(本文)
舎利弗(しゃりほつ)、まさに知るべし。
我(われ)五濁悪世(ごじょくあくせ)において、
この難事(なんじ)を行じて、
阿耨多羅(あのくたら)
三藐三菩提(さんみゃくさんぼだい)を得て、
一切世間の為に、この難信(なんしん)の法を説く。
これを甚難(じんなん)とす。
(現代語訳)
〈釈尊から舎利弗(しゃりほつ)に向けてのお言葉のつづき〉
「舎利弗(しゃりほつ)よ、よく知りなさい。
私は濁りきった悪い世において、
この非常に難しいことを成し遂げ、
この上なく正しい覚りを得て、
世界中の人々のために、
この信じがたい教えを説くのだ。
これは非常に困難なことである」
〈釈尊から舎利弗に向けてのお言葉はここまで〉
(解説)
『阿弥陀経』には自らの教えを「難信の法」と
説かれています。
先に「極楽浄土の存在のへの疑い」と
「凡夫(ぼんぶ)が往生できることへの疑い」の
二つがあると申しました。
また疑う人に「無智の者」と「有智の者」があると
申し上げました。
私の恩師はこの「難信の法」は
「信じがたいほど有り難い法だと受け止めよ」と
おっしゃっていました。
「そんな素晴らしい極楽浄土なんてあるはずがない」
というのは裏を返せば、「そんな素晴らしい世界が
あるならば行きたい」ということでしょう。
「凡夫が往生できるはずがない」というのは、
逆に言えば「凡夫が極楽へ行けるなんて、
そんな有り難いことはない」ということでしょう。
世間の常識では計り知れないのが仏の慈悲です。
弥陀・釈迦・諸仏が口を揃えてお勧めくださる、
「信じがたいほど有り難い法」を
素直に信じて受け入れたいものです。