2021年2月4日木曜日

二河白道(にがびゃくどう) ⑭ まとめ その一

今まで向かう方向さえも分からなかった私が、


念仏の教えと出会い、ようやく方向が定まりました。


しかし念仏を称えていこうと思って生きていても、


やはり欲はあり、腹も立ちます。


信仰の浅い人はそれだけで念仏を失ってしまいます。


「ありがたいな」と思って念仏をし始めても、


日常生活に戻るとそのありがたさも失せて、


すっかり元に戻ってしまうのです。


欲や怒りに振り回されるだけの


毎日に戻ってしまって、念仏の信を


失うことがありうるのです。


こういう状態をあらわすのが「二河白道の譬喩」


における火と水の河です。


また、念仏を称えていると他の信仰や見解の人の


言葉が入りやすくなります。


「念仏みたいな年寄り臭いものはやめて、


楽しく過ごそうよ」という誘惑もあるでしょう。


それがもしかすると、我が子や孫の誘惑かもしれません。


また「念仏なんて称えても救われないよ、


こっちの方が正しいよ」と


言ってくる人がいるかも知れません。


「科学的にみたら極楽なんてないよ」という


もっともらしいことを言う人もいるでしょう。


そういう声が聞こえてきているのが


真ん中の白い道を歩いている旅人であり、


今の私たちなのです。


7月前半のことば

 7月前半のことば 「煩悩があるままに南無阿弥陀仏」    私たちは皆、怒ったり、欲しがったり、迷ったり、不安になったりしながら生きています。「もっと立派な人間にならなくては」と思っても、心はなかなか言うことを聞いてくれません。欲を捨てようとしても、怒りがこみあげてくる。思い通り...