2021年3月27日土曜日

三義校量(さんぎきょうりょう) ① 『往生論註(おうじょうろんちゅう)』

法然上人のお師匠さまは


善導大師(ぜんどうだいし)です。


善導大師(ぜんどうだいし)のお師匠さまは


道綽禅師(どうしゃくぜんじ)です。


道綽禅師(どうしゃくぜんじ)の


お師匠さまは曇鸞大師(どんらんだいし)です。


その曇鸞大師(どんらんだいし)の著書に


『往生論註(おうじょうろんちゅう)』という


書物があります。


『往生論註(おうじょうろんちゅう)』は


上下二巻あり、その上巻の最後に


「三義校量(さんぎきょうりょう)」と


呼ばれる箇所があります。


「悪人が救われるなんておかしいんじゃないの?!」


という疑問に対して、三つの理屈で応えるのが


「三義校量(さんぎきょうりょう)」です。


次からは内容に入っていきます。


2021年3月26日金曜日

三義校量(さんぎきょうりょう) ② 業道経(ごうどうきょう)

(本文)


問いて曰く、業道経(ごうどうきょう)に


言(のたま)わく、業道(ごうどう)は


称(はかり)のごとし。


重き者先ず牽くと。




(現代語訳)


お尋ねします。


業道経(ごうどうきょう)にこのようにあります。


「業の報いは秤のようなものなので、


重い方に傾くものである」






「業道経(ごうどうきょう)」というお経が


どのお経なのか、実は本当のところはわかりません。


『無量寿経(むりょうじゅきょう)』に「五悪段」と


呼ばれるところがあり、それを「業道経」と


言っているのだ、という説がありますが、


完全に文章が一致しているわけではないので、


確定はできません。


『往生論註(おうじょうろんちゅう)』には


その「業道経」に


「業(ごう)の報いは秤のようなものなので、


重い方に傾くものである」と記されているといいます。


「業(ごう)」というのは「行い」という意味で、


仏教では善業の結果は「楽(らく)」であり、


悪業の結果は「苦」であると説かれます。


善業をなすごとに、どのタイミングになるかはわかりませんが、


必ず「楽果(らっか)」がもたらされます。


悪業をなせば、未来に必ず「苦果(くか)」が訪れます。


自分の業を秤にかけた時、善業が多ければ楽果に傾き、


悪業が多ければ苦果に傾くはずだ、というのです。


2021年3月25日木曜日

三義校量(さんぎきょうりょう) ③ 下品下生(げほんげしょう)

(本文)


観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)に


言(のたま)うがごとし。


「人有りて五逆(ごぎゃく)・十悪(じゅうあく)を


造り諸(もろもろ)の不善を具せらん。


悪道に堕して多劫(たこう)を


経歴(きょうりゃく)して無量の苦を受くべし。


命終(みょうじゅう)の時に臨みて、


善知識の教えに遇いて、


南無無量寿仏と称(しょう)せん。


是(か)くのごとく心(しん)を至して


声をして絶えざらしめて、


十念を具足して便(すなわ)ち安楽浄土に


往生することを得(う)。


即ち大乗正定(しょうじょう)の


聚(じゅ)に入(い)りて、


畢竟(ひっきょう)じて退(たい)せず。


三塗(さんず)の諸(もろもろ)の


苦と永く隔(へだ)つ」と。




(現代語訳)


『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』には


「人が五逆(ごぎゃく)・十悪(じゅうあく)を行い、


さまざまの不善を身に具えれば、


その報いとして悪道に堕ちて長い間


とてつもない苦しみを受けねばならない。


ところがその人の臨終の時に、


善知識の教えに遇い、


「南無阿弥陀仏と称えよ、と教わって、


心を極楽に向けて声を絶やさず十念を称えれば、


極楽浄土へ往生することができ、


菩薩の仲間に入ってそこから落ちることがない。


そしてその人は永久に悪道の苦しみから


離れるのである」と記されています。






『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』の


「下品下生(げほんげしょう)」の項に出てくる


大悪人について説かれています。


「下品下生(げほんげしょう)」について、


詳しくは別に項を設けて記事を上げていますので、


そちらをご覧ください。



下品下生(げほんげしょう)

https://hourinji.blogspot.com/search/label/%E4%B8%8B%E5%93%81%E4%B8%8B%E7%94%9F%EF%BC%88%E3%81%92%E3%81%BB%E3%82%93%E3%81%92%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%86%EF%BC%89




あらましはこういう話です。


「下品下生(げほんげしょう)」に登場する大悪人は、


人を殺し盗みをし、親まで殺してしまうような人です。


その大悪人は今まで仏教のみ教えと


出会う縁がありませんでした。


もしかしたら誰かが教えてくれたことも


あったのかは分かりませんが、


それに耳を貸そうともしなかったのです。


その大悪人がいよいよ最後臨終を迎えます。

                                      

大悪人の臨終の枕辺に、


念仏のみ教えを信じている人がやってきます。


古くからの知り合いだったのに、


その人の言葉に耳を傾けなかったのかも知れません。


でもいよいよ臨終にあたり、


「このまま俺は地獄に堕ちるしかないのか!」と


もがき苦しんでいる時に、


「地獄には往きたくなかろう。


極楽へ往きたいとは思わないか?


極楽へ往きたいならば、阿弥陀さまにすがって


南無阿弥陀仏と称えよ」と教えられるのです。


「この俺が極楽へ往けるのか?


