2020年10月25日日曜日

四障四機(ししょうしき)⑨(愚鈍念仏〈ぐどんねんぶつ〉)

「疑心(ぎしん)」・「懈怠(けだい)」・

 

自力・高慢の「四障(ししょう)」と

 

「信心」・「精進」・「他力」・「卑下(謙虚)」の

 

「四機(しき)」について、お伝えしました。

 

「極楽浄土へ往生できるのはこういう人か?」

 

「愚鈍(ぐどん)に念仏する人」です。

 

愚鈍(ぐどん)とは、「愚かな人」という意味です。

 

しかし江戸時代の法州(ほうじゅう)上人という方は

 

このように解説してくださっています。

 

「愚鈍(ぐどん)とは、


心浅く迷い深かれというにはあらず。


智慧をも用いず、才覚をも物立てず、


ただ我が身をば阿弥陀仏の願力に打ち負かす。


これを愚鈍とはいうなり」

 

念仏の教えを知る人から伝え聞いて、

 

阿弥陀さまの本願他力(ほんがんたりき)の

 

み教えをただ素直に信じ、念仏を行じていくのです。

 

この姿こそ、阿弥陀仏の御心に叶う姿です。

 

この「愚鈍(ぐどん)に念仏を称える人」こそ、

 

念仏者の理想と説かれるのです。

2020年10月24日土曜日

四誓偈(しせいげ)①

「浄土宗のおつとめ」について、ご紹介いたしました。

そこで、「誦経(じゅきょう)」という項目があり、


『浄土三部経(じょうどさんぶきょう)』を読むこと、


と申し上げました。


https://hourinji.blogspot.com/2020/09/blog-post_23.html


ここでは『浄土三部経(じょうどさんぶきょう)』の中で

 

最もよく読まれる「四誓偈(しせいげ)」について

 

お伝えします。

 

先に「写経のススメ②」として

 

この「四誓偈(しせいげ)」を上げました。

 

https://hourinji.blogspot.com/2020/07/blog-post_26.html

 


『浄土三部経』は具体的には

 

『無量寿経(むりょうじゅきょう)』

 

『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』

 

『阿弥陀経(あみだきょう)』の三つを指します。

 

この三つを『浄土三部経』と名付けたのは、

 

他ならぬ法然上人です。

 

その内、『無量寿経(むりょうじゅきょう)』の前半には

 

「阿弥陀仏の本願」について説かれています。

 

阿弥陀仏がまだ仏になられる前、

 

「法蔵菩薩(ぼうぞうぼさつ)」と言われてた時に、

 

「世自在王仏(せじざいおうぶつ)」という

 

仏さまの前で

 

「もし私が仏になったならば、このようにしたい。

 

もしそれが叶わなかったら、私は仏にならない!」

 

と四十八項目にわたる誓いを建てられました。

 

その中身は

 

①どんな仏になるのか

 

②どんな浄土をつくるのか

 

③人々をどのように導くのか

 

という三項目に集約されます。

 

その③「人々をどのように導くのか」というテーマで

 

最も大切なのは

 

「煩悩に苛まれた人々をどうやって救うか」

 

という大問題です。

 

法蔵菩薩は

 

「すべての人々を救うためには、

 

どんな者でもできることを条件にしなくてはいけない」

 

というお慈悲の御心で

 

「私の名前を呼ぶだけなら、どんな者でもできるであろう」

 

と思い至りました。

 

その上で「もし私が仏になったならば、

 

我が名を呼ぶ者をすべて、これから作る私の浄土に

 

迎え取ろう。

 

それができないならば、決して仏にはなるまい!」

 

と誓われたのです。

 

これは四十八の願の内の、第十八願。

 

「念仏往生の願」と呼ばれるものです。

 

この願にしたがって、私たちが阿弥陀仏の名を呼ぶことに

 

よって「極楽浄土へ往く」ための道筋が整ったのです。

 

「なむあみだぶつ」の「お念仏」です。

2020年10月23日金曜日

四誓偈(しせいげ)②

四十八願(しじゅうはちがん)の直後に


この「四誓偈(しせいげ)」は登場します。

 

(本文)

 

我建超世願(がごんちょうせがん)

 

必至無上道(ひっしむじょうどう)

 

斯願不満足(しがんふまんぞく)

 

誓不成正覚(せいふじょうしょうがく)

 

 

 

 

 

(書き下し)

 

我れ超世の願を建つ 必ず無上道に至らん 

 

この願満足せずんば 誓って正覚を成ぜじ

 

 

 

 

 

(現代語訳)

 

私はこの世の常識を超えた願(四十八願)を建てました。

 

必ず覚って仏になります!

 

ただしこの四十八願のどれか一つでも

 

成就できなければ、決して仏にはなりません。

 

 

 

このように「四十八願の総まとめ」として、

 

改めて「世自在王仏(せじざいおうぶつ)」の

 

御前で「決意を表明」されるのです。

 

 

2020年10月22日木曜日

四誓偈(しせいげ)③

(本文)

 

我於無量劫(がおむりょうこう)

 

不為大施主(ふいだいせしゅ)

 

普済諸貧苦(ふさいしょびんぐ)

 

誓不成正覚(せいふじょうしょうがく)

 

 

 

 

 

(書き下し)

 

我れ無量劫において 大施主となりて 

 

あまねく諸々の貧苦を救わずんば 

 

誓って正覚を成ぜじ

 

 

 

 

(現代語訳)

 

私は無量劫(とてつもなく長い時間)の間、

 

人々のための大施主となって、

 

あらゆる所にいる、物心共に貧しい人々を

 

一人残らず、その苦しみから救おう。

 

それができなければ、決して仏にはなるまい。

 

 

 

 

 

施主というのは「施し主」です。

 

施しには「物質的な施し」である「財施(ざいせ)」と

 

「精神的な施し」である「法施(ほうせ)」の

 

二つがあります。

 

人々の中には物質的には恵まれていても、

 

精神的に辛く厳しい環境にある人もいます。

 

逆に精神的には満たされていても

 

物質的には貧しい人もいます。

 

私たちのいる娑婆世界(しゃばせかい)は

 

満たされない世界です。

 

法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)は

 

この娑婆世界(しゃばせかい)から人々を救い出して

 

「そのような苦しみから解き放ってやろう!」

 

と誓われたのです。

2020年10月21日水曜日

四誓偈(しせいげ)④

(本文)

 

我至成仏道(がしじょうぶつどう)

 

名声超十方(みょうしょうちょうじっぽう)

 

究竟靡不聞(くきょうみしょうもん)

 

誓不成正覚(せいふじょうしょうがく)

 

 

 

 

 

(書き下し)

 

我れ仏道を成ずるに至らば 名声十方に超えん

 

究竟して聞ゆる所なくんば 誓って正覚を成ぜじ

 

 

 

 

 

(現代語訳)

 

私が仏道を完遂して仏になったならば、

 

私の名声があらゆる世界に聞こえて、

 

それが隅々まで行き渡りますように。

 

もしそれができなければ、誓って仏にはなりません。

 

 

 

「名声が世界中に行き渡りますように!」と言うと、

 

「名誉欲があるの?!」と思われるかもしれません。

 

でもそんなはずはないですよね。

 

せっかく「仏になってすべての人々を救いたい」と

 

思っても、誰もその仏の存在を知らなければ、

 

救われようがありません。

 

「名声が世界中に行き渡る」ということは

 

「救いが行き渡る」ことと同義です。

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