み、境内の墓石の多くが倒壊し、揺れの大きさを物語ります。

往生院は聖光上人の時代は白川河の畔にありましたが、

江戸時代に現在の地へ移転されました。

元の地は「旧往生院」として碑が建てられています。

別時とは普段の念仏と違い、

「時と場所を定めて集中的にお念仏を称える」ことです。

聖光上人は往生院に於いて、48日間毎日、

ずっとお念仏をお称えになりました。

その最後の3日間で法然上人から口伝えにて聞いた教えを弟子達に伝えられます。

そして末代、つまり後々の人々に正しい教えが伝わるように、

末代念仏授手印』を書いて、その最後には

自らの両手の手印を押して証しとされます。

「この書物の内容が嘘偽りであるならば、

私は両手が爛れても構いません!!」

との決意を表明されたのが『末代念仏授手印』です。

「末代念仏授手印」とは

「末代の者を救う念仏の教えを間違いなく伝えるぞ」

という意味です。

昔、師匠から弟子に教えを伝える時に、

師匠の左手と弟子の右手をしっかりと合わせて、

「正しく伝えたぞ」と確認しました。

これを「授手印」と申します。

聖光上人も八女天福寺にて弟子の良忠上人に授手印でもって、

しっかと教えを伝えられました。

そして良忠上人は浄土宗の第三祖となられます。

聖光上人は浄土宗の第二祖として、

念仏のみ教えを広げられた先達です。

法然上人との出会いから一生涯、

欠かさず念仏を称えられた行の人が聖光上人です。

日々六万辺の念仏を行じ、良忠上人という後継者に

しっかりと教えを伝授して安心なさったのでしょう。

良忠上人が故郷へ戻られた翌年、嘉禎四年(1238)閏2月29日

77歳にてご往生なさいました。


『鎮西上人讃仰』
望月信享
椎尾辨匡

参考文献
『聖光上人傳』了慧道光
『浄土仏教の思想 弁長 隆寬』梶村昇・福原隆善
『聖光と良忠』梶村昇
『聖光上人-その生涯と教え-』藤堂俊章

2020年5月27日水曜日

浄土宗 お仏壇の祀り方(三具足・五具足)



三具足(みつぐそく)と五具足(ごぐそく)


下のお仏壇をご覧下さい。
 
香炉が一つ、燭台が一つ、お花が一つです。

この組み合わせを三具足(みつぐそく)といいます。

香炉が一つ、燭台とお花が一対ずつ供える場合はこれを五具足(ごぐそく)といいます。

この下のお仏壇は三具足です。

水色の文字で番号がふってあります。

番号の順に説明しましょう。

                 三具足の仏壇

            

① 阿弥陀さま
  
  浄土宗のご本尊です。
  人々を救うために西方極楽浄土を建ててくださり、
  今現在も極楽浄土で説法してくださっています。
  
  そして「極楽へ来たい者は私の名をよびなさい」と願い導いてくださっています。
  「名を呼べよ」という願いに応えて「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と称える者は
  命終わる時に阿弥陀さまが自ら迎えに来てくださいます(来迎)。
  浄土宗のお仏壇にお祀りする阿弥陀仏像の多くは立像で、来迎のお姿に
  なっています。(もちろん例外あり)
  仏像は「仏ここに在す(まします)」つまり「仏さまがここにいらっしゃるのだ」と
  思ってお祀りします。
  もちろん祖師像やお位牌も同じです。
  
  仏さまを新たに家に迎えたら、僧侶に「開眼(かいげん)」という仏に魂を入れる
  作法を依頼してください。
  引っ越しする時には同じく僧侶に「撥遣(はっけん)」という魂を抜く作法を依頼
  し、引っ越し先でまた「開眼」の作法をしてもらいましょう。
  普通の荷物と同じように扱ったり、ましてやゴミのように捨てることは
  決してなさらないでください。
  

② 善導大師(ぜんどうだいし)
  
  中国は唐の時代に浄土宗の教えを完成された方です。
  
  法然上人は「善導大師は阿弥陀さまの化身である。だから善導大師のお言葉は
  阿弥陀さまの直説である」とまでおっしゃって尊敬されました。
  
  法然上人はいつも「善導大師にお会いしたいものだ」と思っておられました。
  そんなある日、夢中に善導大師が現れ「あなたが念仏の教えを広めることが尊いから
  私はあなたの前に姿を現したのですよ」おっしゃったと伝わります。
  その夢の中のお姿が、上半身は凡夫を表す墨染め、下半身は仏を表す金色の
  「半金色」のお姿でした。
  そこから浄土宗のお仏壇では多く(例外あり)「半金色の善導大師」をお祀りします。

