良忠上人は仏教の勉強に没頭し、16歳で正式に出家されました。
18歳になった良忠上人は、中国の法照禅師という方の
『大聖竹林寺記』という書物を読まれました。
そこには
「末法の時代の凡夫は、お釈迦様がこの世を去られてから
長い時間が経って、人々の知識は劣り、罪は深い。
そのような時代には念仏が最も適している」
と書かれていました。
良忠上人はそれ以来、念仏一万遍称えるようになったといいます。
「何か劇的なことがあって念仏信仰に入られた」ことを
つい求めてしまいますが、経典や先達の解釈やその文言を
素直に受け取っていかれたことが尚ありがたく感じます。
後の偉業へと続く、その土台が18歳の時にできていたのです。
そこから良忠上人は非常にアクティブに移動を重ねられます。
山陰、山陽、京都、奈良と旅から旅へ教えを求めて移動を繰り返されるのです。
天台密教、真言密教、唯識、三論、華厳、禅の
み教えまでもを学んでいかれます。
法然上人も若き日に自分が本当に救われる教えを
探し求めて奈良を遍歴されました。
当時はもちろん徒歩です。
歩いては教えを聞いて学び、実践し、
歩いては歩いてはの繰り返しです。
良忠上人もまた教えを貪るように学び実践するけれども、
自分が救われるみ教えに中々出会うことができませんでした。
『看病用心鈔』
良忠上人