2020年9月24日木曜日

浄土宗のおつとめ⑳(聞名得益偈〈もんみょうとくやくげ〉その一)

(本文)

 

其仏本願力ごぶつほんがんりき)

 

聞名欲往生(もんみょうよくおうじょう)

 

皆悉到彼国(かいしっとうひこく)

 

自致不退転(じちふたいてん)

 

(書き下し)

 

其の仏の本願の力、

 

名を聞きて往生せんと欲すれば、

 

皆ことごとくかの国に到って

 

自ずから不退転に致らん。

 

(現代語訳)

 

その仏の本願の力により、

 

名号を聞いて往生したいと願えば

 

皆すべての者が極楽浄土に往生して、

 

自ずから二度と退転しないようになります。

2020年9月23日水曜日

浄土宗のおつとめ㉑(聞名得益偈〈もんみょうとくやくげ〉その二)

極楽へ往生するためには、

 

(1)極楽への往生を願う

 

(2)南無阿弥陀仏と称える

 

この二つが具わらなくてはなりません。

 

ただ、それだけではなく「阿弥陀仏の名前を聞く」

 

という「聞名(もんみょう)」にも大いなる功徳が

 

あるというのです。

 

今称えられる人はしっかりと称えましょう。

 

でもすでにこの世を離れた方は

 

自分自身で称えることはできません。

 

ですから、あなたがお念仏を称え、

 

それを聞かせて差し上げることが大切です。

 

「どうか阿弥陀さま、〇〇さんを頼みますね!」

 

と〇〇さんを阿弥陀さまにお任せしましょう。

 

あなたご自身がもし、

 

「南無阿弥陀仏なんて称えても意味ないよ」

 

とか「阿弥陀さまや極楽なんてないよ」と

 

思っていて良いはずはないでしょう。

 

自らが「念仏を称えれば必ず極楽浄土往けるのだ」

 

と信じてこそ、亡き人のためにもなるのです。

2020年9月22日火曜日

浄土宗のおつとめ㉒(摂益文〈しょうやくもん〉その一)

(本文)

光明徧照(こうみょうへんじょう)

 

十方世界(じっぽうせかい)

 

念仏衆生(ねんぶっしゅじょう)

 

摂取不捨(せっしゅふしゃ)

 

※三行目の「念仏衆生」は「ねんぶっしゅじょう」

 と詰まって読む習わしになっています。

 

 

(書き下し)

如来(にょらい)の光明は徧(あまね)く

 

十方(じっぽう)世界を照らして

 

念仏の衆生(しゅじょう)を

 

摂取(せっしゅ)して捨てたまわず

 

 

 

(現代語訳)

阿弥陀仏の放つ慈悲の光は、

 

あらゆる世界に輝き渡り、

 

念仏を称える人々を必ず救い取ってくださり、

 

決してお見捨てになることはありません。

 

 

 

『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)の中、

 

「真身観文(しんじんがんもん)」と呼ばれるところに、

 

「阿弥陀仏のお身体の特徴」が記されています。

 

そのうち、「阿弥陀仏が放つお慈悲の光」について

 

説かれるところが「摂益文(しょうやくもん)」です。

2020年9月21日月曜日

浄土宗のおつとめ㉓(摂益文〈しょうやくもん〉その二)

阿弥陀さまは「すべての者を救い取ろう」と

 

「本願(ほんがん)」を建ててくださいました。

 

「本願(ほんがん)」は四十八項目あります。

 

それらを「どんな仏になるのか」

 

「どんな浄土をつくるのか」

 

「どうやって人々を救うのか」

 

という三つに分類することができます。

 

実はその三つ目、

 

「どうやって人々を救うのか」を

 

はっきりと示されている点が

 

とても有り難いことなのです。

 

浄土は無数にありますが、そこに行く方法が

 

明確に示されているのは「極楽浄土」だけです。

 

四十八の本願の中、第十八願には「阿弥陀仏」が

 

「我が名を呼ぶ者を救う」と表明なさっています。

 

「阿弥陀仏の名を呼ぶ」つまり「南無阿弥陀仏」と

 

称える者が極楽浄土へ行けるのです。

 

「名を呼ぶ」という「誰もができること」を

 

救いの条件にしてくださったのは、

 

阿弥陀仏が「すべての者を救いたい」からです。

 

その阿弥陀仏の「救いたい!」が「光明」です。

 

光明は十方世界を照らしてくださいます。

 

「救われたい者はいないか?!」と

 

見回してくださっているのです。

 

その「救われたい者」が誰でもできるのが

 

「南無阿弥陀仏」の「お念仏」です。

2020年9月20日日曜日

浄土宗のおつとめ㉔(摂益文〈しょうやくもん〉その三)

摂益文(しょうやくもん)は

 

1,「阿弥陀仏はすべての者を救う」と

 

 お慈悲の光を放ってくださっている。

 

2,そして、「念仏を称える者」を救い取ってくださる。

 

という構成になっています。

 

ここで「阿弥陀さまは、みんなを救いたいなら

みんな救ってくださってもいいじゃない?!

何で念仏称える人だけなの?

他の修行者もダメなの???」

という疑問をお持ちになるかもしれません。

 

このことに対して、法然上人は

 

大きく二つの理由を挙げておられます。

 

一つ目の理由は

「阿弥陀さまと、念仏を称える者とは強い縁がある」

ということです。

 

念仏者が念仏を称えるとき、

 

阿弥陀さまはちゃんとその声を

 

聞いてくださっています。

 

礼拝(らいはい)するときには、

 

決して知らんぷりすることなく、

 

ご覧くださっています。

 

こちらが阿弥陀さまのことを思うとき、

 

阿弥陀さまもこちらのことを

 

思ってくださっています。

 

そのような呼応関係が生じ、

 

親しい縁で結ばれているのです。

 

また、こちらがお念仏を称えるならば、

 

阿弥陀さまが目の前に来てくださいます。

 

残念ながら、こちらにはそのお姿を観る力が

 

なくても、ちゃんと来てくださいます。

 

阿弥陀さまは念仏者にとって、

 

それほど身近な存在なのです。

 

そして阿弥陀さまは、念仏称える者が重ねてきた罪を、

 

取り除いてくださいます。

 

いよいよ臨終を迎える時には、

 

直々に阿弥陀さま直々にお迎えくださいます。

 

これを「来迎(らいこう)」といいます。

 

詳しくは「所求・所帰・去行(しょぐ・しょき・こぎょう)」の

 

項でお伝えしました。

 

阿弥陀さまと念仏者は、

 

臨終のその瞬間まで密接不離の関係にあるのです。

 



来迎

 https://hourinji.blogspot.com/2020/08/blog-post_27.html

 



二つ目の理由は、やはり「本願だから」です。

 

阿弥陀さまは「すべての者を救う」ため

 

「すべての者ができる行」として

 

「念仏」を選んでくださいました。

 

「老いても、病でも、体力がなくても、

 

学問がなくても、味方がいなくても、

 

孤独でも、貧しくても、

 

私の名前を呼ぶことならできるだろう」

 

だから「阿弥陀仏の名を呼ぶ」、すなわち

 

「南無阿弥陀仏」と念仏を称える者を

 

救ってくださるのです。

 

「すべての者を救う」ことと

 

「念仏を称える者を救う」ことは同じことなのです。

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