③ 法然上人
  
  承安五年(1175)に法然上人は浄土宗を開かれました。
  阿弥陀さま・お釈迦さま・諸々の諸仏がみなこぞって「阿弥陀仏の本願念仏」を
  お勧めくださいました。
  この仏が選択(せんちゃく)された「選択本願念仏」を開示し、煩悩にまみれた愚かな
  凡夫が救われるために、浄土宗を開いてくださったのです。
  もっと詳しく知りたい方は「法然上人のご生涯」のラベルからお入りください。

 位牌
  
  浄土宗のお仏壇は「西方極楽浄土」そのものをあらわします。
  ですから位牌は「極楽浄土に往生された方」そのものなのです。
  
  臨終の時に阿弥陀さまがたくさんの菩薩を引き連れてお迎えくださいます。
  その先頭で観音菩薩さまが蓮の台をさしだして、その方を蓮台の上に乗せて
  くださいます。
  そしてその花が閉じたら一瞬の間に極楽浄土の蓮池に生まれ、蓮の花が開き、
  先に往生した方と、手に手を取り合って再会を喜ばれます。
  ですから位牌の多くは戒名や法名が彫られた札の下に蓮の花びらがほどこされて
  います。
  
  極楽へ行くと、あらゆる苦しみ、悩み、痛みは取り去られて、諸々の楽だけを
  受けます。
  だから「極楽」というのです。
  
  極楽に往生した方は娑婆に残した人々を見守りお導きくださいます。
  位牌を我々の方に向けてお祀りするのは、極楽からその方が見守ってくださっている
  ことを表します。
  
  どうかそう思っていつも話しかけてください。
  嬉しいことも悲しいことも悔しいことも極楽におられる大切な方に聞いてもらって
  ください。
  そのように「いますが如く」に接してください。
  

 茶湯器(ちゃとうき)・仏飯器(ぶっぱんき)
  
  「仏ここに在す」「いますが如く」と思ってくださいましたら、
  仏さまや極楽に往生された方々に喜んでいただきたい、という
  気持ちが出てきます。
  その気持ちを「お供え」であらわしましょう。
  
  毎朝一番にお水やお茶をお供えしましょう
  
  またご飯を炊いたらまず一番にお仏壇にお供えしましょう
  そして「湯気がたたなくなったら」おさがりをいただきましょう。
  
  写真のお仏壇は「お仏飯」をさげた後の状態ですのであしからず。
  パンを食べる方はパンをお供えくださっても結構です。  

 供物(くもつ)
  
  くだもの、野菜、お菓子などをお供えしましょう。
  
  肉や魚介(もちろんおじゃこや卵、タラコ、動物性の出汁なども)、お酒、
  そしてネギ、ニラ、ニンニク、らっきょ、はじかみ等の匂いのものは避けるのが
  普通です。
  
  ただし、国や地域によっては肉や魚介をお供えするところもありますので、
  それに従えばいいでしょう。
  
  また、たとえば亡くなった方がお肉が大好きだった、お酒が大好きだった、という
  こともあるでしょう。
  「お供えしたい」と思うお気持ちを大切にして、正式ではなくても
  「自分の気持ち」としてお供えすればよいでしょう。  

 香炉
  
  主に線香を立てます。
  あるいは炭を入れて焼香します。
  
  浄土宗では線香を横に寝かさず、立てるのが正式です。

  お香はできるだけ上等のものをお供えしましょう。
  驚くほど高価なものをということではありません。
  しかし「自分には高価なものを、仏さまには安物を」ということではなく、
  「よいものを」をお供えする気持ちが大切です。
  
  線香の本数と意味について知りたい方は「作法」のラベルから入ってください。
  
  香炉はきれいにしておきましょう。
  放っておくと、湿気で灰が固まりゴロゴロとしてきます。
  そうなると線香は立ちにくくなり、燃え残りの線香でますます汚れます。
  
