私も家族も永遠ではない。
「無常」です。
無常ゆえにすべての変化を受け入れる。
私自身も常に変化するから「変わらない我」はない。
「無我」です。
無常であり無我であるから、
すべてのものは思い通りになりません。
「苦」です。
このような「真理」を頭ではなんとか理解しても、
本当に理解することがなかなかできないのが私たちです。
「煩悩」が邪魔をするのです。
その煩悩を持ち合わせた私たちのことを
「凡夫(ぼんぶ)」と申します。
仏教には色んな教えがあります。
インドから始まる仏教の多くの教えでは、
煩悩を断ちきって、苦しみから出ようと説きます。
それができる人はその道を行けばよいでしょう。
しかし「誰でも必ず死ぬ」という
そんな単純なことさえも分からない、
煩悩から逃れられない私です。
無常とか、無我という真理は頭の中では理解できます。
「すべてのものは移り変わる」
そんなことは当たり前です。
すべてのものは移り変わるから、
私も私の妻も、私の子供も友人も
知り合いもみんな常に変化している。
だからみんな健康であり続けることは不可能である。
みんなが生き続けることも不可能である。
急に誰かが死ぬかも知れない。
それが自分かも知れないし、最愛の人かも知れない。
そういう可能性は常にある。
そんなことは頭では誰でもがわかりきっていることです。
けれども、「自分が突然死ぬのを認められるか?」
と問われると、どうでしょうか。
いつか死ぬのはわかっていても
今死ぬとは思っていません。
ましてや、自分の息子が今日死ぬなんて、
絶対に認めたくありません。
そんなことを考えたくもありません。
『悪人正機説』
梶村昇