親まで殺したんだぞ」


「いや、阿弥陀さまのお力を信じなさい。


間違いないから」と諭されます。


「本当か?俺が救われるんだな!」


と喜んで「南無阿弥陀仏」と


大悪人は称え始めます。


その念仏が十遍に達したところで


その大悪人は事切れるのです。


大悪人は臨終間際にお念仏を勧められて、


自らお念仏を称えた結果、極楽へ往生しました、


と「下品下生(げほんげしょう)」に説かれています。


さて、これをどのように理解したらよいでしょうか。


2021年3月24日水曜日

三義校量(さんぎきょうりょう) ④ 悪人往生に対する疑問

(本文)


先(ま)ず牽(ひ)くの義、理に於いて如何ぞ。


又曠劫(こうごう)より已来(このかた)、


備(つぶさ)に諸(もろもろ)の行を造りて、


有漏(うろ)の法は三界(さんがい)に


繋属(けぞく)せり。


但(ただ)十念阿弥陀仏を念じたてまつるを以て


便(すなわ)ち三界を出(い)ず。


繋業(けごう)の義、復(また)


云何(いかん)せんと欲する。




(現代語訳)


では「重い方に傾く」という道理はどうなりますか?


また人は遙か昔から数々の行いをして、


その煩悩の身はみな迷いの世界に縛り付けられています。


それがたった十遍の念仏で、


迷いの世界から抜け出せるといいます。


それならば、悪業によって


苦しみ迷いの世界に縛り付けられるという理屈を


どう考えたらよいのでしょうか。






「一生悪の限りを尽くしてきた悪人が、


たった十遍の念仏で極楽へ往けるっていうのは


どう考えてもおかしいじゃないか。


『業道経(ごうどうきょう)』というお経には、


業(ごう)は秤のようなものであると記されている」


というのです。


業(ごう)は秤のようなもので、重い方に傾く。


普通に考えると、一生悪い行いをしてきた人の業の方が


重いはずである。


たった十遍の念仏の方が重いのは


おかしいのではないか、との疑問です。


とても真っ当な疑問だと思われます。


2021年3月23日火曜日

三義校量(さんぎきょうりょう) ⑤ 疑問に対する回答

(本文)


答えて曰わく、汝五逆(ごぎゃく)・


十悪(じゅうあく)の繋業(けごう)等を


重(じゅう)と為し、


下下品(げげぼん)の人(にん)の十念を以て


軽(きょう)と為して、


罪の為に牽かれて先ず地獄に堕して


三界(さんがい)に繋在(けざい)すべしと謂わば、


今当(まさ)に義を以て校量(きょうりょう)すべし。




(現代語訳)


答えましょう。


あなたは五逆(ごぎゃく)や


十悪(じゅうあく)の苦しみ迷いの世界に


縛り付けられる行いが重いとし、


下品下生(げほんげしょう)の人の十念を


軽いとみなしています。


その罪によって、まず地獄に堕ちて


苦しみの世界に縛られるのが当然であるのに、


そうではないのが理屈に合わない、


ということですね。


では今その両者の重さを秤に掛けてみましょう。






一生悪の限りを尽くした大悪人の業(ごう)と


その人がお念仏を称えた業はどちらが重いのでしょうか。


『往生論註(おうじょうろんちゅう)』では、


仏法に基づいて、三つの量り方示されています。


これを「三義校量(さんぎきょうりょう)」といいます。


2021年3月22日月曜日

三義校量(さんぎきょうりょう) ⑥ 在心(ざいしん)・在縁(ざいえん)・在決定(ざいけつじょう)

(本文)


軽重(きょうじゅう)の義は


心(しん)に在り、縁に在り、


決定(けつじょう)に在りて、


時節の久近(くごん)・多少には在らず。




(現代語訳)


軽いか重いかを量るには


「心(しん)に在り」「縁に在り」


「決定(けつじょう)に在り」という


三つの理論によるのであって、


時間の長短や多少にあるのではないのです。





大悪人が積んできた罪業(ざいごう)と、


臨終間際に大悪人が称えた念仏の業の


重さを秤にかけます。


その量り方は三つの理論に基づいて行われます。


「在心(ざいしん)」「在縁(ざいえん)」


「在決定(ざいけつじょう)」の三つです。


2021年3月21日日曜日

三義校量(さんぎきょうりょう) ⑦ 在心(ざいしん)その一

(本文)


如何(いかん)が心(しん)に在る。


彼の造罪の人は自ら虚妄顛倒(こもうてんどう)の


見(けん)に依止(えじ)して生(しょう)ず。


此の十念は善知識の方便安慰(ほうべんあんに)に


依りて実相の法を聞きて生(しょう)ず。


一は実なり、一は虚(こ)なり。


あに相(あい)比ぶることを得んや。





(現代語訳)


「心(しん)に在り」というのは


どういうことでしょうか?


ここに登場する五逆(ごぎゃく)・


十悪(じゅうあく)の罪人は、


自らの誤った迷いにとらわれた心を


より所として行動しています。


対してこの十念は、善知識の導きによって、


真実の教えを聞いて念仏を称えるのです。


一方は真実であり、一方は虚妄(こもう)です。


比較にならないのです。






一つ目の量り方を「在心(ざいしん)」といいます。


罪を作る時とお念仏を称える時の


「心」を比べるのです。


罪を作る時は、悪人自身の煩悩まみれの


迷いの心がその出所となります。


一方お念仏を称える時の心は


真実の教えに基づいた心です。


「真実の心」と「迷いの心」では比べるまでもない、


というのです。


9月後半のことば

 9月後半のことば 「多様性 仏の目には 皆凡夫」   近ごろ「多様性」という言葉を耳にしない日はありません。会議でも学校でも、街頭のポスターにすら踊っています。確かに、人は千人いれば千人、百人いれば百人、異なる価値観や性格を持っている。それは事実です。しかし、だからといってその...