  「我が身きよきこと香炉のごとく」とお唱えするように、
  香炉は「きれいなもの」の象徴です。
  
  できれば粗めのザル状のもので濾してください。
  たまには新聞紙の上で灰を乾燥させてください。 
  
  また、線香は意外に火が長く残ります。
  外からは消えているように見えても、灰の中に火が残ることもしばしばです。
  そこに線香を立てたら、下から燃えて線香が倒れ、火事のもとになります。
  線香を折って使うなど、火の扱いにはくれぐれもご注意ください。

 燭台(しょくだい)
  
  和ろうそく、洋ろうそく、あるいは油に火を灯してそれをお供えすることもあります。
  
  一般には洋ろうそくを使うことが多いことでしょう。
  
  祝儀には朱いろうそくを使います。
  それ以外は白いろうそくを使います。
  
  香炉と同じように、燭台には火を灯しますから、
  その扱いにはじゅうぶんに注意してください。
  お参りした後には必ず火を消しましょう。

 供花(くか)
  
  お花屋さんで売っている仏花でなくてもかまいません。
  色花でももちろん結構です。
  ↑の写真で供えられているピンクのお花は
  昨年往生されたご主人が育ててこられた蘭です。
  
  ただし、毒のある花、トゲのある花、香りの強い花は避けましょう。
  
  お仏壇は極楽を表しますので、お花でお仏壇を飾ります。
  ですから普通我々の方を向けてお供えします。
  しかし「綺麗なお花を仏さまにご覧いただきたい」と思われたら、
  まず仏さまにお花をご覧いただいた後、外へ向けてもいいでしょう。
  
  お花は毎日水を差したり水を入れ替えて大切にしましょう。
  枯れたまま放っておいたり、水が腐ったままにならないようにこまめに手入れ
  しましょう。

※三具足の場合、燭台と供花の配置がわかりにくいので、
 
 「ほとけのさとうけ」と覚えよ!と教えられました。

 「仏から見て」なのか、「私から見て」なのかがわかりにくいので
 

 「ほとけの左(さ)」と「右(う)華(け)」ということです。

  これを覚えればまず間違えません!
                  

                 五具足の仏壇



五具足の仏壇は

① 香炉(一つ)

② 燭台(一対)

③ 供花(一対)

です。

心がけることは三具足のお仏壇と同じです。

仏ここに在す」「いますが如く」という気持ちで毎日拝みましょう。






2020年5月26日火曜日

霊膳の供え方

お寺での様々な行事ではもちろんのこと、ご自宅ではお年忌法要や

お盆の棚経の際に「お霊膳」をお供えしてくださるお家が多くあります。

お家によっては月参りや中陰法要でもお供えくださるところもあります。

一汁三菜の精進料理が基本です。

ニンニク・らっきょう・ネギ・ニラ・はじかみなど

匂いのきついものは避けましょう。

その中身について、具体的に説明してまいります。








①飯椀(めしわん)…ご飯


ご飯を入れる飯椀は一番大きなお椀です。

山盛りに形よく盛りましょう。

一番小さいフタが飯椀用ですのでご注意。




②汁椀(しるわん)…味噌汁・おすまし

飯椀と同じような形をしていますが、一回り小さいお椀です。

フタは飯椀より大きいですが、落とし蓋です。

汁物の出汁は昆布などの植物性のものを使いましょう。




③平(ひら)…煮物

平の器には真ん中に横線が入ったものが多いです。

フタはかぶせ蓋です。

汁物と同じく出汁は鰹やいりこではなく、

植物性のものからだしましょう。

もちろん肉・魚や卵、じゃこなどは避けましょう。




④壺(つぼ)…なます・和え物

壺の器にも真ん中に横線が入ったものが多いです。

こちらもフタはかぶせ蓋です。




⑤高坏(たかつき)…香の物(漬物等)

高坏にはフタはありません。

お膳の真ん中に配置します。





⑥箸(はし)

塗りのお箸か柳箸を使います。

↓の写真のように、仏さま側にお箸がくるようにお供えします。

正式には箸袋に入れておきます。

僧侶は箸袋から箸を出してお箸を清める作法をします。





※浄土宗では飯椀の前に壺、汁椀の前に平を配置します。

 壺と平の位置がややこしいので、「飯壺、汁平」(めしつぼ、しるひら)

 覚えよ、と教えられます。

 ご参考まで!










