まず冒頭に
「末代の衆生を往生極楽の機にあてて見るに」
とあります。
お釈迦様の時代から2500年もの年月が経っていますが、
長い年月を経て、科学は発達しましたが、
人々の宗教的な能力は格段に落ちてしまったと言えます。
法然上人の時代はすでに「末法(まっぽう)」と言われ、
お釈迦様の救いの効力も落ちて、
救いから見放されたと人々は嘆きました。
「そんな末代の人々に、
果たして極楽浄土へ往生する能力があるのか?」
というのがこの冒頭の一文です。
「往生極楽の機」と言いますのは、
「阿弥陀さまが最も救いたいと願う対象」のことです。
「末代の人々、即ち我々が、
阿弥陀さまの救いの対象に入っているのかどうか?」
という問いかけです。
この問いかけに続いて、
四つの「こんな私が往生できるの?できないでしょ?」
という疑いに、
「大丈夫!それもこれも阿弥陀さまの
救いの対象に入っていますよ!」
と答えてくださっている文が続きます。
一つ目の問いは「行少なし」です。
「ちょっとしか念仏を称えずに
今まで過ごしてきたけど大丈夫?
こんな私は往生できないでしょ?」という疑問です。
今まで好き勝手に生きてきて、
仏教との縁もお念仏との縁もなかった人が、
いよいよ臨終を迎えるときになって、
ようやく縁があって念仏を勧める人と出会うのです。
「今まで好き勝手に生きてきました。
そんな私が今更この期に及んで、
その有り難い念仏とやらを称えても遅いでしょ?!」
という人に対して、
「大丈夫!お念仏との出会いが遅くてもいい。
今から称えなさいな!」との勧めを受けて
お念仏を称え出します。
しかし十遍称えた時に息が絶えてしまう。
そんな人でも往生するのだとお経にも説かれています。
それがたとえ一遍でも救われていくのです。
もちろん私たちは幸いに早い時期に
お念仏と出会う縁を頂きましたので、
これから一生涯称えていくのですが、
その機会が遅くて称える数が少ない者も
決して見捨てることなく救って下さることを
示してくださったのが、
この「一念十念に足りぬべし」という言葉です。