今まで向かう方向さえも分からなかった私が、
念仏の教えと出会い、ようやく方向が定まりました。
しかし念仏を称えていこうと思って生きていても、
やはり欲はあり、腹も立ちます。
信仰の浅い人はそれだけで念仏を失ってしまいます。
「ありがたいな」と思って念仏をし始めても、
日常生活に戻るとそのありがたさも失せて、
すっかり元に戻ってしまうのです。
欲や怒りに振り回されるだけの
毎日に戻ってしまって、念仏の信を
失うことがありうるのです。
こういう状態をあらわすのが「二河白道の譬喩」
における火と水の河です。
また、念仏を称えていると他の信仰や見解の人の
言葉が入りやすくなります。
「念仏みたいな年寄り臭いものはやめて、
楽しく過ごそうよ」という誘惑もあるでしょう。
それがもしかすると、我が子や孫の誘惑かもしれません。
また「念仏なんて称えても救われないよ、
こっちの方が正しいよ」と
言ってくる人がいるかも知れません。
「科学的にみたら極楽なんてないよ」という
もっともらしいことを言う人もいるでしょう。
そういう声が聞こえてきているのが
真ん中の白い道を歩いている旅人であり、
今の私たちなのです。