2020年5月25日月曜日

法然上人のご生涯①(時代の背景)

浄土宗の開祖、法然上人がお生まれになった場所「誕生寺」は、岡山の北部、美作というところにあります。

もちろん元々お寺があったのではなく、法然上人の「誕生の地」だということで、お弟子の熊谷次郎直実という方が建てたお寺です。

法然上人は武士の子です。
お父さまは押領使(おうりょうし)というお役人です。

まずここで中世の政治システムについて、その一端を申し上げます。

有名な大化の改新の後、すべての土地と人民を国家のものとする「公地公民制」、や戸籍を作って民衆に土地を割り当てて耕させ、死後その土地を返させるという「班田収授法」が打ち出されました。

そして律令と呼ばれる法律が制定され、6歳以上の男女とも土地が与えられて、その収穫の一部を税として地方の役所に納めること、それ以外にも成人男性には重い税や労役・兵役が課せられました。

しかしパソコンもない時代に全国的な戸籍を作って土地の税を管理する、などということには無理があります。

人々は重い負担に耐えきれずに戸籍を偽って男性が女性であると届けたり、逃げ出すなど税逃れをします。

そこで政府は田んぼを開墾した者は三代にわたってその土地の私有を認める、という画期的な法律(三世一身の法)を制定しました。

人々は最初、先を争って開拓しましたが、当然三代目に期限が迫ると土地の耕作を放棄してしまいます。

財政難に陥った政府は、有力農民を指定して土地を耕させて、そこから税をとる、という方法に変えてきました。

そうなると、政府の様々な役所、皇族、貴族がそれぞれ有力農民を指定して田んぼを経営するようになり、班田収授法というものが有名無実化していきます。

そこでいよいよ政府は土地の私有を公認します(墾田永年私財法)。

しかし実際には民衆が土地を所有することは少なく、貴族や有力な寺社が中心となって私有地を増やしていきます。

これが荘園の始まりです。

当初は荘園からの税収が多く入りました。

でもそのうち色々な理由をつけて免税の権利を得る者が増えました。

結果、朝廷の税収が減少するだけでなく、農民が耕すための口分田の土地も減っていきました。

そして土地制度は崩壊していきます。

危機感をもった朝廷は、田地の管理を有力農民に請け負わせて、地方役員の国司が徴税できるようにシステムを変えました。

任国に赴任する国司のトップを、受領といいます。

朝廷から国の支配を丸投げされた受領は利権争いに走ります。

その徴税は相当に厳しく、土地の持ち主は管理権を所持したまま、土地の名義を有力貴族や寺社に寄進することで税金逃れをしました。

有力貴族から保護を受けた農民の力も強まってきて、国司から荘園を守るために武装を始めました。

これが後に武士団となっていきます。

一方、皇族は皇位継承権を失った皇子たちに氏(うじ)を与えて臣下にします。

桓武天皇が皇子たちに「平」の氏を与えたのが「桓武平氏」、清和天皇が皇子たちに「源」の氏を与えたのが「清和源氏」です。

藤原氏などの貴族も同様に分家していき、名前は藤原氏でも高いくらいに就けない者が増えていきます。

そのような没落した貴族が生計を立てるには地方へ下るしかありません。

そうやって地方へ下る時に天皇から「国司」の肩書きをもらうのです。

法然上人のお父さま、漆間時国(うるまのときくに)公の役職「押領使」は盗賊などを鎮圧するお役です。

国司が兼任することもありますが、更に下っ端の貴族が国司に任命されて就いたり、在地勢力が就くこともありました。

時国公は美作国久米南条稲岡荘(みまさかのくに、くめ、なんじょう、いなおかのしょう)というところの押領使でした。
法然上人の伝記には時国公の先祖も皇族の傍系と記されているものもあります。

そのように朝廷の支配が及ばない荘園と、国司の私物と化した公領が両立する土地体系ができあがっていくのです。



まんが『法然さま』
高橋良和・文
小西恒光・画



9月後半のことば

 9月後半のことば 「多様性 仏の目には 皆凡夫」   近ごろ「多様性」という言葉を耳にしない日はありません。会議でも学校でも、街頭のポスターにすら踊っています。確かに、人は千人いれば千人、百人いれば百人、異なる価値観や性格を持っている。それは事実です。しかし、だからといってその...